1325 遥かなる帰路(54)
ウルスラを后にするという皇帝ヌルサンにゾイアが襲い掛かる寸前、ジェルマが「時よ、止まれ!」と叫んだ。
が、時が止まるような気配はなく、全身に黒い獣毛を生やしたゾイアがヌルサンのいる玉座に突進した。
その刹那、ゾイアの行く手を塞ぐように、リーロメルが防護殻なしの短距離跳躍で割り込んだ。
既に狼となっていたゾイアは止まらず、その勢いのままリーロメルの喉笛に牙を突き立てようとする。
「やめて、ゾイア!」
悲鳴のようなウルスラの声が響き、ゾイアの鋭い歯は、殆どリーロメルの皮膚に触れそうな位置で止まっていた。
リーロメルは反射的にゾイアの獣毛に覆われた首の付け根を両手で押さえていたが、そのままゾイアの耳元で囁くように告げた。
「落ち着いてください、ゾイアどの。ここは話し合いの場ですよ」
すると、獣のような唸り声を上げていたゾイアの表情が和らぎ、黒い獣毛が徐々に消えて行った。
が、体型は五歳児までは戻らず、リーロメルと同年配ぐらいの青年の姿で変化が止まっている。
勿論全裸であるため、ウルスラは顔を背けながら「ゾイア、下がりなさい」と命じた。
悄然としてウルスラの後ろへ歩くゾイアに、ジェルマが「ごめんな」と詫びた。
「さすがにこんなに広い部屋じゃ、おいらの潜時術は効かねえや」
ゾイアは俯いたまま「いえ、悪いのはわたくしです」と応えた。
ジェルマは小さく舌打ちした。
「なんだよ、歳だけじゃなく、喋り方まであいつに似て来たぜ。気味が悪いな」
それが聞こえたのか、リーロメルは皮肉な笑みを浮かべながら、ヌルサンの方に振り返った。
「お騒がせいたしました。話し合いを続けましょう、陛下」
ヌルサンは鼻で笑った。
「話す必要などない。綸言汗の如し。朕の下した命令は絶対だ」
しかし、リーロメルは引き下がらず、「お畏れながら」と反論した。
「陛下のご命令は絶対といたしましても、真実もまた絶対でございます」
ヌルサンは不審な顔をした。
「何が言いたい?」
リーロメルは一度頭を下げ、「ご無礼かとは存じますが、この際、陛下の御為にも敢えて申し上げさせていただきます」と言いながら、昂然と顔を上げた。
「陛下が、跡継ぎができぬと悩んでおられたのは、わたくしとて存じ上げております。が、今までは本当のところがどうなのか、知る術はありませんでした」
ヌルサンは首を傾げた。
「意味がわからん」
リーロメルは深く息を吸い、思い切ったように告げた。
「お相手がどなたであれ、陛下にお子が産まれるのか否か、といことでございます」
さすがにヌルサンの顔色が変わった。
「死にたいのか?」
リーロメルは表情を変えずに答えた。
「無論、その覚悟はございますが、その前に真実を確かめるべきと存じます」
ヌルサンもまた、本当はそれが知りたかったのであろう、暫し怒りを忘れたようだ。
「どうやって確かめる?」
「されば」
リーロメルは首を捻ってウルスラの方を見た。
いや、その視線はその背後にいるゾイアに向かっている。
「ゾイアどの、聞こえていたでしょう。お願いいたします」
ゾイアは戸惑ったように「え? わたくしが」と言いかけたところで、固まったように動かなくなった。
と、その喉の辺りから抑揚のない声が聞こえて来た。
「……依頼を諒承した。直ちに病理検査を実施する」
虚ろな状態のゾイアのアクアマリンの瞳から、針のように細い緑色の光線が発射され、ヌルサンの身体を探るように走査した。
ヌルサンは顔を顰めながらも、動かずにいる。
不意に光線が消え、抑揚のない声が響いた。
「……生殖能力のない個体と判明。染色体そのものの異常のため治療は不可能」
その声が止まるのと同時に、半開きになっていたゾイアの口が動いた。
「でしょうか?」
リーロメルは「もう終わりましたよ」と優しく告げると、再び皇帝に顔を向けた。
「お聞きのとおりでございます。知らない言葉が多うございましたが、意味するところはハッキリとわかりました。残念ですが、たとえ陛下がウルスラさまを后に迎えられても、お子はできませぬ」
怒り狂うかと思われたヌルサンは、しかし、静かに吐息した。
「朕も薄々そうではないかと思ってはいた。が、子が生まれずとも、后にする利点はあるぞ。例えば、東廻り航路の再開を、ウルスラの臣下であるゾイアに命じさせても良いではないか」
それに対して反撥するはずのウルスラは、「あら、そう?」と独り言ちると顔を上下させた。
瞬時に瞳の色がコバルトブルーに変わり、表情も弱々しいものになった。
「あの、そのことで、ぼくから提案があるのですが、言ってもいいですか?」
ヌルサンも先程とは違い、徒にウルスを脅すような態度はとらず、「好きにしろ」とだけ言った。
ウルスは何度か唾を飲んでから、意見を述べた。
えっと、それじゃ、言います。
あの、ぼくは今回の旅を通じて、結局、国を豊かにするには農業や商業を盛んにするしかないということを改めて認識するのと同時に、それを支えるには、自由な交易が必要だなと痛感したんです。
沿海諸国にはまだ再訪問できていませんが、ガルム大森林先端の村の寂れ方を見れば、凡そ察しがつきます。
シャントンさんに聞いたら、南都ファンクァンも酷い有様らしいです。
つまり、東廻り航路は再開しなければならないんです。




