192 覚悟
ガルマニア帝国皇帝のゲールが最初に異変に気づいたのは、血の臭いであった。
建設中の新帝都ゲルポリスにおいても、ゲールは欠かさず双剣術の稽古をしている。
かつてウルス王子を即位させるために美々しく改修したバローニャの屋敷を全て取り壊し、殺風景な板張りの道場に造り替え、そこで毎日鍛錬を続けているのである。
その朝も、自分の身長程もある大剣二本を両手で振り回し、淡々と日課の修練を熟していた。
危険なので、終わるまで誰も近づかないように言ってある。
激しい動きに真っ赤な髪は乱れているが、その横顔はハッとするほど秀麗であった。
ふと、ツンと鼻をつく血の臭いがしたため、ゲールは自分が夢中になり過ぎて怪我でもしたのかと思い、大剣を置いて確かめた。
どこにも傷はない。だが、臭いは強くなった。
「誰だ?」
臭いのする方へ声を掛けると、物陰から旅の吟遊詩人の恰好した男が、ヨロヨロと這うようにして出て来た。
際立った特徴のない顔をしている。
「おお、カノンか。如何した?」
最近はずっとブロシウスと行動を共にしていた魔道師のカノンであった。
顔色が悪く、服の一部に血が染み出ていた。
「も、申し訳ございません。不覚でした。万死に値します」
ゲールは少し苛立った顔をした。
「事実のみ述べよ!」
「はい。皇帝陛下のご下命により、わたしは軍師ブロシウスに近づきました」
「わかっておるわ! 要らぬことは言うな! それで、謀叛の証拠は掴んだのか!」
「いえ、畏れながら、証拠どころか、三万の兵を率いてすぐ近くまで迫って来ております」
ゲールはスッと離れて、大剣を一本持って来た。
それを構えると、寧ろ静かにカノンに告げた。
「そこへ直れ。その首、叩き斬る」
「暫し、お待ちを。お伝えすべき情報はまだ終わっておりませぬ」
「無用!」
そのまま大剣を振り下ろそうとしたが、ゲールは途中でピタリと止めた。
「よかろう。聞くだけ聞いてやる」
半ば諦めて目を瞑っていたカノンは、再び目を開いた。
「はっ! 有難き幸せにございます。ブロシウスめはわたしと同じ魔道師上がりであるためか、考え過ぎるところがあります。バロード側から、あの手この手で揺さ振りをかけて来ておりましたが、踏ん切りがつかないようでした。場合によっては、このまま陛下にお仕えし続けるつもりかもしれぬとさえ思いました」
「回りくどい! もっと端的に申せ!」
「はい。バロードに攻め掛かるか、引き返すか迷っているブロシウスの許に、帝国から催促の使者が参りました。そのこと自体は、陛下の命によるものでしょうが、使者であるチャダイの態度は、傲岸不遜そのものでした。ブロシウスは心理的に追い詰められました。そこにまた、バロード側の使者が来たのです。今にして思えば、その結果を見届けるべきでしたが、わたしはチャダイの方が気になり、その跡を尾けることにしました」
怪我で意識が朦朧としているのか、カノンの話は繰り言が多い。
ゲールはまた苛立ってきた。
「結論を言え!」
はっ。
チャダイは、陛下に当たり障りのない報告をした後、宰相のチャドスのところへ行って密談いたしました。
その内容は驚くべきものでした。
先の宰相ザギムが謀叛を起こすよう誘導し、しかも失敗させたこと。
今回は、逆にブロシウスの叛乱を後押しし、ご無礼ながら陛下を亡き者にしようとしております。
その後、ご次男ゲルカッツェ殿下を担いでそのブロシウスを倒し、マオール帝国の傀儡政権を作ろうとしております。
わたしは、すぐに陛下にご報告しようと跳躍いたしましたが、既にゲルポリス周辺はチャドスの配下の東方魔道師たちによって封鎖されておりました。
東方魔道はわれわれのものと少し違うため、中々侵入できずにいるうちに、遂にブロシウスが反転し、こちらに向かって急行しているとの情報が伝わって参りました。
わたしは焦り、強行突破したのですが、手傷を負ってしまいました。
このような仕儀となり、本当に申し訳ございません。
どうか、ご存分に!
首を差し出すカノンを、しかし、ゲールは斬らなかった。
「ブロシウスが刃向かう可能性があることは、余にもわかっていた。故に、おまえを付けたのだ。だが、チャドスについては、読み違えた。あやつの有能さと、マオールからの惜しみない援助に目が眩んだ。こうなったのは、誰のせいでもない。余の甘さだ」
カノンは顔を上げた。
滂沱と涙が溢れていた。
「陛下! 宜しければ、このカノン、生命に換えても陛下の脱出をお手伝いいたしまする!」
ゲールは滅多に見せない笑顔となった。
「無用だ。余は、余個人の力によってわが帝国を支えてきた。ここで逃げれば、死ぬよりも悪い結果となる。瞬時に帝国は瓦解するであろう。余が死ぬのも、また定め。それは構わぬ。だが、おまえができるのなら、頼みたいことが一つ、いや、二つある」
「はっ、何なりと!」
「余はこの新帝都を見せたくて、三男のゲルヌを連れて来てしまった。あれはまだ子供だ。何の罪もない。何としても、逃げ延びさせてくれ」
「御意! 身命を賭しても、ゲルヌ殿下をお助けいたします!」
この時、ゲールは、恐らく生まれて初めて他人に頭を下げた。
「頼む。ゲルヌは賢い子だ。どのような状況でも、そこで生きて行けるだろう。だが、でき得れば、平凡な庶民として暮らさせてくれ」
「ははっ! して、今一つは?」
穏やかな父親の顔になっていたゲールが、忿怒の表情に変わった。
「余は戦う! 易々と殺られるつもりはない! しかし、多勢に無勢、万に一つの勝ち目もないであろう。だが、薄汚い裏切り者どもに、この首級を渡しとうはない! 何としても持ち去ってくれ!」
「ははーっ!」
カノンが去った後、ゲールは大剣二本を両手に持った。
そして、また淡々と日課の修練を続けたのである。




