1306 遥かなる帰路(35)
狼となった少年ゾイアは、真っ先にコドウィックに伸しかかり、地面に押し倒した。
前足で両肩を押さえられたコドウィックは身動きできず、その目の前に大きく開いたルプスの口が迫っている。
「おい、おめえたち何やってるんだ! 早くこの化け物を何とかしろ!」
腰が引けていた手下たちもコドウィックの叱責でわれに返り、各自が持っている吹き矢で至近距離から二の矢を吹いた。
が、スカッとも音を立てず、ゾイアの身体を通り抜けてしまう。
「剣だ! 剣で斬れ!」
コドウィックに命じられ、四人は吹き矢を剣に持ち替えて斬りつけたが、チーズを切ったほどの手応えもなく、剣先がスルリと抜けた。
「無理だ、兄貴! すまねえ!」
怯えた一人が逃げ出すと、後の三人もそれに続いた。
「おい、待て! おめえら、おれを見捨てるのか! 戻って来い!」
コドウィックの叫びも空しく、四人は逃げ去った。
邪魔する者もいなくなり、牙の生えた獰猛な口が、流れ落ちる涎と共に、もうコドウィックの鼻先に触れそうなほどに近づいて来ている。
さすがに観念したのか、コドウィックは少し震える声で哀願した。
「ま、待て。いや、待ってください。おれが悪かった。もう、バロードの王さまには、ちょっかいをかけねえ。頼む、見逃してくれ」
それでもゾイアは喉の奥で唸り声を上げていたが、落馬して倒れたまま動かない四人が気になるのか、首だけ捻って後ろを振り向いた。
見たところ怪我をしている者はいないようだが、呼吸が微かに乱れているようにも思える。
その時、ゾイアの喉から抑揚のない声が響いた。
「……使用されている薬物の中に、ごく微量ながら副作用として呼吸困難を齎すオピオイド系成分を発見。至急、解毒剤の投与が必要……」
一瞬にして頭部だけ少年に戻したゾイアは、ルプスの前足で押さえ込んだままのコドウィックに問い質した。
「解毒剤は?」
コドウィックは風向きが変わったことを悟り、ニヤリと笑った。
「おお、あるぜ。だが、このまんまじゃ渡せねえな。放してくれよ」
が、ゾイアはルプスの前足はそのままで、胸の辺りから人間の腕を生やすと、コドウィックの懐を探った。
コドウィックは小さく舌打ちしたが、どうすることもできない。
ゾイアの第三の手は、小さな硝子瓶を取り出した。
「これだね?」
コドウィックはプイッと横を向き、「知らねえな」と惚けた。
ゾイアは構わず、瓶の栓を口で引き抜くと、あろうことか、そのまま飲んでしまった。
ギョッとして見つめるコドウィックの前で、再びゾイアの喉から抑揚のない声がした。
「……拮抗薬のナロキソンが含まれていることを確認。直ちに投与する……」
その言葉が終わると同時に、ゾイアのルプスの背中から四本の触手のようなものが伸びた。
その先端には鋭い針が付いている。
触手は更に伸び、倒れたまま動かない四人の腕にその針を突き刺した。
すると、殆ど間を置かず、四人が次々に呻き声を上げた。
触手を引っ込め、第三の手も元に戻すと、漸くゾイアはコドウィックを押さえつけていたルプスの前足を外し、全身を少年の形態に戻した。
「あの薬は獣用でしょう? 人間に使っちゃ駄目だよ」
見た目十歳ぐらいの裸の少年に窘められ、コドウィックは不貞腐れたように寝転んだまま鼻を鳴らした。
「知るかよ! そんなことは、薬を売りつけたマオール人に言ってくれ!」
ゾイアはそれ以上言っても無駄だと思ったらしく、コドウィックには構わず、倒れている四人の様子を見に行った。
一人ずつ順番に「大丈夫ですか?」と聞いて回っているうちに、コドウィックは逃げたようだが、最早そちらを見ようともしない。
最初に一番若いウルスが目を醒まし「ありがとう、ゾイア」と礼を述べると、次にラミアンが「ああ、助かったあ」と安堵の声を上げ、スルージも「死ぬかと思いやした」と苦笑した。
が、ギータの意識はなかなか戻らなかった。
起き上がって来たウルスが心配そうに覗き込み、「大丈夫かな?」とゾイアに尋ねた。
困惑するゾイアの代わりに、喉から返事があった。
「……高齢のため、新陳代謝の速度が遅くなっている模様。血液の循環を速めた方がよい……」
意味がわからずに茫然としていたウルスが、「あ、そうだね」と顔を上下させ、ウルスラと交替した。
「ともかく癒ししてみましょう。ゾイアもお願い」
「わかりました」
二人はギータに向けて手を翳した。
やがてギータの皺深い顔に赤味が差し、クリッとした目が開いた。
「ここは天国かの?」
ウルスラは笑って「残念だけど違うわ」と教えた。
ギータはフーッと深く息を吐き、意外に真面目な顔で述懐した。
「綺麗な花畑のような場所を歩いておったら、目の前に広い川があった。とても泳いで渡れそうにないから、どうしようかと見回すと、渡し船が見えたんじゃ。ところが、わしがそちらに向かおうとすると、『行ってはなりません』と誰かが止めてくれた。ハッとして声のした方を見ると、サンサルス猊下のようであったよ」
ウルスラは少し目を潤ませ、ギータの小さな手を握った。
「戻って来てくれて、ありがとう」




