1305 遥かなる帰路(34)
少年ゾイアから自分の母のことを尋ねられたウルスは、一瞬言葉に詰まった。
「……そうか。ゾイアは覚えていないんだね。ぼくのお母さんはもういないんだよ」
「死んだのですか?」
悪気ではないとわかっていても、ウルスは思わずゾイアを睨んでしまった。
急いで目を逸らし、呟くように「違う。殺されたんだ」と告げた。
ゾイアは目を潤ませ、「ああ、ごめんなさい」と謝った。
「辛いことを思い出させてしまったのですね。すみませんでした」
ウルスは大きく溜め息を吐くと、笑顔を作って見せた。
「いいんだ。母上のことは、いい思い出だけ心に浮かべるように努力してるんだけど、やっぱり不意にあの時のことが甦ってしまうんだ。でも、母上はきっと、こう言うと思う。『相手を憎まず、赦しなさい』と」
「優しいお方だったのですね」
「そう。本当に優しい人だった。でも、自分には厳しい人だったし、ぼくらにも王家の者としての義務を躾る時には厳しかったよ。母上さえ生きていれば、父上もあんな最期を迎えることはなかったろうに……」
と、その時、ゾイアが「ああっ」と声を上げると、顔の部分だけ別人に変わった。
ウルスは張り裂けそうに目を見開いてその顔を見つめた。
「母上!」
が、呼び掛けに応える声は、ゾイアのままであった。
「すみません。王さまのお話を聞いているうちに、突然こうなったのです。態とではありません」
一方、ウルスは俯いて独り言のように喋っている。
「……ああ、そうか、姉さん。父上の今際の際に、ゾイアの身体で母上の役をしたんだね。すると、その記憶は、ゾイアの心ではなく、身体の方に残っているのかもしれない。うん、いいよ」
そう言いながら顔を上げた時には、瞳の色が変わっていた。
「まあ、本当にそっくり。あの時には自分で見ることができなかったけど、これなら父上も母上だと信じたでしょう。ありがとう、ゾイア」
再び顔が上下し、ウルスに戻ると、しみじみとゾイアの顔を見つめた。
「姉さんの言うとおりだ。まるで母上が生き返ったみたいだよ。これに比べれば白魔が化けたのなんて、全然似てないよ」
「ドゥルブ?」
そう聞き返した時には、ゾイアの顔は元の少年に戻っていた。
ウルスは、「ああ、余計なこと言っちゃったな」と悔しがった。
「仕方ない。またいつか見れるよね。さあ、そろそろ寝る準備をしなきゃ。行こうゾイア」
先に立って歩き始めたウルスの後ろで、ゾイアは「ドゥルブ……」と言いながら、遥か西の方を見ていた。
そして、翌朝となった。
ゲオグスト商人組合の人々は、各自必要最小限の荷物を背負い、身軽に動ける恰好になっていた。
その様子を見ながら、ファーンが馬の見張りから戻って来たギータに説明している。
「ここでの生活用品の大部分は放棄してもらうしかない。『森の街道』と違い、謂わば道なき道を行くことになるからな」
「仕方あるまい。向こうへ着けば、幾らでも新しいものが手に入るじゃろう。それより、本当におぬし一人で大丈夫か? 途中までスルージに送らせてもよいぞ」
ギータの申し出に、ファーンは少し考えたが、すぐに首を振った。
「いや、必要ない。かれらも森の暮らしに慣れているし、幸い小さな子供もいないしな。寧ろ心配なのは、そちらだろう。あの連中の姿が見えないのが気にかかる」
「コドウィックらの五人組じゃな。まあ、心配は要らぬよ。わしらにはゾイアがおるからの」
ゾイアと聞いて、ファーンの顔が曇った。
「不思議なものだ。共に居た時には、ごっこ遊びのような軽い気持ちであったのに、いざ離れ離れになると思うと、痛いほどに胸に沁みる。母とは辛いものだな。おお、すまん。柄にもないことを言っているな。それで、ゾイアはどうしている?」
自嘲するように笑って聞くファーンを、ギータは慈しむように微笑みながら答えた。
「ウルスから亡きウィナ妃の話を聞いて、自分も耐えなければと思ったようじゃ。頑張って役目を果たすと言うておるよ」
ファーンは吐息した。
「そうか。ならば、わたしも確りせねばな。道中、気をつけてくれ」
「お互いにのう」
ファーンに先導されたビスマッハらの一行を見送った後、愈々ウルスらも出発することとなった。
ファーンの馬はスルージが引継ぎ、五人は馬四頭と騾馬一頭に一人ずつ乗って『森の街道』を並足で進んだ。
進み始めてほどもなく、ヒュッ、ヒュッと風を切るような音が聞こえたかと思うと、その直後、スルージ・ラミアン・ギータ・ウルスの四人が次々に落馬した。
一人平然としているゾイアの前に、ゴツい体格の五人の男が現れた。
勿論、コドウィックら五人組である。
真ん中に立ったコドウィックが、唇を歪めて、手下を叱った。
「なんでえ、一人吹き矢を外しやがったな。いくら即効性の痺れ薬でも、当たらなきゃ効かねえぞ」
しかし、手下の一人が口を尖らせて反論した。
「いえ、確かに当てやした。こういう時のためにマオールから仕入れてた薬をタップリ塗ってあるやつをね」
すると、冷静だったゾイアに異変が起きた。
ゲーリッヒから貰った服がビリビリと裂け、いきなり身体が倍以上に膨らむと、ゾワゾワと黒い獣毛が生え、一気に狼に変身した。
爛々と光る緑色の目で驚愕するコドウィックらを睨みつけると、野獣の咆哮を上げながら襲い掛かった。




