1317 遥かなる帰路(46)
マオール帝国の帝都ペイアンに幽閉されているヌルチェン皇子の許に突如現れたリーロメルは、その理由としてゾイアの名を挙げた。
「ゾイアどの? 若しやもうマオールへ来られたのか?」
ヌルチェンの問いに、リーロメルは「さあ」と肩を竦めた。
「ヌルサン陛下はそれをお望みでしょうが、なかなかそうは行きますまい。何しろ、相手は子供ですから」
ヌルチェン少し苛立ち、「訳がわからん」と首を振った。
「もっとわかるように話してくれ」
「おお、そうですね。ですが、そのままでは辛いでしょうから、少し楽にして差し上げましょう」
そう言いながらリーロメルが懐から出した小瓶を、ヌルチェンは胡散臭そうな顔で見た。
「毒か?」
リーロメルは苦笑した。
「単なる気付け薬です。気分がスッキリしますよ。さあ」
先ほどまで牢役人の鞭打ちによって床に倒れていたヌルチェンは半身だけ起こし、差し出された小瓶から立ち昇る香りを嗅いだ。
「ふーっ。確かに気付け薬だな。ではついでに、すまないが寝台に横にならせてくれ」
「いいですとも」
リーロメルは見かけによらず力があるようで、サッとヌルチェンの身体を抱え上げると、ベッドに横たえた。
「ほう。随分鍛えているのだな」
褒められたリーロメルは苦笑した。
「結局のところ、接近戦でものを云うのは腕力ですからね。武器が使えず、魔道を封じられても、身体さえ動けば相手を斃す方法は幾らでもあります。それを教えてくださったのは、あなたの従姉タンファンどのですがね」
一時は自分の実の姉と信じ込んでいたタンファンの名前を聞き、ヌルチェンは深く息を吸い、「そうか」とのみ応えた。
その間にリーロメルは牢内に一脚だけある粗末な椅子を移動してベッドの横に座り、ガルマニアと『森の街道』での経緯を簡単に説明した。
実際のところ、ゾイアどのがわたくしに何をされたのかはわかりません。
ですが、単に魔眼で支配されたのではないことだけは、自覚できました。
長く苦しい悪夢から醒めたような気持ちでしたね。
同時に、今まで全く感じなかった良心の呵責のようなものを感じるようになったのです。
もう、笑いながら人を殺めることなどできません。
つまり、刺客としては使い物にならなくなったのです。
わたくしは、他の生き方を捜すため、旅に出ようと思いました。
その時にはマオールに帰るつもりはなかったのです。
しかし、一つだけ気になることがあり、それを確かめるために密かに戻って来ました。
それは、ガルム大森林を横断する新たな『森の街道』、即ち『皇帝回廊』の進捗です。
まあ、常識的には数年以上はかかるでしょうが、意外に早ければ、わたくしもうかうかと放浪の旅をしておれなくなりますのでね。
そこで、『皇帝回廊』の起点であるタクラマール砂漠のオアシス都市ラオーランへ飛びました。
すると驚いたことに、作業が早まっているどころか中断していたのです。
わたくしは役人の一人に賄賂を渡し、事情を探りました。
因みに、以前のわたくしなら拷問していたでしょうね。
ところが皮肉なことに、拷問するより容易く情報を得ることができたのです。
この国の役人は腐っていますね。
おお、これは余計なことでした。
さて、作業が中止になっている理由とは、近々に東廻り航路が再開される見込みだからこちらは急がなくてもいいだろう、ということでした。
他人事ながら、その職務怠慢を叱ってやりたいくらいでした。
それはともかく、東廻り航路が再開されれば一大事です。
未だに戦乱の世が終息せず、ちまちまとした覇権争いに明け暮れている中原など、大波のようなマオール帝国軍に蹂躙されてしまうでしょう。
わたくしは更なる情報を求め、南都ファンクァンへ跳躍しました。
そこで、鍵を握る人物の一人と目されているシャントンという南人を捜したのですが、既に逃亡した後でした。
ヌルサン陛下の南人融和政策が裏目に出たようです。
しかし、そこで耳よりな情報を得ました。
もう一人の鍵を握る人物、即ちあなたがペイアンに囚われており、それを救うために獣人将軍が誘き出されて来るらしい、というのです。
陛下は、獣人将軍ならば東廻り航路の再開ぐらいできるだろうと思ったのでしょうか、その辺りの理由はわたくしにもわかりかねます。
ですが、子供の心しか持たぬ今のゾイアどのでは、大マオール帝国に立ち向かえるとも思えません。
そこで、わたくしの力であなたをここから脱獄させようと考えたのです。
如何でしょう、一緒に逃げてくださいますか?
リーロメルの長広舌を聞き終わると、ヌルチェンは即答した。
「断る」
リーロメルの片方の眉がクイッと上がった。
「ほう。何故です?」
「わたしが逃げれば、各地に収監されているワコ族が、全員処刑されてしまうからだ」
もう一方の眉も上がった。
「あなたがここに居るのは、そのワコ族の裏切りのせいだと聞きましたが?」
「それは少数だ。大部分はわたしの考えを理解してくれている。その信頼を失う訳には行かぬ」
リーロメルは自分を落ち着かせるように、何度か深呼吸した。
「わたくしには理解できません。が、理解できたこともあります。結局、陛下より先にゾイアどのを見つけるしかないようですね」
実はその時、ゾイアはもう一人の鍵を握る人物シャントンの近くに居たのである。




