1400 ハルマゲドン(56)
魔女ドーラに憑依されつつあるタロスを止めようと、空中から警告を発したクジュケに向かって、無数の矢が放たれた。
が、矢が貫いたのは、何もない空間だった。
次の瞬間、馬に乗っているタロスの真後ろから「正気に戻ってください、タロスどの!」というクジュケの声がして、振り落とされないよう背中に抱きついて来た。
タロスは手綱を片手に持ち替え、腰の剣を抜いたが、さすがにこの位置からでは相手を斬るのが難しい。
「放せ、贋者め!」
矢に依る攻撃を避けるため、防護殻なしの短距離跳躍でタロスの背後に回ったクジュケは、必死にしがみついている。
「放しませんし、贋者でもありません!」
すると、タロスの口調が変わった。
「愚か者め。こやつの背中に居れば矢を射掛けられぬと思うてか。ならば、こやつごと射殺せと命ずるまでのこと。覚悟せよ!」
クジュケは怯まずに言い返した。
「お待ちください、ドーラさま! わたくしの生命など惜しくもございませぬが、何故このような馬鹿げた真似をなさるのですか?」
「馬鹿? 何が馬鹿じゃ! ううぬ我慢ならぬ! この剣で、タロスごと刺し殺してくれるわ!」
剣を逆手に持ち直した相手に、クジュケは声を荒らげた。
「およしなさい! ご存知ないようなのでお教えしましょう! 『識閾下の回廊』は夢を見る者にしか繋がりません! つまり、タロスどのが死ねば、あなたさまも諸共に死ぬのです!」
嘘ではないが、完全な真実でもなかった。
即死でなければ、回廊内へ逃げ込めるのである。
が、ドーラを思い留まらせるには充分であった。
「小癪な魔道師め! ならば邪魔をせず、どこかへ往ね!」
クジュケはややホッとした顔になった。
「そうは参りませぬ。あなたさまが率いておられる軍勢はバロード連合王国の兵。しかも、今、国は空っぽの状態です。返していただかないと困ります。それに、言っては何ですが、どうせ決戦には間に合いませんよ。この軍勢が到着する頃には、いずれにしろヤーマンのパシーバ州は潰されているでしょう。お味方の勝利は間違いありません。追加の援軍など不要のはずです」
馬の速度は維持しつつも、ドーラの声にも少し切迫感が薄れて来た。
「ふん。尤もらしいお為ごかしを言うでない。わたしがこの軍勢を掌握しなければ、ヤーマンへの援軍に送るつもりじゃったくせに。まあ、どうせそれも間に合わぬが、コロクスの阿呆がビビッて攻撃の手を緩めるやもしれぬし、その間に第三勢力が介入する段取りであろう?」
図星を衝かれたクジュケは開き直った。
「ええ、そのつもりですよ。この足で聖地シンガリアへ飛び、ヨルム猊下にお願いします」
「さてさて、あの頑迷固陋な仔蛇がすんなりと援軍を出すかの? まあ、やってみるがよいわさ。おぬしがモタモタしておる間に、わたしはこの軍勢をガルマニアに到着させるだけのこと」
「だから、何故なんです? コロクス軍の勝利は確実なのでしょう?」
一瞬、ドーラは返事を躊躇った。
が、完全に身も心もタロスを支配した自信からか、皮肉な笑みを浮かべつつ自嘲するように告げた。
「コロクスだけなら良いが、わたしの贋者が大活躍しておるらしいでの。このままでは、庇を貸して母屋を取られることになろう。この大軍勢の接近を知れば、多少は牽制できる。全く、油断も隙もあったものではないぞえ」
クジュケはここぞと力説した。
「でしょう? お考え直しくださいませんか? 相手は人ならぬ存在。約束など平気で破りますぞ」
「ふふん。残念ながらそうでもない。白魔にせよ、魔道神にせよ、約束はキッチリ守る。信用ならぬのは、寧ろ人間さね。それはともかく、今回はちとやり過ぎておる。わが領土を護ってくれとは頼んだが、それを拡大解釈して、攻撃は最大の防御とでも言うたのであろう。勿論、焚きつけたのはコロクスの方じゃろうが」
「そこまでおわかりなら、もう良いではありませぬか? タロスどのから離れ、軍勢をお返しください」
タロスの肩が揺れた。
笑っているのかとクジュケは思ったが、意外な言葉が聞こえた。
「騙したな、魔女め! わたしの身体から出て行け!」
やや口籠るように不明瞭な発音であったが、それはタロス本来の声であった。
それに応えたのもタロス自身であったが、ハッキリとドーラの声に変わっていた。
「そうは行かぬのじゃ。今更元の身体には戻れぬのでな。まあ、ゾイアの身体を手に入れるまでは間借りで良いと思うていたが、邪魔をするなら、おぬしこそ出て行ってもらおう」
「うっ、な、何をする……」
タロスの声が小さくなり、消えて行った。
今度こそ、ドーラの声で笑い出した。
「おお、スッキリしたぞえ。うむ。この逞しい身体がわたしのものか。それも悪くないのう。ん? どうした魔道師? 腕が草臥れて来たのか?」
クジュケは悔しそうに歯噛みしたが、その手が徐々にブルブルと震え出した。
手を放して浮身すれば楽なのだが、密着することが難しくなり、タロスの馬から少しでも離れれば、また集中騎射される。
「む、無念です!」
そう告げた瞬間に手を放し、矢が飛んで来る前に、クジュケは跳躍していた。




