1370 ハルマゲドン(26)
ウルスが行方不明になったことは、すぐには気づかれなかった。
一つには、軍を始めとする政府関係者の殆どがスカンポ河の警戒に駆り出されていたからであるが、やはり、ウルスの日頃の行動が自由気儘で、逐一把握している人間が誰もいない状態になっていたことが大きい。
そのため、最近落成したばかりの新クルム城にいるアーロン新辺境伯に異変が知らされたのは、翌日の昼近くなってからであった。
アーロンは自分の執務室で、スカンポ河東岸の警備態勢の見直しをしているところだった。
「もう一遍言ってくれ」
現実を受け止め切れないのか、譫言のように聞き返すアーロンに、蒼白な顔の秘書官が報告を繰り返した。
「はっ。昨日、ユーダ行政監督官と共に灌漑用水路の視察に行かれたはずのウルス王陛下が、夜になってもお戻りにならなかったとのこと。しかし、お世話を担当する者たちはユーダどのの自宅にお泊りになったものと考え、確認を怠ったのです。朝になってもユーダどのから何の連絡もないため、先方に問い合わせたところ、ユーダどのも昨夜は自宅に戻っておらず、家族はてっきりウルス陛下と共に新クルム城に泊まったものと」
「もうよい。わかった」
アーロンは一度目を瞑り、大きく息を吐くと、カッと目を見開き、珍しく声を荒らげた。
「何を愚図愚図しておるのか! 直ちに総力を挙げて陛下をお捜しするのだ! また、ウルスラ女王陛下、ニノフ大公殿下にも早馬で、いや、龍馬でお知らせせよ! 今すぐじゃ!」
「ははーっ!」
秘書官が倒けつ転びつ出て行くと、生真面目なアーロンは天を仰ぎ「万死に値する」と吐息混じりに呟いた。
ウルスラに弟を託された際、自分の生命に替えてもと胸を叩いたにも拘らず、その後何事もなかったために、気の緩みがあったのだろう。
自分の机の引き出しを開け、中から護身用の短剣を取り出そうとしたが、首を振って引き出しを閉めた。
「いや。わたしが死んだところで何にもならぬ。ともかく、一刻も早く、ウルス陛下を見つけねば。こうしてはおれぬ!」
アーロンは剣掛けから長剣を一本取ると、慌ただしく部屋から飛び出して行った。
その頃、ウルスは漸く目を醒ましていた。
廃屋のようなボロボロの家で、あまり清潔には見えない寝台に寝かされていたようだ。
「あれ? ぼく、どうしたんだろう? うっ!」
急に起き上がろうとして初めて、革の首輪を付けられ、ベッドの縁に鎖で繋がれていることに気づいたのである。
ウルスの声が聞こえたらしく、隣室から誰かが顔を覗かせた。
「おお、やっと起きたか。あんまり良く眠っているから、眠り薬が効きすぎたかと心配したぞ」
言いながら入って来たのは、灰色の長い髪と同じ灰色の無精髭をだらしなく伸ばした男で、瞳の色も薄い灰色であった。
その目を細め、嘲るような笑みを浮かべてウルスを見ている。
「ユーダさん?」
ウルスの問い掛けは、相手が本人かどうかを聞くというより、正気か否か問うているようであった。
それがわかったのか、ユーダは一層笑みを深くして、ベッドの横の椅子に座った。
「首輪がきつければ、少し弛めてやろう。だが、逃げようなどとは思わぬことだ。これでも、随分いい待遇なのだぞ。この男に比べればな」
そう言って笑うユーダを、ウルスは恐怖の眼差しで見ていたが、ハッとした顔になって尋ねた。
「ま、まさか、白魔?」
ユーダの笑顔がスーッと白い平面に変わり、切れ目のような口が開いた。
「ほう。よくわかったな。この男が思っていたほど世間知らずではなかったようだ」
自分が馬鹿にされたことより、ウルスは気になっていることを訊いた。
「ユーダさんは、どうなっちゃったの?」
切れ目のような口が笑みの形になり、饒舌に語り出した。
こんな状況で他人の心配か?
まあ、気になるなら教えてやろう。
おまえを案内する前の日、この男は下調べのために浄水場へ行ったのさ。
おお、そうだ、こんなことを言っていたよ。
「世間知らずのお坊ちゃんは何でも見たがるだろうから、事前に危険がないか調べておかないと。ったく、いい迷惑だよ。こっちだって忙しいんだぞ」
わかったか、おまえがどう思われているか。
ほう。
気にしないのか。
ふん、まあいい。
ともかく、不用意に浄水池に近づいたこの男に、予め極小端末を吞み込ませておいた魚を撥ねさせて見せた。
おまえも知っているように、今のスカンポ河にはザリガニとかいう甲殻類しかいない。
不審に思ったこの男が覗き込んだところを狙い、ピスキスに水を噴き出させたのさ。
勿論マイクロチップごとだ。
口は閉じていたから、一発命中とは行かなかったが、モジャモジャした髭に偽管足で絡みつき、何とか鼻の孔から潜り込んだ。
結果的に、こっちの方が脳へは近道だから、すぐに支配下に置けたよ。
おお、そんなに怯えなくてもいい。
おまえには、マイクロチップを呑ませるつもりはない。
実は、われらが元いた世界から持ち込んだ原型は以前ゾイアに破壊されてしまい、残っているのは粗悪な複製品ばかりなのだよ。
これだと脳に取り返しのつかない損傷を与えてしまい、じきに発狂する。
この男のような消耗品ならいいが、おまえは大事な人質だからな。
が、暴れたり、われらの指示に従わない場合には、使うかもしれんぞ。
ふうむ。
いい顔をするではないか。
その怒りと恐怖で声も出ないという表情が演技なら大したものだが、まあ、嘘ではあるまい。
ならば、われらの言うとおりに手紙を書いてもらおう。
宛名は、おまえの姉、ウルスラ女王だ。
(作者註)
ドゥルブのマイクロチップについては、1175 白魔が来りて(10)~1176 白魔が来りて(11)をご参照ください。




