1386 ハルマゲドン(42)
ジェルマは夢を見ていた。
見かけだけでなく本当に幼かった頃、まだ若かりし母の腕に抱かれている夢である。
母は泣いているようだった。
「どうして泣いてるの、母ちゃん?」
「おまえが大人になった姿を見たいけれど、わたしには見れないからさ」
「何故?」
「わたしは普通の人間だからね。長生きできたとしても、余命は後何十年かだろ。だが、おまえが大人になるのは早くても百年後。とても無理だよ」
「だったら、おいら早く大人になるよ!」
言うなり、ジェルマはグングン成長し、筋骨逞しい大人の男になった。
「どうだ、母ちゃん。おいら大人になったよ。ん?」
目の前にいたはずの母がいない。
慌てて周囲を見回すと、驚くべき光景が広がっていた。
ゴツゴツした岩ばかりの地面の所々から、硫黄臭い炎が噴き出している。
どんよりと鉛色の雲が垂れ込める空には、時折稲妻が光り、少し遅れてゴロゴロと雷鳴が轟く。
「な、何だ、ここは。まるで地獄みてえだな」
と、上の方から「ふぉのとおりだ、小僧!」と雷鳴に負けないような大きな声が聞こえて来た。
「誰だ!」
ジェルマが見上げると、巨人の何倍もありそうな怪物が立っていた。
巨大な猿を思わせる身体全体を黒い獣毛が覆っているが、その上に乗ってる頭部は人間のようであった。
その顔を見て、ジェルマは思わず叫んだ。
「トラヌス伯爵!」
が、怪物は歯の無い口で嘲笑った。
「ふぉのような者ではない。わがはいは地獄の番人、トラファルガロスじゃ。ふぉまえの母は、わがはいが預かった。返して欲しくば、日が暮れる前にアルスールの聖剣を持って来い。もし、間に合わなければ、ふぉまえの母を頭から喰ってやる。ふぉれ、このように」
トラファルガロスが毛むくじゃらの手を開くと、全裸の女の姿が見えた。
それは、若い頃の母のようでもあり、人魚から人間になったというテレシアのようでもあった。
いずれにせよ、怯え切った様子で「救けて!」と叫んでいる女を、トラファルガロスは歯の無い口を大きく開けて食べる真似をして見せた。
ジェルマは思わず「やめろ!」と叫んだ。
「おいらがその剣を持って来てやる! だが、どこにあるんだ?」
トラファルガロスは惚けた顔で「知らん」と笑った。
「ふぉの世界のどこかにあるふぁずだ。捜せ、然らば見つかるでふぁろう。待っておるぞえ……」
「あ、待て、せめて何か手懸かりを!」
ジェルマの必死の呼び掛けにも応えはなく、全裸の女を握り緊めたまま、トラファルガロスの姿はユラユラと消えて行った。
「くそっ。どうすりゃいいんだ。第一、日が暮れる前にって言っても、こんな天気じゃ、今が朝なのか昼なのか夕方なのかわかりゃしねえぞ。あれ?」
文句を言いながら空を見上げると、雲が次々と流されて行き、晴れ間が見えて来た。
同時に雲の隙間から何本も陽射しが地上に伸び、周囲がパーッと明るくなった。
「な、何だ、こりゃ?」
驚くジェルマの目の前で、地獄そのものだった風景が一変していた。
広々とした草原の真ん中で、遥か彼方にグルリと取り囲むような崖が見える。
「これはまるで、ご先祖さまがゾイアのおっさんと出会ったギルマンみてえだな。うーん、ってことは、アルスールの聖剣ってのがあるとすりゃ、中央の竪穴の中だろうな。よし、行ってみよう」
ジェルマは気になってチラリと太陽の位置を確認した。
中天に近く、恐らく真昼であろう。
「あれが沈む前に、聖剣を見つけりゃいいんだな。楽勝だぜ」
飛行しようと身構えたが、少しも浮身しない。
「変だな。じゃあ、跳躍してみるか。うーん、座標がわからねえか。まあ、見える範囲なら短距離跳躍でいいや」
が、何の変化も起きない。
「どうなってんだ? まさか、魔道が全部使えねえのか?」
試しに掌を突き出してみたが、微風も起きない。
「くそう。仕方ねえ。歩こう」
幸い身体は大人になっていたから、五歳児の時よりは捗った。
それでも中央孔がまだ見えぬうちに、日が傾き始めた。
「おかしいなあ。随分時間が経つのが早いな。それに、歩いても歩いても、ちっとも進んでる感じがしねえ。いってえ、どうなってるんだ、この世界は?」
と、誰かの囁くような声が聞こえた。
「ここは夢の中だよ」
「えっ!」
周囲を見回したが、丈なす草が風にそよぐばかり。
いや、その草叢を掻き分けるようにして、小さな男の子が姿を見せた。
本来のジェルマと同じ五歳児ぐらいだが、髪はダークブロンドで、変わった色の目をしている。
「アクアマリンの瞳……ってことは、おっさん、いや、ゾイアなのか?」
男の子は首を傾げた。
「わからない。でも、名前を思い出せないから、それでいいよ」
「うーん。どういうことなんだろう。まるで夢を見てるみてえだ。って、そうか、これは夢なんだな?」
「そうだよ。これは夢だよ。古来から云われている『夢の通い路』、つまり、『識閾下の回廊』さ」
「何だって! おいら、自力でちゃんと繋がったことなんて、まだ数えるほどしかないのに、どうしたんだろう」
ゾイアのような少年は声を潜めた。
「悪い魔女のせいだよ。今も、眠っているきみに暗示をかけて、聖剣を捜させようとしているんだ」
「聖剣って、アルスールの?」
「違うよ。アルゴドラスの聖剣さ」
「えっ。でも、それはウルスラ女王が持ってるんじゃないのか?」
「そうさ。でも、この『識閾下の回廊』に隠したんだ」
「成程。それでおいらたち長命族が狙われたんだな。つまり、敵の黒幕は魔女ドーラってことか。あ、でも、『識閾下の回廊』に自由に繋がれるのは、メトス族でもおいらの父ちゃんくらいだぜ」
「わかってる。ところが、きみの父ボルドニクス二世は今、大量の消魔草の煮汁を飲まされて、一切の魔道が使えなくなってるんだ」
「へえ、そうなんだ。でも、無事は無事なんだな」
「今のところはね。しかし、きみが聖剣を捜し出せなければ、消魔草の効き目が切れ次第、ボルドニクス二世は拷問されるだろう」
「なんてことだ! よし、何としても聖剣を見つけるぞ。ゾイア、手伝ってくれ」
「勿論ぞえ、あ、いや、だよ」
ゾイアのような少年は、ジェルマに見えないように舌を出した。




