1343 遥かなる帰路(72)
中原とその西に隣接する辺境を隔てる大河スカンポ河は、北のベルギス大山脈に源を発し、次第に流れを太くしながら真っ直ぐに南下して、南の大海に注いでいる。
別名を赤い河とも呼ばれるように、河底を埋め尽くすほど多数の赤いザリガニが棲息している。
いや、基本的には、スカンポ河にガンク以外の生き物はいない。
何故なら、辺境およびその北の北方を徘徊する腐死者は、人間を含むあらゆる動物を同化してしまうのだが、唯一ガンクだけはンザビの瘴気に冒されず、逆にこれを餌食にしてしまうからである。
つまり、ガンクこそが、ンザビの侵入から中原を護っているのだ。
しかし、その防壁が破られたことが二度あった。
一度目は、白魔によって機械兵化された東方魔道師タンリンが、魔道によって周辺のガンクを排除し、ンザビに河底を歩かせて対岸に渡らせた時である。
二度目も原因はドゥルブだが、ヌルチェン皇子によって生贄に捧げられた親衛魔道師隊を使ってスカンポ河に半透明の橋を架け、大挙してンザビを渡河させようとした。
いずれの場合もゾイアたちの活躍によって最小限の被害で喰い止められたものの、三度目がないとは断言できないため、スカンポ河東岸に位置するエオス大公国を中心に、今も厳重な警戒が続けられている。
実際には三度目として、ンザビたちが北方の結晶の森で自ら結晶毒を喰らい、ガンクを死滅させようとした動きがあったのだが、未然に発見したゾイアがその状態のまま凍結させた。
尤も、最近ではンザビに怪しい動きもなく、辺境に住んでいた人々の中原への移住も完了したため、西廻り航路の一部として、スカンポ河の船舶の往来は以前にも増して盛んになっている。
今しもウルスたちがカリオテから乗った早船が、南の大海からスカンポ河の河口に廻り込もうとしていた。
因みに、河口からエオスのある中流域ぐらいまでは流れも緩やかで、河を遡上するというより、運河を航行しているかのように見える。
船縁から河面を眺めているウルスたち三人も、まるで遊覧船に乗っているかのように愉しげであった。
実は出発前、スーラ大公はさすがに三人だけでの航海を危ぶみ、警備兵を付けることを申し出てくれたのだが、それでは却って目立ってしまうからと、ウルスラが丁重に断ったのである。
その際、「ゾイアの身体があれば、一万の軍勢にも負けませんから」と言ったウルスラに、そのままカリオテに残る海軍大臣ツイムが忠告した。
「ご無礼を承知で、女王陛下に申し上げます。確かにゾイア本人の戦闘能力は高いですが、それも武将としての智謀に裏付けられてこそのもの。決して無謀なことはなされませんように」
ウルスラは「勿論よ」と笑って応えたのであった。
そのようなやり取りがあったものの、ここまで危険に遭遇することもなく、無敵のゾイアの身体を持った姉に頼り切ったウルスの表情は、すっかり緩んでいた。
「思い出すなあ。北長城に居られなくなってツイムと一緒にこの河を下った時には、不安でいっぱいで景色を見る余裕もなかったけれど、こんなに美しかったんだね」
ウルスが目を細めて河口付近の砂洲に舞う鳥を見ていると、横に立っているウルスラも頷いた。
「そうね。あの頃には、こんな穏やかな日々来るなんて想像もできなかったわ。でも、本当の平和が訪れるのはまだまだ先よ」
それを聞いたラミアンが、得たりと口を挟んで来た。
「やはり問題はガルマニアですね。現在の合州国という政体が果たしてちゃんと続くのか、それとも再び帝政戻ってしまうのか、或いは元の小国乱立の状態まで逆行してしまうのか、当分目が離せませんね」
「あら、バロード周辺だって、決して安定しているとは言えないわ」
姉の言葉に、珍しくウルスが反対した。
「そんなことないさ。これから河を遡ればわかるけど、スカンポ河東岸は揺るぎないよ。下流域にはアーロンさんの新辺境伯領、中流域にはニノフ兄さまのエオス大公国、上流域にはルキッフさんたちが新たに立ち上げた荒野騎士団領と、それぞれが確固たる体制を築いてる。更にその要の位置には、ぼくらのバロード連合王国が……」
「待って!」
ウルスの言葉を遮ったウルスラの目は、西の空の方を見ていた。
「あれを見て! コウモリの群れが飛んで来るわ! 様子が変よ!」
ウルスラの言うとおり、通常それ自体が巨大な生き物のように纏まって飛行するノスフェルが、制御を失ったように出鱈目な飛び方をしている。
「あれは、あれは、ンザビ化したノスフェルよ!」
凡そ数百羽はいるであろうノスフェルは、良く見れば羽根もボロボロに朽ちており、満足に飛べないために編隊飛行ができないようだ。
しかし、魔道師が連絡用に飼い馴らした伝書ノスフェルと違い、野生種は元々吸血性の動物であるから、ンザビ化によって恐るべき存在と化しているはずである。
その時甲板に居たウルスラ以外の人々も、接近するノスフェルに気づき、船内は忽ち恐慌状態となった。
気弱なラミアンは「船室に隠れましょう、早く!」と言うなり、真っ先に駆け出した。
大部分の人々も同じように船室へ向かって動き出したが、ンザビ化したノスフェルが飛来すれば、船内に安全な場所などない。
この地域の安全性を力説していたウルスはその場に立ち尽くし、顔面蒼白となっていた。
「ど、どうしよう、姉さん……」
ところが、第一発見者であるウルスラの様子が変であった。
固まったように動かなくなり、口も半開きのままであったが、その喉の辺りから抑揚のない声が聞こえて来た。
「……非位相病素に感染した生物が多数接近中。直ちに避難してください。繰り返します……」
(作者註)
スカンポ河を渡るンザビについては、424 逆転(12)~と、868 辺境からの逆襲(1)~を、また、クリストルフのンザビについては、971 叡智との遭遇(4)~の辺りをご参照ください。




