1358 ハルマゲドン(14)
エオスの大公宮を出たウルスラは、浮身した状態で一旦大きく南下してからスカンポ河を越え、旧辺境伯領上空を南から北へ向かって偵察飛行した。
「やっぱり、コウモリは疎か、鳥一匹飛んでないわね。少しホッとしたわ」
そう呟きながらも、河口付近で腐死者化したノスフェルの大群に襲われたことが脳裏に甦ったのか、ウルスラは微かに震えた。
あの後、秘書官ラミアンがお得意の推理力を発揮して魔女ドーラの謀略だろうということはわかったが、スカンポ河全域の警戒態勢は未だに解かれていない。
飛翔するンザビの脅威に備えてのものだが、その危険性はなさそうであった。
更に進むと、懐かしいクルム城の形が見えて来た。
中流域の北端に位置するこの城は、かつてウルスラが老師ケロニウスと共に訪れた時には、機械人間になったタンリンに率いられたンザビに占拠されていたが、今はその痕跡すら残っておらず、完全に廃墟となっている。
「見る限り人間や動物のンザビもいないようだし、中流域と下流域は多少警戒を緩めてもいいかも。問題は上流域、というより、旧北方ね」
死者であるンザビの身体は当然新陳代謝しないから、時間と共に風化して行く。
人間であれば数箇月、それより大型の動物でも一年もすればグズグズの状態になって、動けなくなってしまう。
辺境から人々が完全に撤退してからほぼ一年は経過しているから、残っていた家畜なども殆ど土に還っているはずである。
恐らくは、それを見越して密かに白魔が指令を出し、人間のンザビは北へ移動して行ったのだろう。
気温が低い方が、風化の進行が遅いからである。
「ゾイアが言っていたけど、そこでンザビたちは結晶毒を食べていたのね」
本来ンザビは食事を必要とせず、人間に噛みつくのも仲間にするためで、食べるためではない。
そのかれらが結晶毒を食べていた理由は、ザリガニを死滅させるためだろうと、ゾイアは推察した。
全生物の中で唯一ンザビへの抗体を持っているガンクは、スカンポ河に侵入して来るンザビを主な食糧源にしており、結果的に中原を護る防波堤のような役割を果たしている。
そこへ体内に結晶毒を貯め込んだンザビがやって来れば、それを食べたガンクは死んでしまい、河底に空白地帯が生じる。
息をしないンザビはその河底を歩いて、易々と中原へ渡り、豊富な獲物にありつけるのだ。
当然ンザビにそこまでの智慧が回るはずもなく、これもまた、自らは動けないドゥルブの命令によるものだろう。
それに気づいたゾイアは、ンザビたちにスカンポ河から汲んだ水を撒き、冷気を噴いて凍らせたという。
「応急処置としてはそれしか方法がなかったでしょうけど、その結果、大勢のンザビが風化を免れて残っているはず。ドゥルブが狙うとすればそこだわ」
ウルスラは慎重に高度を保ち、ゆっくりと北上した。
北へ行くほど植物も少なくなり、地面に風化したンザビの白骨が見えるようになって来た。
「北へ行くほど骨の量が増えて、しかも新しくなってるわ。ンザビ化は北から南に進んだはずだから、それに逆らって北へ行進させたのね。これは覚悟しないと、北方には相当数が残っているかもしれないわ」
やがて前方に、地平線の東から西まで連なる瓦礫が見えて来た。
「ああ、北長城があんなにボロボロになって。マリシ将軍がご覧になったら、どれほど嘆かれるか。いいえ、今はそんなことを考えてる場合じゃないわね。ここからはうんと用心しなきゃ」
千五百年前、時のバロード聖王マルスの命によって造られた北長城は、長きに亙った役目を終え、自然に戻ろうとしているようだ。
寒冷な乾燥地帯であるため疎らだが、崩れた石垣の間から草が生え始めている。
「そうか。植物はンザビ化しないものね。そうすると、完全にンザビが風化した後には、畑にできるのかしら?」
独り言であったが、喉から出る抑揚のない声が答えた。
「……土壌中の非位相病素の残留期間は凡そ十年。人工抗原の散布で多少短縮できますが、農産物への影響は未知数のため、耕作地への転用は先送りした方が良いでしょう」
ウルスラは苦笑した。
「当分は無理よ。移住希望者がいないでしょうし。まあ、それもこれも、ドゥルブを倒した後の話だけれど。あっ、あれは!」
前方にキラキラと光るものが見えて来た。
それは、奇妙な果実のように無数のンザビがぶら下がる結晶の森であった。
同じ頃、単身ガルマニア合州国へ向かったクジュケは、一先ずハリスの城を訪問していた。
最近では珍しく、魔道師の恰好をしているクジュケは、マントのフードを脱ぐとサラサラした銀髪の頭を下げた。
「お久しぶりでございます、ハリス閣下。事前の連絡もせずに参りまして、ご無礼の段どうかお許しくださいませ」
相変わらず白頭巾のハリスは、唯一見えている目を細めて首を振った。
「どうか、お気に、なさらず。あなたは、わが息子、ハンゼの恩人。遠慮など、無用です。して、ご用件は、何でしょう?」
クジュケが声を潜めて来意を告げようとした時、背後に人の気配を感じて振り返った。
「おお、誰か先客がおると聞いたが、まさかおぬしとは驚いたぞえ。何じゃ、コソコソと魔道師の姿で来おって。怪しいのう。なんぞわたしには聞かせられぬ話かえ?」
それは、皮肉な笑みを浮かべている魔女ドーラであった。
(作者註)
以前ウルスラがクルム城へ行った話は 474 ミッテレ・インポシビリタス(9)を、ンザビ凍結の話は 972 叡智との遭遇(5)を、ご参照ください。




