1392 ハルマゲドン(48)
ジェルマ少年と魔女ドーラの幽体が『識閾下の回廊』にいる間、その肉体はジェルマの船室でスヤスヤと眠っていた。
眠り始めた頃、呼吸のため上下する胸の動きまでピタリと揃っていた二人であったが、途中でズレが生じ、今は全く別の律動になっている。
眠る前にドーラが入念に結界を張っていたから、船長を務めるツイム大臣を始め、船員たちも一切ここへは近づこうとしない。
統領クジュケが助っ人に呼んだ魔道屋スルージは、跳躍の航跡を見る虚空眼の持ち主だから、ドーラがここへリープして来ていたなら気づいたであろうが、コウモリに変身して飛んで来たため、何も知らぬままクジュケと共に船を去っていた。
誰にも邪魔されることなく眠り続けるドーラは、しかし、悪夢を見ているかのように美しい眉を顰めている。
「いったい、どうなっておるのじゃ? この階段は無限に続くのかえ?」
古代ギルマンのような世界で、中心部にある竪穴の側面の岩を削って作られた螺旋階段を、見えない椅子に座ったまま滑るように降りているドーラは、一向に下に到着しないことに苛立っていた。
ここまで先導させたジェルマを途中で突き落とし、怪物蛟の餌食にしたまでは良かったのだが、その隙に底まで行こうという目論見は外れてしまった。
「こんなに時間がかかっては、あの小僧はとっくに消化されておるじゃろうから、最早ヒュドラの気を逸らす役には立たぬ。ならば、階段を使う意味はないのう」
ドーラは見えない椅子を止め、下を覗き込んで唸った。
「何ということじゃ! ちっとも距離が捗っておらぬぞえ。いや、それどころか、寧ろ底が遠くなっておるようじゃ。ここは瞞しの世界なのか?」
「いいえ。真実がいつも一つとは限りませんからね」
返事があるとは思わなかったドーラは危うく下に落ちそうになったが、何とか踏み留まり、声がした方を振り返った。
ゴツゴツした岩肌から、人型のようなものが浮き出している。
その顔の部分は男とも女とも見えるが、名工が削り出した彫像のように美しかった。
「誰じゃ?」
ドーラの問いに、彫像の顔は微笑むように変化し、その少し開いた口から先程の声が聞こえた。
「名乗ったところで、これ以上そちらに姿を投影することはできないのであまり意味はないと思いますが、まあ、それでは昔馴染みに失礼でしょうね。サンサルスですよ、ドーラさま」
ドーラの顔が醜く歪んだ。
「怨霊かえ!」
岩のサンサルスは声を上げて笑った。
「この世に恨みを残すようでは、宗教者として失格でしょうね。今のわたしはこの『識閾下の回廊』の隅に住まう世捨て人のようなもの。あなたさまにお声を掛けたのは、ホンの気まぐれ。懐かしいお顔を見つけ、好奇心に駆られたのです」
ドーラの美しい眉が、片方だけクイッと上がった。
「ほう? 偶然じゃと申すのか? 怪しいのう。若しや、この無限階段も、おぬしの仕業ではあるまいな?」
彫像のようなサンサルスは苦笑した。
「バレましたか。ここに暮らすうちに、想像力を使って目に見える現象を操ることが、多少はできるようになりましたのでね。自分がいるところ以外の回廊へも、少しだけですが影響を及ぼせるのですよ。けれど、これが限界です。もう悪戯は止めますから、ドーラさまもどうか現実にお戻りくださいな」
ドーラは鼻を鳴らした。
「そうは行かぬ。まだ何の成果も上げておらぬのでな。うーむ、そういうことか。おぬしがわたしを引き留めようとする理由がわかったぞえ。あの小僧のためじゃな。あやつを無事に先へ進ませるためであろう。と、なれば、この堂々巡りからの出口は、あそこじゃ!」
ドーラは身を翻し、自らヒュドラの口へ向かって飛び下りた。
ヒュドラは目敏くそれに気づき、触手の一本を鞭のように伸ばして、ドーラの胴体に巻きつけて来た。
「くそっ!」
同時に物凄い力で下に引かれる。
ヒュドラの口の中が出口に繋がっているのだろうとドーラは推理したが、途中であの巨大な歯に噛まれれば無事では済むまい。
何とか触手から逃れようと藻掻いたが、ガッチリ掴まれていて解けない。
「イソギンチャクの化け物め! ええい、放さぬか! ヌルヌルして気持ちが悪いんじゃ!」
罵ったところで無意味なのはわかっていても、叫び続けていないと気力が萎えそうなのである。
引き攣った顔で下を見た。
グネグネと蠢く多数の触手の中心に、巨大な円形の口がある。
その三方からギザギザの白い板のような歯が一本ずつ出て来て、ドーラを齧ろうと待ち構えているのだ。
「うううっ。サンサルス、わたしを援けよ!」
虫のいい頼みであったが、聞き届けられたらしく、ドーラの落下する速度が緩やかになり、ヒュドラの歯が一旦閉じて再び開く瞬間に、スルリと通り抜けることができた。
「助かったのか?」
気がつくと気持ちの悪い触手は消えており、周囲は一面の花畑であった。
が、次の瞬間。
ズボッと足元が陥没し、地面に呑み込まれた。
「そんな阿呆な!」
反射的に目を瞑ってしまったのだが、息は苦しくないため、ドーラは恐る恐る目を開いた。
「こ、ここは!」
目の前には、綺麗に縦横整えられた市街地があった。
その上には青い空と輝く太陽があり、市街地の先にはこんもりと繁った森が見え、その遥か向こうには、峨々たる山並みすら見えている。
漂って来る風には、微かに潮の香りが混じっているようだ。
「ダフィニア島?」
その言葉が聞こえたのか、近くの家の蔭から、枯れ枝のように痩せ細った老人が現れた。
「そうじゃよ。お帰り、アルゴドーラ」
そう告げたのは、サンジェルマヌス伯爵であった。




