136 偽りの戴冠式(5)
耳がキーンと鳴るような静けさの中、コツ、コツ、という足音だけが聞こえる。
前が見えない程涙が溢れる目をこすり、ウルスラは足音がする方を見た。
そこには、枯れ枝のように痩せ細った老人がいた。
高齢のため髪も眉も真っ白だが、瞳は黒いから南方の出身のようである。
「あっ、あなたはあの時の本屋のご主人!」
老人は苦笑して、「面倒じゃの。一旦、記憶を戻そう」と独り言ちると、ウルスラの鼻先でパチンと指を鳴らした。
「あっ! サンジェルマヌスさま! お助けください! ツイムが、ツイムが!」
「大丈夫じゃ。今、時は動いておらぬ」
言われてウルスラがツイムを見ると、傷からの出血は止まっていた。
それどころか、身体自体も良くできた彫刻のように固まっている。
いや、ツイムだけではない。
ツイムに止めを刺そうと剣を振り上げている衛兵も、憎々しげに顔を歪めているエピゴネスも、魔女を弾劾する叫びを上げている各国の代表も、皆その一瞬の状態で止まっていた。
「時の狭間ですね。ああ、良かった。今のうちに、ツイムの手当てをしてくださいませんか?」
だが、サンジェルマヌスはゆっくり頭を振った。
「残念ながら、それはできぬ」
「ええっ、何故でございますか!」
「時の狭間に潜るこの技、即ち、潜時術を使っている間は、因果を乱すことは許されておらぬのじゃ。おまえは、自力で何とかせねばならぬ。ま、その手助けはするがな」
ウルスラは唇を噛み、キッとサンジェルマヌスを睨んだ。
「ではせめて、ツイムを安全な場所に運ぶまで、時を止めて置いてください!」
サンジェルマヌスは困ったように眉を寄せた。
「いや、誤解せんでくれ。わしは時を止めているわけではない。おまえと共に時の狭間に潜っておるだけじゃ。この技には、一つ大きな制約がある。四方を囲まれた場所、つまり、基本的に室内でしか使えぬのだ。この大広間ぐらい広いと、ほぼ限界に近い。本来は、おまえたちがいた部屋程度の場所で使う技なんじゃ。従って、そんなに長くは持たん。潜時術が効いているうちに、この怪我人と共に跳躍するのじゃ。防護殻を大きめにして二人一緒に跳べばよい」
「でも、座標が……。あ、今、頭に浮かびました。これですね?」
ウルスラは、長い数字の羅列を諳んじた。
「そうじゃが、若干修正する。末尾は5ではなく、4にするのじゃ」
ウルスラは驚愕のあまり立場を忘れ、相手を責める口調になった。
「いけません! それは、外法です!」
サンジェルマヌスは苦笑して、「わかっとるわい。怪我人を助けるためじゃ」とツイムを指した。
ウルスラは泣きそうな顔で、「ああ、すみません!」と謝った。
サンジェルマヌスは笑顔で首を振った。
「よいよい。おまえのそういうところが、わしは気に入っている。そこで気絶しておる馬鹿者に、おまえの爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいさ。しかも、こやつが気を失ったせいで、わしの読みが外れ、怪我人が出てしもうた。わしとて、外法は使いとうないが、已むを得んのだ」
「わかりました。でも、この座標だと、すぐ近くですね?」
「うむ。信用のできる仲間のところじゃ。因果を乱さぬため、おまえはこの後、潜時術の間の記憶を失う。それでも、仲間のいるところなら何とかなるはずじゃ。防護殻を大きくするために必要な分の理気力も与えて置く。さあ、もう間もなく時の流れが戻るぞ。すぐに跳ぶのだ!」
「はい!」
ウルスラは豪華なマントを脱ぎ捨て、服に付いている宝飾品なども全て外し、身軽な状態でツイムに寄り添った。
サンジェルマヌスの「急ぐのじゃ!」という声には黙って頷くのみで、ウルスラは意識を集中した。
やがてウルスラの身体が眩く光り始め、球状の光がパーッと二人を包んだ。
「あっ!」
ツイムに止めを刺そうとした衛兵は、いきなり相手が消えてしまったために、たたらを踏んだ。
他の衛兵も剣を構えたまま、呆然と立っていた。
エピゴネスは、「ええい、何をしておる。跳躍術では遠くへ行けぬ。まだ近くにいるはずだ。探せ!」と衛兵たちを叱咤した。
と、二人がいた辺りに、キラキラ光る雪の結晶のようなものが現れた。
ツイムを斬った衛兵が、「何だ、これは?」と手を伸ばした。
「それに触ってはいかん! 結晶毒だ!」
叫んだのは、いつの間にか気絶から目醒めていたブロシウスであった。
だが、時すでに遅く、結晶に触れた衛兵の身体は紫色となり、口から泡を吹いて倒れた。




