1409 ハルマゲドン(65)
そして、長かった夜が明けた。
一晩中スカンポ河の全流域に聖水の雨を降らせ続けたウルスの翼竜は、その限界を迎えようとしていた。
朝焼けに照らされる翼竜の喉の辺りから、警告音が鳴ったのである。
「……物質処理能力が負荷過熱状態です。これ以上続行すれば機能停止し、最悪の場合、初期化します。直ちに作業を中止してください……」
限界なのは、ウルス自身も同じであった。
姉のウルスラと同じ身体に居る時には、交替で眠ることもできるのだが、誘拐事件以来、殆ど眠れぬままなのである。
翼竜の形態では喋ることもできないため、喉の音声に応えることはなかったが、その目がトロンと閉じかけており、徐々に失速して河面に墜落しそうになっては急上昇する、ということを繰り返していた。
が、遂に眠気に耐え切れず、ザブンと水に入ってしまった。
「あっ!」
自分の声に驚いて跳ね起き、起きたことによって、自分がもう翼竜でないことに気づいた。
「え? 夢?」
そう自問したものの、翼竜であったのが夢でないことは自分でもわかっていた。
「あ、戻ったんだ」
そう言って顔を上下させると、鮮やかなコバルトブルーの瞳の色が限りなく灰色に近い薄いブルーに変わった。
「お帰りなさい、ウルス。そして、ご苦労さま。あなたの活躍は各地から報告が入っていたわ。それで一安心して、ちょっと横になったのだけれど、ウトウトしかけたところで、あなたが戻って来たのを感じたわ」
顔が上下した。
「そうかあ。あ、でも、二人ともここに居るってことは、ゾイアの身体はどうなったんだろう?」
「問題はそこね。ゾイア本人に戻ったのならいいけど」
「ま、まさか」
「確かめるしかないわ。あなたは疲れてるでしょうから、寝てていいわ」
「そうは行かないよ。最後に飛んでた場所を姉さんに教えないと」
「わかったわ。じゃあ、案内して」
ウルスラは手早く身支度を整えると、エオスの大公宮を飛び出した。
因みに、ニノフたちも全員出払っているため、簡単な書置きだけを部屋に残してある。
朝日の中を飛行しながら、ウルスラは時々ウルスに確認した。
「もう少し下流かしら? そう。わかったわ」
と、河面が白く泡立っている箇所を発見した。
「ああ、あそこね。まだ水に潜ったままみたい。あっ、出て来るわ!」
水面が盛り上がり、その頂点がバッと弾けると、滝のように水を滴らせながら、翼竜が上昇して来た。
ウルスラの高さまで上がって来ると空中浮遊しつつ、急速に縮んで人間形に変身した。
「おお、ゾイアね!」
ウルスラが喜びの声を上げたように、そこに現れたのは、擬闘士のような見事な体格をし、ダークブロンドの髪とアクアマリンの瞳を輝かせるゾイアであった。
「すまなかったな、ウルスラ。もう心配は要らぬ。われの迷いは吹っ切れた。われはわれだ。他の誰でもない、ゾイアだ!」
ウルスラは目を潤ませながらも、顔を赤らめた。
「そのとおりよ、ゾイア。でも、お願い。服を着てちょうだい」
ゾイアも苦笑した。
「おお、これはすまぬ。取り敢えず、ここからならアーロンどのの城が近い。お借りしよう」
と、声を出して笑うゾイアの逞しい胸の辺りに、子供の顔が現れた。
「自分の身体に戻れたのはおいらのお蔭だぜ、おっさん。おいらもちゃんと戻してくれよ」
「無論だ。そして、タロスどのもな」
そのジェルマの身体にいるタロスも、眠れぬまま夜を明かした。
自身の身体を乗っ取ったドーラへの怒りと、油断して四万五千のバロード軍を奪われたという自責の念に加え、本来の老人の姿に戻ったアルゴドラスがジェルマの寝台を占領し、轟々と高鼾をかいて眠ったからである。
ツイムが別室を手配すると言ってくれたのだが、見張り役が必要だからと断り、長椅子に横になったものの、まんじりともせずに朝を迎えてしまった。
仕方なく起き上がり、未だに熟眠中のアルゴドラスを見つめて、溜め息を吐いた。
「こうしていると、ごく普通の老人だな。恐らく、野望に衝き動かされていなければ、ドーラとて普通の老女であったろうに。いやいや、同情は禁物だな。そういえば、ツイムたちは上手くドーラを見つけられたろうか?」
心配そうに呟いたところへ、船室の扉が叩かれた。
「起きてるか、タロス?」
「おお、ツイムか。どうだった? ああ、いや、構わぬから入ってくれ」
入って来たツイムの顔色で、不首尾だったのはすぐにわかったが、肩に巻いている晒しの布に血が滲んでいるのを見て、「大丈夫か?」と声を掛けた。
「ああ。おれの傷は大したことねえ。だが、スルージがかなりの深手を負っちまった。何とかおれを連れてここまで跳躍してくれたが、その場でぶっ倒れて、今は医務室で休ませてる」
「そうか。すまん、わたしのために」
ジェルマの小さな頭を下げるタロスに、ツイムは首を振った。
「別にあんたのためじゃねえよ。バロードのためさ。おれだって同じような立場になったかもしれねえからな。とにかく、軍勢を止めようとスルージに緩衝地帯を飛び回ってもらったが、何しろ、月もない夜だ。野営してるだろうから、焚火でもしてるんじゃねえかと思ったが、警戒して火を使わせていないようだった」
「警戒?」
「そうさ。これはスルージの考えだが、あんたの身体にいる限り、ドーラは魔道が使えないそうだ。だから、魔道師に発見されて拘束されることを怖れているはずだ、とな」
「成程。で、見つけたのか?」
「ああ。人間は統制できても、馬は無理だ。嘶く声で軍勢を見つけ、密かに近づいた。が、すぐに哨戒中の兵に発見され、一斉に矢を射られた。スルージはすぐに上昇したが、全ては避け切れず、おれを庇って何本も矢が刺さってしまい、已む無く一旦引き上げることにしたんだ」
「うーむ。そうか。闇夜じゃ、バロード軍にもおまえがツイムとはわからなかったろうしな。が、スルージが飛べないなら、他の魔道師を手配するしかないな」
「わたくしがもう一度行きますよ」
そう言いながら入ってきたのは、無論、クジュケである。
「プシュケー教団が三万の援軍を出してくれましたが、そこへ四万五千が来ては水の泡ですからね。何としてでも、ドーラさまをお止めしなくては」
「すまない、クジュケどの」
またタロスがジェルマの頭を下げた時、その背後から声がした。
「ならば、余も行こう」




