1401 ハルマゲドン(57)
ベルギス大山脈の麓にあるプシュケー教団の聖地シンガリア。
住民は一万人を超えるが、常に流動しており、定住しているのは教団上層部の僅かな人間しかいない。
殆どの住民は他の地域では見られない丸い形の天幕に仮住まいしており、固定した住居は木造の教団本部のみである。
夕暮れ時の残照に映えるその教団本部の前に、クジュケが跳躍して来た。
その表情は険しく、焦燥感が露わになっている。
「ともかく援軍を出してもらわねば……」
迷いを吹っ切るように両の拳を握り緊めると、地上へ降りて本部の方へ歩き出した。
前回ファーンと共に訪れた際、顔馴染みになった門番を見つけ、「ファーンどのにお会いしたいのだが」と声を掛けた。
いきなり教主ヨルムに面会を求めるより、ここはやはりファーンに口添えを頼もうと思ったのであろう。
が、初老の門番は気の毒そうに首を振った。
「ファーンさまはお出かけです。猊下はいらっしゃいますが、お取次ぎいたしましょうか?」
クジュケは思わず吐息したが、慌てて笑顔を作った。
「お願いいたします」
門番は一旦屋内へ入ったが、すぐに出て来て「お入りください」と案内してくれた。
教団幹部は贅沢をしてはならないとの前教主サンサルスの教えから、二十万人を超える信徒を抱える中原随一の教団の本部とは思えぬほど、内部は質素な造りになっている。
その奥まった一室が教主の執務室であり、先代のサンサルスの頃と何も変わっていない。
門番が扉を軽く叩き「バロード連合王国統領、クジュケ閣下をお連れいたしました」と声を掛けた。
ヨルムの「どうぞ中へ」という声がしたが、珍しくやや不機嫌そうであった。
クジュケは一度深呼吸すると、「失礼します」と言いながら入った。
ヨルムは執務用の机の向こう側に立っており、それに向かい合うように来客用の椅子が置いてあった。
「どうぞお掛けください」
「ありがとうございます」
クジュケが椅子に腰掛けるのを待って、ヨルムも座った。
どう話を切り出そうかとクジュケが躊躇っているのを見て、先にヨルムが声を掛けた。
「ご来訪の向きは、ガルマニア内戦の件ですね?」
「あ、はい。もう猊下のお耳にも入っていましたか」
驚くクジュケの前で、ヨルムは苦笑した。
「わたくしの、というより、ファーンの耳にですが。もし、ご用件が援軍要請ならば、ファーンがもう出発しておりますよ」
「え! 然様でございましたか。それを伺って、安堵いたしました。失礼ですが、援軍は何万ほど出されたのでしょうか?」
ヨルムの表情が冷ややかになった。
「申し訳ありませんが、そのようにご期待なされても困ります。援軍を出したのは、あくまでもファーン個人の意思。教団には関わりございません。よって、ガルマニアに向かったのは、ファーンの直接の配下となっている警備兵二千名のみです」
「そんな! ああ、失礼いたしました。ですが、和親条約が」
ヨルムの蛇を思わせる目がスッと細められた。
「条約はまだ締結前です。縦しんば締結されていたとしても、軍事同盟ではありません。それに、ファーンがヤーマンどのに、いざとなれば共に戦うと約束したのも、個人としてであったはず。警備兵の同行を許したのは、わたくしの温情です」
「温情なもんか! あっ、すみません。猊下の仰る理屈はわかります。ですが、今は非常事態なのです。このままでは、ガルマニアは魔女ドーラの、いや、それならまだしも、白魔のものになってしまうのですよ。そうなれば、ガルマニア領内の信徒の方々も、無事では済みません。猊下、どうかご英断を!」
クジュケの激しい口調に感情が昂ったのか、ヨルムの顔に鱗が浮き出て来た。
「わたくしは先代サンサルスさまから教団を預かった身。大切な兄弟姉妹を、危険に晒すことはできません!」
既に口も変形し、先の割れた細い舌が出て来ているため、発音が不明瞭になっている。
それを怖れるクジュケではなかったが、説得するだけの材料がなく、言葉に詰まった。
と、扉の向こうから、「お話し中、申し訳ございません。猊下、ちょっとよろしいでしょうか?」と声がした。
門番の声と気づき、ヨルムの顔が人間のものに戻った。
「どうしました?」
扉が小さく開き、ひょっこりと小柄な緑色の人影が現れた。
草色の布で全身を覆ったハンゼ少年であった。
布の所々に雪が付いている。
「ヨルムさん、お願い、だよ! ヤンを、ヤンを救けて!」
ヨルムの表情が和らいだ。
「山越えしたのですね。大変だったでしょう。少し休みなさい」
「おれ、大丈夫。それより、ガルマニアが」
更に言い募ろうとするハンゼを宥めるように、ヨルムが「わかっています。ですが」と言いかけた時、ハンゼの後ろから門番の老人が入って来た。
「猊下。差し出たことを申し上げます。兄弟姉妹を第一にお考えいただき、ありがとうございます。なれど、亡きサンサルスさまは常々仰っておりました。教団の信徒だけが兄弟姉妹なのではない。どのような人も、いえ、敵ですらも、潜在的には兄弟姉妹だと。そして、全ての人が兄弟姉妹となった時、千年の争乱が本当に終わるのだと」
大きく息を吸うと、ヨルムは深々と頭を下げた。
「すまなかった。わたくしが間違っていた。全ての人を救う使命を忘れ、教団だけの利己主義に陥っていたようだ」
顔を上げ、ハンゼとクジュケを等分に見ながら告げた。
「直ちに援軍を送ります。規模は……、そうですね、少なくとも三万」
その頃、沿海諸国の監視船では、未だに眠り続けるジェルマ少年の顔を、ツイムが心配そうに覗き込んでいた。
「朝眠ったっきり、もう日が暮れちまった。スルージは、冬眠してるようなもんだから、飲まず食わずでも心配ないと言ってたが、もし、このまんま目が醒めなかったら、どうすりゃいいんだ。ん?」
突如寝返りを打ったジェルマの目が、パチリと開いた。
が、その瞳の色は、鮮やかなコバルトブルーであった。
「おお、ツイムではないか。どうしておまえがここに……ああっ、いかん! 魔女ドーラが!」




