195 野人太子
ガルム大森林の最南端は南の大海に突き出た岬になっており、沿海諸国以外では珍しい海港を持った自由都市がある。
以前、ガルマニア帝国の軍旗を掲げる軍用船に乗ったウルスも、ここから上陸して森林地帯を抜け、当時の帝都ゲオグストに至った。
今、そこに十隻の軍用船が接岸し、大勢のマオール人兵士が上陸していると、ゲール皇帝の長男ゲーリッヒが暴露したのである。
恐らく、沿海諸国を威圧していたあの船団が、頃は好しと見て、こちらに回って来たのであろう。
一瞬、返答に窮していたチャドスは、すぐに開き直った。
「勿論、そもそもは今は亡き皇帝のご指示でございました。今後、西のバロードや辺境伯と戦うには、西廻り航路から海軍で攻めるのが有効な戦略です。そのためには、中継地として沿海諸国を押さえて置かねばなりません。そこで、本国からわたしが艦隊を呼び寄せたのです。先日から沿海諸国に圧力をかけ、こちらの勢力下に入るよう説得しておりました」
チャドスは、チラリと横目でゲルカッツェの顔色を窺って何も変化がないことを確かめると、安心したように話を続けた。
「ところが、このような事態となり、何よりも先ずは弔い合戦に勝つことが肝要と、船を繋留して、兵士だけでもこちらに合流させるよう手配したのですよ」
正に死人に口なしであるが、皇帝の名を出されれば、表立っては反論できない。
ゲーリッヒも両方の眉を上げて、恍けた顔をして見せた。
「それならいいけどよ。おれの聞いた話でも、確かにその艦隊は沿海諸国に圧をかけてたらしい。だが、ガルマニア帝国の、じゃなく、マオール帝国の属国になれ、と言ったらしいぜ」
最早チャドスはいつもの不遜な態度を取り戻し、細い目を更に細め「誤解でしょうな」と突っ撥ねた。
ゲーリッヒは肩を竦めた。
「まあ、そうだろう。じゃあ、精々頑張って親父の仇を討ってくれよ、ゲルカッツェ」
いきなり自分に振られた次男ゲルカッツェは、太った体を震わせ、子供のように駄々を捏ねた。
「やだよ! どうしてぼくがやんなきゃいけないんだよ! 兄上がやってよ!」
ゲーリッヒは日に焼けた顔から真っ白な歯を覗かせて笑った。
「心配することはねえさ。チャドスが上手くやってくれるさ。おまえははデンと構えてりゃあいいんだ。何なら、皇太子の位もおまえにくれてやるよ。血筋はおまえの方がいいんだからな」
その提案は魅力的だったらしく、ゲルカッツェは黙った。
チャドスもこの機を逃さず、「宜しいのですか?」と念を押した。
ゲーリッヒは屈託のない笑顔で頷いた。
「いいともさ。元々おれは親父が森の民に産ませた落とし子だ。普通なら正妻の子であるゲルカッツェが皇太子になってるはずだ。それが、親父の気まぐれでこうなっただけさ。まあ、尤も、最近じゃ、下の弟のゲルヌの方がお気に入りで、いずれ皇太子はそっちになるかもしれなかった。そのゲルヌもあれ以来行方不明だ。ゲルカッツェ、おまえはホントに運がいいな」
本人もそれは自覚しているのか、ゲルカッツェは顔を赤くしている。
恐らく、ゲールが生きていれば、かれを後継者にすることはなかったであろう。
チャドスは狡そうな笑顔でゲーリッヒに尋ねた。
「殿下はこれからどうなさるおつもりですか?」
「おれかい? そうだな。この際、いっそ森の民に戻って、一日中狩りをして暮らすかな。宮廷は窮屈でおれの性に合わない。おれは自由に生きるよ」
ゲーリッヒは悪戯っぽい笑顔になって、続けた。
「だから、チャドス宰相閣下に頼みがある」
「はて、何でございましょう?」
「もう刺客は差し向けねえでくれ。一々返り討ちにするのも面倒くせえんだ」
チャドスは表情を消した。
「何を仰っているのか、全く意味がわかりませんな」
ゲーリッヒは笑ってポンポンとチャドスの肩を叩いた。
「誤解ならいいんだ。まあ、そういうことで、後は任せたぜ」
ゲーリッヒはそれだけ言うと、動物の毛皮を繋いだ珍妙な服を翻し、来た時と同様、あっという間にいなくなった。
チャドスは、ゲーリッヒが叩いた肩の辺りを手で払い、小さな声で「野人め!」と吐き捨てた。
その頃、遥か西の辺境では、もう一人の落とし子ニノフが、漸くバロン大公への即位を決意し、辺境伯アーロンの後ろ盾で亡命政権を立ち上げようとしていた。
ゾイアを捜すため留守のままの元参与クジュケの代わりに、外交文書の作成などを手伝っているのは、魔道師のケロニウスであった。
そこへ、ゲールの死が伝わって来たのである。
「信じられん!」
そう叫んだのは、ケロニウスの方であった。
「ブロシウスめは、気でも狂ったのか!」
年甲斐もなく感情を昂らせているケロニウスを、若いニノフが宥めた。
「まあ、落ち着いてください、老師」
「殿下のお言葉ながら、これが落ち着いていられましょうか! 千年の戦乱を鎮めるには、強国の後押しをして中原を統一させるべきだと、聖職を擲ってまで軍師となった男が、自ら謀叛を起こすとは!」
「止むに止まれず、ということもございましょう。ゲールは残虐非道の皇帝と聞いておりますし」
ケロニウスは猶も納得できないように首を振っていたが、そこへアーロンが入って来た。
「如何されました? 部屋の外まで老師の声が聞こえていましたが」
ケロニウスは少し恥ずかしそうに、頭を下げた。
「ああ、申し訳ございませぬ。わしとしたことが。兄弟子の暴挙に激昂してしまいましたわい」
「おお、そうですね。わたしも驚きましたよ」
ホッとした様子のアーロンが何か紙のようなものを手にしているのを、ニノフが目敏く見つけ「手紙ですか?」と尋ねた。
「はい。クジュケどのから知らせが来ました。弟君と出会ったそうです」
「えっ、ウルス王子とですか!」




