157 ワルテールの会戦(7)
ボローが運び込まれたという天幕に入った途端、ニノフは血の匂いで鼻を殴られたような気がした。
閉め切ってあるため中は薄暗く、漸く奥に人の形が見えるくらいで、ボローかどうかすらわからない。
「ニノフ、なのか……?」
掠れた声とともに、身体を動かす気配がした。
「起きなくていい。寝てろ、ボロー」
「何の、これしき、か、擦り傷さ」
「もう喋るな」
ニノフは一旦外に出て、「おれがいいと言うまで、誰も中に入れるな!」と命じた。
天幕の中に戻ると、ボローの傍に寄って膝をついた。
少しずつ暗さに目が慣れ、ボローの様子が見えてきた。
応急の手当てはしてあるようだが、傷を覆った晒しの布が血でジュクジュクに濡れている。
言葉を失っているニノフに、ボローが詫びた。
「すまんな。こんな姿になっちまって」
「いいから、暫く目を瞑ってろ」
「ああ、そうするよ」
ボローは苦しそうに息をしていたが、ニノフの声を聞いて少し安心したのか、そのまま寝入ったようだ。
と、ニノフの顔が上下した。薄暗がりで見えにくいが、瞳の色が灰色に近くなっている。
「可哀想に」
そう呟いた声は、女のものであった。
スッと手を伸ばすと、ボローの身体の上に翳した。
掌から見えない力が出ているようだ。
「わたしにできる魔道はこれだけ。役に立つといいのだけれど」
ほんの僅かの時間であったが、ボローの寝息が安らいだ。
そこへ外から、抑えた声ながら切迫した口調で、「畏れ入ります、ニノフ将軍」と聞こえて来た。
顔を上下させると、いつもと変わらぬニノフの声で「何だ?」と聞き返した。
「はっ。北方警備軍二千、敵と交戦状態となりました。当方からの出撃の兵数は如何いたしましょう?」
ニノフは少し考え、「三千、いや、二千でよかろう」と告げた。
と、寝ていたはずのボローが、ニノフの腕を掴んだ。
「軍略の基本を忘れたのか、ニノフ? おまえが教えてくれたことだぞ」
ニノフは驚いて、ボローを見た。
まだ少し苦しそうだが、先程より声が確りしているようだ。
軍略の基本とは、戦力の集中投下のことである。
集団同士の戦いでは、単純化して云えば、結局人数が多い方が勝つ。
そのためには、相手以上の兵力を集中して投下すべきである、という考え方だ。
逆に、今ニノフがやろうとしているように、細切れに兵を送るのは、戦力の逐次投下というもので、下策とされている。
ニノフは外の部下に聞こえぬよう、小声で告げた。
「忘れた訳ではない。ここの安全を確保するためだ」
ボローは微かに首を振った。
「おまえらしくもない。おれの身の心配など要らぬことだ。援軍が来た今の好機を逃すな。全軍を投入しろ」
ニノフは唇を噛み、自分を鼓舞するように拳で自分の腿を打った。
「わかった。全軍で出撃する。その代わり、ボローに命令を下す」
ボローは苦笑した。
「戦えと言われても、今はちょっと無理だぜ」
だが、ニノフは真面目な顔で、ピンと背筋を伸ばした。
「ボロー副将! おれが戻って来るまで、絶対に死ぬな! これは命令だ!」
ボローは泣き笑いのような顔で、「随分厳しい命令だな。まあ、なんとか、やってみるよ」と応えた。
ニノフは、ボローの手を固く握り、「待っていろよ。必ず勝つ」と告げると、返事を待たずに天幕を出た。
込み上げて来るものを、グッと堪える。
出撃の兵数を訊いてきた部下を見つけると、「命令変更だ! 残っている全軍四千で出撃する!」と告げた。
「守備隊は、如何しますか?」
「要らぬ! その前に敵を潰す!」
「はっ!」
いつになく昂った様子のニノフに、部下たちの士気も上がった。
ニノフは甲冑を纏い、騎乗すると、細い身体に似合わぬ大音声で命じた。
「これより蛮族軍に向け、全軍出撃する! 機動軍、奮励せよ!」
ワルテール平原に、鬨の声が轟いた。
同じ頃、炎から脱出したペテオの軍二千は、再び蛮族たちの罠に遭遇していた。
先行する騎兵部隊の馬が、次々に悲鳴のような嘶きを上げ、倒れ込んだのだ。
その脚には、踏むとガチャンと閉じる鉄の輪が食い込んでいた。
ペテオは、「全軍、その場を動くな!」と命じたが、その頭上からまた、あの鏃を重くした矢が降って来た。
「くそっ、どこまでおれたちを舐めてやがるんだ!」




