170 教主サンサルス
ベルギス大山脈の麓にあるプシュケー教団の聖地シンガリアは、自由都市という訳ではなかった。
住民は一万人を超えるが、常に流動しており、定住しているのは、教団上層部の僅かな人間だけである。
従って、固定した住居は木造の教団本部のみで、一般の住民は、他の地域では見られない丸い形の天幕に住んでいる。
ウルスたちもその一つを貸し与えられているが、いきなり教団本部に来るように言われ、戸惑っていた。
伝言しに来た青年が帰ると、ウルスは不安な顔でタロスに問うた。
「どうする?」
「まあ、行くしかないでしょう。ギータとツイムが戻り次第、全員で参りましょうか」
そこへ、楽しげな話し声が聞こえてきた。
剣術の稽古をしていた二人が帰って来たようである。
天幕の入口が開き、すっかり日に焼けたツイムが笑顔を覗かせた。
手には木剣を持ったままだ。
「只今戻りました。今日も、十勝十敗、引き分けです」
その後ろから、ツイムの半分しか身長がないボップ族のギータが、皺だらけの顔をさらにクシャクシャにして、「なんの、大怪我から回復したばかりの相手に、わしが手加減してやっておるからさ」と笑った。
だが、タロスから先程の話を聞いて、二人とも笑顔が消えた。
ギータはクリッとした丸い目を瞬かせて考えていたが、フッと独り言のように「バレたかのう」といった。
四人は同じ村の仲間で、エイサに巡礼に行った帰り路、野盗に襲われて連れが怪我をしたということにしているのだ。
タロスは小さく首を振った。
「わかりません。しかし、わたしたちは居候の身。大家が来いと言えば、行かざるを得ないでしょうね」
この旅で、すっかりタロスと意気投合したツイムは、励ますように声を掛けた。
「大丈夫さ、タロス。おまえとおれとギータ師匠の三人で、百人隊くらいの力はある。滅多に引けはとらないさ」
タロスは苦笑した。
「ギータは師匠で、わたしはおまえか」
ギータも笑って「そうじゃ、おぬしも少しはわしを尊敬しろ」と言ったが、すぐに真顔に戻った。
「ここで心配しても始まらん。わしも、その教主サンサルスという人物には前々から興味がある。皆で行こうではないか」
ウルスの顔が上下し、瞳の色が変わった。
「行きましょう。場合によっては、わたしがお話しするわ」
これにはツイムが慌てた。
「いけませぬ! 戴冠式の時のことをお忘れか!」
ウルスラは少し悲しそうに「そうね」と俯き、顔を上げると、瞳の色がコバルトブルーに戻っていた。
四人は手早く身支度を整え、教団本部に向かった。
シンガリアでちゃんとした建物はここしかないから、迷うこともない。
木造ではあるが、極めて大きなものだ。
祭事などにも使うのであろう。
その正面の大きな入口の横に、人ひとりが通れるくらいの小さな扉があり、先程の青年はその前で待っていた。
「どうぞ、こちらへ」
四人は促されるままに中に入り、狭い廊下を奥に進んだ。
何度か角を曲がり、奥まった一室の前に着いた。
青年が室内に向かって「お連れしました」と声を掛けると、意外に若い男の声で「どうぞ」と返事があった。
青年が戸を開けると、思いの外狭い室内に質素な机が一つだけポツンとあった。
そこに座って書き物をしているのが、教主サンサルスであろう。
女のような長くサラサラした銀髪をしており、その髪から出ている耳の先が少し尖っている。
案内の青年が「では、わたくしはこれで」と立ち去っても、そのまま黙って頷くのみであった。
四人が室内に入り、戸が閉まったところで、漸く書き物の手を止め、フッと顔を上げた。
年齢の見当がつかないが、この世のものとも思えぬような美しい顔をしている。
瞳の色は煙るような淡い紫であった。
「おお、お呼びたてしましてすみません。奥に会議室がございます。そちらでお話しいたしましょう」
サッと立ち上がり、自ら奥へ繋がる扉を開いた。
裾の長い上着が、ヒラヒラと動く。
奥には円卓があり、十名は座れるようだ。
サンサルスは先に席に着き、「みなさまもどうぞ」と勧めた。
ウルスが「はい」と応えて向かい側に座ると、自然に両脇を囲むようにタロスとツイムが座り、その横にギータが座った。
サンサルスは、それを見てニッコリ笑った。
「お初にお目にかかります、ウルス王子。それとも、ウルスラ王女とお呼びするべきでしょうか?」
その頃、ワルテール平原では、休ませていた寝台からロックの姿が消え、騒ぎになっていた。
ゾイアたちはすぐに周辺を捜したがどこにもいない。
外部から大天幕に人が入った痕跡はなく、どうやら、一人で目を醒まし、幕の下を捲って出て行ったらしい。
「そう遠くへ行くはずはないのだが」
心配そうな様子のゾイアにケロニウスが詫びた。
「すまぬ。憑依が解けた後、偶に記憶を失う者がおる。無論一時的なもので、時間が経てば元に戻ると思うが」
ゾイアは頭を振った。
「いや、責任はわれにある。あれほど身近にいながらロックの異変に気づかず、放置してしまったのが全ての原因だ」
ペテオが傍に来て、慰めるようにゾイアの肩に手を置いた。
「心配することはねえよ。大将がいっつも言ってるじゃねえか。ロックはズバ抜けた生き残り能力の持ち主だってな。記憶が戻れば、自分で帰って来るさ」
ゾイアは肩に置かれたペテオの手を握った。
「頼みがある。老師たちとニノフ将軍の機動軍を辺境に案内してくれぬか」
「えっ、大将はどうするつもりなんだ?」
「われはもう少し残り、ロックを捜す。見つかり次第、二人でおまえたちの後を追う」
「だったら、おれが残るよ。あんたは大将なんだぜ」
「いや、われの責任だ」
押し問答をしているところへ、マーサ姫が帰って来た。
「よいではないか、ペテオ。ゾイアの好きにさせてやれ。ついでに近郊を調べたが、そろそろバロード側の斥候も来ておるようだ。逃げるなら、早い方がいい」
ゾイアが頭を下げた。
「そのとおりだ。出発の段取りは、われがつける。だから、その後のことは頼む」
ペテオは渋々頷いた。
「まあ、大将のこった、心配は要らねえと思うが、用心するんだぜ」
「おお、すまない。では、早速ニノフ将軍と打ち合わせをし、おまえの指示に従うように伝えよう」
ペテオは、半分嬉しそうに苦笑いした。
「ちと荷が重いが、やるしかねえな」
だが、その後、ゾイアも行方不明になるとは、ペテオには知る由もなかった。




