205 暗躍
マオールの竜騎兵がイサニアン帝国の国境を突破する少し前。
ガルマニア帝国の帝都ゲオグストの宮殿では、宰相のチャドスがでっぷりと太った若者と向かい合っていた。
長男ゲーリッヒの廃太子に伴い、新たに皇太子となった次男ゲルカッツェである。
やや縮れた赤毛で、それなりに美しい顔立ちをしているが、全くと云っていいほど覇気がない。
成人は過ぎている年齢なのだが、甘えた子供のような目をしている。
チャドスは苛立ちを堪えて、いつものようにゲルカッツェを説得していた。
「身罷られた皇帝陛下の後継者として即位されるには、是非とも報復の軍を率いて、憎きブロシウスの首級を獲らねばなりませぬぞ、ゲルカッツェさま!」
ゲルカッツェもまた、いつものように唇を尖らせ、子供のような口調でチャドスに抵抗した。
「厭だよ! ぼくは血を見るのは苦手なんだ! おまえがやってよ!」
チャドスはすっかりウンザリしていた。
この不毛なやり取りを、いったい何回繰り返したであろう。
傀儡として最適な人物と思っていたが、少しも操らせてくれない。
とにかく面倒なことが嫌いで、そもそも自分から身体を動かすことすらしないのだ。
ゲルカッツェが皇帝になり帝国が固まった後なら、それでも良かったろう。
全て皇帝の命令ということにして、チャドスが仕切ればいいのである。
しかし、今はまだ先帝ゲールの頃からの家臣や軍人がそっくりそのまま残っており、かれらの疑惑の目が注がれている。
当然だが、積極的にゲルカッツェを支持する者など誰もいない。
かれらを納得させるような手柄が必要だった。
と、半ば開いていた窓から、ヒラヒラと何かが飛んで来た。
灰色のコウモリであった。
「ん? 何だ、こいつは?」
不審の声を上げるチャドスの前で、灰色のノスフェルはクルリと宙返りして、人間の姿になった。
長い銀髪の妖艶な美熟女である。
ゆったりした灰色の長衣を身に纏っている。
チャドスは、不本意ながらもゲルカッツェを庇うように前に立ち、「何者だ!」と誰何した。
美熟女は、少しも慌てずに微笑んだ。
「わたしは、新バロード聖王国のカルス聖王の御使い、ドーラと申す者。チャドス閣下、どうぞお見知り置きを」
チャドスは、本来の疑問を忘れ、その言葉に引っ掛かった。
「聖王国? 聖王?」
「ええ。国内が落ち着きました故、この度、カルス陛下は正式に聖王となられ、国名も聖王国に改められましたのじゃ」
国内が落ち着いた、というのは嘘である。
だが、そこはチャドスには関係のないことだ。問題は別のところにあった。
「それは、中原全体を支配する、という意思表示か?」
かつて、古代バロード聖王国は中原のほぼ全域を支配下に置いていた。
今、バロードが聖王国を名乗るのは、その昔の状態に戻るつもりと思われても仕方がないだろう。
ドーラは微苦笑を浮かべた。
「時代は変わりましたぞえ、宰相閣下。中原全てを一つの国家が統べるのは現実的ではありませぬ。カルス陛下も王政復古以前から常々仰られておりましたが、東西二分割が適切というもの。バロードは西の半分を、そして、東の半分を」
皆まで言わず、ドーラは目でチャドスに伝えた。
つまり、表面はどうあれ、実質的にガルマニア帝国を牛耳るであろう男に、中原の東半分を支配せよ、と言っているのである。
チャドスも、それがわかって苦笑した。
「ふん。どうせ同じことをブロシウスめにも言ったのであろう。予想に反してあやつが使い物にならぬと見て、こちらに乗り換えるつもりか?」
ドーラは、ホホホと声を上げて笑った。
「正直に申しましょう。さすがにご慧眼、閣下のお見立てどおりでございまする。じゃが、まあ、わたしたちと閣下の利害は一致していると、考えておりますぞえ」
つまり、暗に、ゲールを亡き者にしたことがお互いの利益になったろう、と言っているのだ。
ゲルカッツェの手前、そこに話題が向くことは望ましくないと、チャドスは話を逸らした。
「しかし、よくここまで入って来られたな」
ドーラもその話の流れに乗った。
「ふふ。周辺は大勢の衛士以外にも、十重二十重と東方魔道師の結界が張られておりましたが、わたしの理気力の方が勝っておりましたわいのう」
また触れて欲しくないことを言われ、チャドスは苦い顔をした。
「まあ、よい。それより、このような提案、本来なら易々と受ける筋合いではないが、今は皇帝陛下が空位の非常事態。全面的に了承はできぬが、当面は互いに不可侵としてもよかろう」
ドーラは満足げに微笑んだ。
その手に、いつの間にか指輪が出現していたが、誰にも気づかれぬまま、スッと消えた。
「おお、有難き幸せ。カルス陛下も、さぞやお喜びになりましょうな。あ、そうそう。この後の、ゲルカッツェ殿下の御武運を、陰ながらお祈りいたしておりますぞえ。それでは、ご機嫌よろしゅう」
ドーラは、その場でクルリと宙返りすると、再び灰色のノスフェルとなって、ヒラヒラと窓から飛んで行った。
「ふん、魔女め!」
吐き捨てるように言って、チャドスが振り返ると、ゲルカッツェが顔を赤くしてドーラの消えた窓の方を見ていた。
「でも、綺麗な人だったね」
チャドスは「ほう」と呟き、ニヤリと笑った。
ガルマニア人の女性はゴツい体型の者が多く、美人が少ないと云われているのだ。
「ゲルカッツェさま。マオールにも美女は沢山おりますぞ。何でしたら、お妃の候補を二三人お連れしましょう。ですが、そのためにも、今回は出陣していただかねばなりません。なあに、形だけでよいのです。既に、マオールの竜騎兵を手配しております。われらの勝利は確実です。殿下はただ、そこへ行かれるだけでよいのです」
ゲルカッツェは少し考えていたが、いつもとは違い、首を縦に振った。
「いいよ、ぼく行くよ。ところで、マオールの美女って、さっきの人より綺麗かなあ?」




