198 暁の女神
それからのマリシ将軍の回復は驚異的であった。
勿論、毎日ニーナが訪れて来ているのである。
その傍には、常にマーサ姫がいた。
さすがに真っ赤な甲冑は脱ぎ、ゆったりした女性的な服を着ている。
そして今日は、ケロニウスも見舞いに来ていた。
「正に、これぞ奇跡じゃのう。人と戦ったり、人の秘密を暴いたりするばかりが魔道ではない、ということじゃな」
ニーナは恥ずかしそうに、頬を染めた。
「わたしはこれしかできませんので。それより、兄にご用事でしょう?」
「おお、すみませぬ。よろしいかの?」
ニーナの顔が上下し、瞳の色が鮮やかなコバルトブルーに変わった。
「おれに用とは、バロン大公の件ですね?」
「うむ。丁度マリシ将軍もマーサ姫もおられる故、一緒に聞いていただきたいがよろしいか?」
マリシは寝台に横になったまま、「おお、どうぞ」と答えた。
だいぶ確りした声になっている。
マーサ姫は「アーロン閣下もお呼びしましょうか?」と気を利かせたが、入口から「もう来ておりますよ」と返事があった。
ケロニウスが呼んだらしく、微笑んで頷いた。
「では、皆さま、よろしいかの?」
先ずは、マリシ将軍のご快復をお喜び申し上げる。
さは然り乍ら、北長城についてはお諦めいただくしかございますまい。
北方は、今後人の住めぬ土地になるでしょうから、敢えて近づかねば、ある程度放っておいても大事ないでしょう。
但し、その名を口にすることを憚る例ものが長城を越えて来る虞は、やはりございます。
そうなれば、最早人間の力でどうなるものでもないでしょう。
その兆候が少しでも見えたら、畏れながら辺境伯領の皆さまは中原に逃げていただくより他にございません。
いずれにせよ、今後は中原側に拠点が必要となる、ということでございまする。
わしは、現在ゾイア将軍の留守部隊が詰めている、かつての『暁の軍団』の砦跡が宜しかろうと考えております。
北方警備軍千名を受け入れて、このクルム城も手狭になっておりますから、今のうちに幾らか向こうに移しても良いでありましょう。
難点はバロードに近過ぎることですが、向こうさえ了承してくれれば、休戦協定を結んではどうかと存じまする。
まあ、何と言っても親子であられますからのう。
そして、その地で正式にバロン大公に即位され、大公国を建国されれば良いのです。
これは、バロードに敵対するためではなく、辺境が危機に陥った際の、住民と兵士の受け入れのためです。
そこをカルス王に、充分に納得してもらう必要がございますが。
勿論、クジュケやゾイア将軍の意見が聞ければ良いのじゃが、いつまでも待ってはおれませぬからの。
皆さま、如何であろうか?
アーロンは生真面目な顔を苦しげに顰め、「辺境は、いずれ捨てねばなりませぬか?」とケロニウスに問うた。
「おお、無論、例のものがこれまでどおり、北長城の内側に留まってくれれば、辺境に逃げて来るはずの蛮族はもうおらんのですから、逆に万々歳なのでしょうがのう。如何せん、これまでの歴史になかったことが起こり過ぎて、わしにも全く予測がつかんのです」
黙って考え込んでしまったアーロンに替わり、今度はニノフがケロニウスに尋ねた。
「話を変えて申し訳ないのですが、おれはずっと引っ掛かっていることがあります。クジュケどのが提言されたバロン大公国という名ですが、王都バロンを意識させ、徒に父の猜疑心を刺激しませんか?」
これには、マーサ姫も同感のようだった。
「つまり、いずれバロンを手に入れる野心があるのではないか、と疑われるということですね」
ケロニウスも「成程のう」と頷いた。
「それに、縁起も悪いかもしれませぬな。バロン大公国は、元々古代バロード聖王国末期に領土を維持できなくなり、周囲がそれぞれ独立国となって、王都バロンとその周辺だけが残されたのが始まりですのじゃ。最後の聖王ボルスは、王の位も捨てて大公となりました。それでも周辺国の圧迫は止まず、堪えかねたボルス大公は一人で出奔し、魔道師の都エイサに逃げ込んだのですじゃ。そのためバロン大公国は僅か数年しか保ちませなんだ。うーむ、クジュケもそこまでは考えておらんかったかもしれませんのう」
ニノフは苦笑し、「縁起はともかく、名称の別の候補はありませんか?」と聞いた。
すると、マーサ姫が「砦の辺りの地名を採ってはどうでしょう」と提案した。
天井を見上げて考えていたケロニウスは、パッと表情を明るくした。
「おお、そうじゃった。あの辺りは確か暁の女神という地名でしたのう。『暁の軍団』という名も、それに因んでおるそうです。エオス大公国、うむ、いいではありませぬか! これならクジュケも文句はありますまい」
その少し前。
商人の都サイカでは、そのクジュケが置き手紙だけを残していなくなったことで、ロックが激昂していた。
「何だよ、この『ゾイア将軍の有力な手掛かりが見つかりましたので、捜しに行きます』ってのは! なんで、おいらを置いてけぼりなんだよ!」
一行はまだライナの屋敷に居候中だが、ギータだけは自宅に戻り、そこへタロスとツイムが剣術の稽古に行っているため、残っているのはロックとウルスだけであった。
「ぼくらに言わずに行ったのは、何か理由があると思うよ」
年齢が近いためか、二人は急速に仲良くなっていた。
また、ウルスの方からも、殿下などと呼ばないでくれと言ってある。
「ウルスはおっさんと一度しか会ってねえだろうけど、おいらは親友なんだぜ! あの尖がり耳野郎め、まだ、おいらを疑ってやがるんだ! もう憑っつかれてなんかいねえよ!」
その時、屋敷の使用人が来客があると伝えに来た。




