1389 ハルマゲドン(45)
正体を現した魔女ドーラに突き飛ばされたジェルマは、見えない手摺りを掴む間もなく、真っ逆さまに落ちて行った。
「うあああああーっ!」
蛟の反応は早かった。
グネグネと蠢いていた触手の一本が鞭のように伸び、ジェルマの身体に巻きついたのである。
「げっ!」
同時に物凄い力で下に引かれる。
何とか逃れようと藻掻くジェルマの直下に、ヒュドラの本体が見えた。
多数の触手が生えている中心に、家が一軒丸ごと入りそうな大きさの円形の口がある。
その三方から、ギザギザの白い板のような巨大な歯が一本ずつ出て来て、少し交差するように閉じ、また開くのを繰り返している。
その奇怪な口に齧られたら、間違いなく即死であろう。
「そんなの嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だーっ!」
絶叫して目を瞑ったジェルマは、交差する歯をすり抜けるようにして、ヒュドラの口に呑み込まれた。
その瞬間、フワッと身体が浮くような感覚があり、胴を締め付けていた触手が離れて行った。
「え?」
驚いたジェルマが反射的に目を開くと、眩しいほどの陽光が見えた。
「うっ。あれ? おいら、死んじまったのかな?」
そう思ったのは、ジェルマが横たわっている場所が花畑のようだと気づいたからである。
「だとしたらここは天国なんだな。まあ、最初の地獄よりはマシだけど。ん? ってことは、これも夢なのか?」
「夢のようでもあり、夢のようでもありませんねえ」
返事があると予測していなかったため、ジェルマは跳ね起きると同時に叫んだ。
「誰だ!」
思ったとおり周囲は一面の花畑であったが、声を掛けた人物の姿は見えない。
と、上の方から「ここですよ」という声が聞こえた。
見上げたジェルマはポカンと口を開けてしまった。
真っ白な長衣を身に纏った男が浮かんでいたのである。
女のような長くサラサラした銀髪で、その髪から出ている耳の先が少し尖っている。
顔を見ても、全く年齢の見当がつかない。
ただ、この世のものとも思えぬような美しい顔をしている。
瞳の色は煙るような淡い紫であった。
それが誰かはジェルマにもすぐに見当がつき、諦めたように溜め息を吐いた。
「やっぱり、おいら死んだんだな。だって、あんたはどう見たってプシュケー教団の教主サンサルスだ。あんたが死んだことを知らない人間は、中原にも沿海諸国にもいねえよ」
相手は何故か嬉しそうに笑った。
「わたしも有名になったものですね。おっと、そんなことを言っている場合ではありませんね。わたしが死んだのは事実ですが、あなたは死んでなんかいませんよ。今あなたが見ているわたしは、幻のようなものです。まあ、簡単に謂えば幽霊、小難しく云えば残留思念ということになるでしょうか。わたし自身は擬似人格と呼んでいますが」
「ゆ、幽霊?」
サンサルスはゆっくりと地上に降り立ち、また笑った。
「怖がらなくても大丈夫です。別に、この世に恨み辛みがあって残っている訳ではありません。色々事情があって、『識閾下の回廊』に人格の一部を残したのです。すぐに消去するつもりだったのですが、ウルスラ女王に頼まれて回廊の隅っこで暮らすことにしたのです」
「隅っこ?」
ジェルマは、地平線の果てまで続いているような花畑を見回した。
サンサルスはお道化たように眉を上げて見せた。
「ここには定まった大きさといものはないのです。わたしは聖地シンガリア近くの花畑が好きだったので、それを合わせ鏡のように繰り返しているだけですよ」
「じゃあ、外側は?」
サンサルスは悪戯小僧のようにチロッと舌を出すと、何もない空間を指先で捲って見せた。
そこには灰色の空間が広がっていた。
「外側は虚無です。この『識閾下の回廊』は、文字どおりその中を通る回廊なのです。回廊同士は複雑に繋がっており、慣れない人には無窮迷路のようなもの。あなたを陥れようとした魔女は、ほら、このとおり」
サンサルスは灰色の空間から、硝子の球体のようなものを取り出した。
そこには、竪穴の側面の階段を降りている魔女ドーラの姿が映し出されていた。
足を使わず、見えない椅子に座ったまま滑るように降りているのだが、降りても降りても階段は途切れず、延々と続いている。
「どうなってんだ?」
ジェルマの問いに直接は答えず、サンサルスは慈しむような目で告げた。
「あなたを見ていると、わたしの恩師を思い出します」
「え? ああ、ご先祖さまだね」
「そうです。初代のサンジェルマヌス伯爵です。あのお方もこの『識閾下の回廊』のどこかに擬似人格を残されているはずです。そして、あなたの捜す聖剣があるとすれば、そこしか考えられません。わたしは擬似人格なのでそこへは行けませんが、あなたなら行けるでしょう。聖剣を魔女に渡すべきではありませんが、お父上、お母上を心配するあなたの気持ちもわかります。サンジェルマヌスさまにご相談してみてはどうですか? 魔女ドーラは、あなたがいいと言うまで、あのまま堂々巡りさせておきますから」
「うん。わかったよ。でも、どうやったら、このお花畑から出れるんだい?」
サンサルスは苦笑した。
「知る能わず、ですね。ともかく、行けるだけ真っ直ぐ歩いてみては?」
ジェルマも笑った。
「成程。それしかねえか。じゃあ、お元気で、は変か。お幸せに!」
「ありがとう、ジェルマさん。サンジェルマヌスさまによろしくお伝えくださいね」
サンサルスの淡いパープルの瞳が、少し潤んだように見えた。
(作者註)
サンサルスの擬似人格については、1079 第二次セガ戦役(76)をご参照ください。




