1310 遥かなる帰路(39)
海が荒れるだろうというジェルマの予感どおり、帆船が沖へ進むにつれてどんよりとした雲が垂れ込めて来た。
「なあ、坊や。悪いことは言わねえ。今日は止しときな」
ジェルマにそう忠告したのは、髭面の船長である。
が、ジェルマは一笑に付した。
「心配要らねえよ。どうせダフィニア島の近海はいっつも荒れてるんだ。それがちょこっと早まるだけさ。さあ、約束どおり、ここでいい。小舟を下してくんな」
猶もクドクドと引き留めようとする船長に、ジェルマは啖呵を切った。
「おいらを誰だと思ってるんだ! 大魔道師サンジェルマヌス伯爵の直系の子孫、ジェルマさまだぜ! いざとなりゃあ、連れを全員纏めて跳躍して帰らあ! さあ、ちゃっちゃと舟を下すんだ!」
さすがに人のいい船長もムッとした顔になったが、怒るよりもすぐに悲しげな表情に変わった。
「わかった。坊やの言うとおりにしよう。だが、約束してくれ。危ないと思ったら、必ずリープして逃げるんだぞ」
ジェルマは軽く鼻で笑った。
「ああ、約束するとも」
櫓だけを乗せた小舟が海面に下されると、ウルスたちは船腹に垂らされた縄梯子を伝って乗り込んだ。
最後に降りたジェルマが合図を送ると縄梯子が巻き上げられ、船縁から身を乗り出した船長が手を振っているのが見えた。
その様子を見ながら、ギータが「随分親切な船長じゃのう」と述べると、ジェルマは肩を竦めた。
「まあな。一人息子を海難事故で亡くしちまって、おいらを自分の子供か孫みたいに思ってるらしい。有難えが、ちょびっと重てえや」
すると、意外なことにゾイアが反発した。
「そんな風に言わないでください。親の子を思う気持ちとは尊いものです。まして、その大事な子を失ったとあっては……」
涙ぐむゾイアにたじろぎ、ジェルマが「そんなこと言ったって、おめえは」と言い返そうとするのをウルスが止めた。
「ちょっと待って。そんなことより、交替で舟を漕がなきゃ。まず、ぼくがやるよ」
不安定なゾイアを傷つけるかもしれない言葉をジェルマに言わせないよう、ウルスは率先して櫓を握った。
ギータが目を細め「ほう」と感心したが、ウルスの覚束ない腰つきを見て笑った。
「ウルスよ。それでは舟は進まんぞ。どれどれ、わしが手本を見せようかの」
が、ウルスと代わったギータも然程上手という訳でもなく、焦れたジェルマが「おいらがやるから、素人はすっこんでな」と櫓を奪った。
すると、見違えるように舟が安定し、波を切って進み始めた。
「どんなもんだい!」
自慢するジェルマに、ウルスは素直に、ギータは苦笑しつつ拍手を送った。
その間、ゾイアは黙然と海を見ていた。
すぐに要領を掴んだギータやウルスも漕ぎ手を交替しながら舟は順調に進んだが、沖へ行くにつれて波が高くなり、風に吹かれた雨粒が頬を打つように降って来た。
ウルスが真っ青になり、手で口を覆って舟から身を乗り出すようにして呻いていると、その服の背中をジェルマが掴んで引き戻した。
「おいっ! 波に攫われるぞ! 吐く時は、顎だけ出すんだ!」
その時櫓を握っていたのはギータであったが、「あ、いかん!」と叫ぶのと同時に、その手から擦り抜けた櫓が波間に消えて行った。
振り返って「すまん」と謝るギータよりも、小舟に乗り込んで以来茫然としたままで何も手伝おうとしないゾイアに対して、ジェルマの怒りが爆発した。
「やい、ゾイアのおっさん! いや、今はおっさんじゃねえから、ゾイア! てめえは何さまなんだ! みんなして生きるか死ぬかの瀬戸際にいるってのに、一人だけ知らん顔しやがって! 変身でも何でもして、おいらたちを救けやがれ!」
ゾイアは寧ろ意外そうにジェルマに聞き返した。
「え、でも、いざとなったら、全員纏めてリープしてくれるって」
暗くてよく見えなかったが、ジェルマの頬が少し赤らんだ。
「ば、馬鹿野郎。あれは船長に見栄を張ったに決まってるだろう。憚りながら、おいらリープは自分一人でもちゃんとできるのは三回に一回なんだ。四人一緒にできるかよ」
一瞬唖然としたゾイアだったが、本人の意思に関わりなく、喉の部分から抑揚のない声がした。
「……メーデー、メーデー、メーデー。緊急避難を要請する。現在メインシステムが低稼働状態のためセーフモードプログラムにて通信。現地人三名を同行している。メーデー、メーデー、メーデー……」
それを聞いたジェルマの態度が一変した。
「やったぜ! これだこれだ! あん時と同じだ!」
その時、二人の騒ぎを他所に、顎だけ船縁から出して戻していたウルスが叫んだ。
「あああっ、島影が見えるよ! あれ? でも変だな。上が真っ平で、左右が殆ど直角だ。これはいったい……」
薄暗がりに浮かぶ輪郭は、横長の壁のように見える。
と、強い波に押されたというより、その島影の方へ引き寄せられるように舟が動き出した。
一行が息を吞んで見守るうち、正面に見えて来たのは海面から垂直に切り立った壁であった。
島らしい砂浜どころか、岩礁すらない。
しかも、その壁面には燻んだ紅色の金属のような光沢がある。
その壁にポツリと黒い点が現れたかと思うと、見る間に拡大して大きな穴になった。
穴の下の縁は、海面ギリギリまで下がっている。
その穴の中は真っ暗で、何も見えない。
しかし、ジェルマは勝ち誇ったように宣言した。
「さあ、みんな、着いたぜ! ここがダフィニア島への入口だ!」
小舟は、吸い込まれるように穴に入って行った。




