1288 遥かなる帰路(17)
狼が来るから逃げるようにと警告する少年ゾイアを、しかし、ゲーリッヒは嘲笑った。
「一匹二匹のルプスが怖くて、狩りなんかできるかよ。こんなでっかい獲物なんて滅多にねえんだ。置いて行けるもんか」
そう言いながら、早くも弓に矢を番えている。
ルプスを射るつもりであろう。
が、熊を仕留めた本人であるウルスは首を振った。
「獲物はまた獲ればいいよ。まあ、処理の仕方が見たいから毛皮は持って逃げるとして、肉はルプスにあげたら?」
文句を言いかけたゲーリッヒは、チラッと遠吠えが聞こえた方を見て舌打ちした。
「こりゃ、結構な群れだな。仕方ねえ。各自手早く荷物を纏めて、とっとズラかるぜ!」
肉は置いて行こうとウルスは言ったが、ゲーリッヒは諦め切れないように内臓の一部を切り取った。
「せめて熊の胆ぐれえ持って帰らねえとな」
早速ウルスが寄って来て、「それは?」と尋ねた。
「胆嚢さ。薬効があって、高く売れるんだぜ」
「へえ」
ゾイアを馬に乗せながら二人の様子を見ていたファーンが、やや苛立ったように「急げ!」と叫んだ。
ラミアンも慌てて自分の馬のところへ走った。
結局、毛皮も全部を載せるほどの時間の余裕はなく、背中の広い部分だけを四等分にして各馬に積んだ。
ゲーリッヒが「行くぞ!」と号令をかけた時には、唸り声が聞こえるほどルプスが迫っていた。
ゲーリッヒ、ウルス、ラミアン、ゾイアとファーンの順に出発した。
ファーンが最後尾なのは、殿のつもりであろう。
が、後ろを振り返って舌打ちした。
見たところルプスは二十頭ほどおり、どうやら近隣の複数の群れが合流したらしい。
「恐らくウーススに縄張りを奪われ、報復の機会を狙っていたのだろうな」
ゾイアに説明するでもなく、独り言のように呟くと、何度も振り返りながら馬を走らせた。
最初の一頭がウーススの肉に齧りつくと、先を争って半分ほどがそちらへ行ったが、残る半分は逃げるファーンの馬を追い始めた。
「くそっ」
疾うに跳躍する時機は逸しており、それどころか、何か技を使うために少しでも馬の速度を緩めれば、一気に襲撃して来るだろう。
勿論、馬を捨てて浮身すればファーンとゾイアは逃げられるが、馬を犠牲にする決断がつかぬまま、なんとか振り切ろうと馬を急がせた。
と、ゾイアが「ぼくに任せて!」と言うや否や、スルリとファーンの腕をすり抜けて馬から下りてしまった。
「あ、待て、ゾイア!」
ファーンが振り返ると、ゾイアは服を脱ぎ捨てて全裸となり、急速に獣人化している。
いや、大型のルプスとなり、追ってくるルプスたちを威嚇するように咆哮したのである。
一瞬怯んだものの、数に勝るルプスたちは、連携してゾイアに襲い掛かった。
しかし、噛まれれば噛まれるほどゾイアのルプスは巨大化し、先程ウルスが斃したウーススの倍ほどになったため、大半は諦めて逃げて行った。
ところが、一頭だけ強敵のゾイアを避け、馬を止めて様子を見ていたファーンの方へ向かって来た。
ファーンの目がスッと細くなり、いつの間にかその手に一本だけ刀子が握られている。
「毒は使わぬ」
そう宣言した時にはもう、ルプスが大きく口を開いて跳び掛かって来ていた。
その刹那、ファーンの手が目にも留まらぬ速さで振り下ろされ、「ギャン!」とルプスが吠えて落下した。
まるで角が生えたように、眉間に刀子が突き刺さっている。
その間に人間形に戻ったゾイアが、脱いだ服を抱えて戻って来た。
「獲物が増えたね、お母さん」
ファーンは苦笑した。
「まあ、そういうことだな。行くぞ、ゾイア」
「はい」
小川の辺で先に逃げたゲーリッヒたちに追いついたファーンは、呆れたように笑った。
「暢気なものだな」
下処理のためだろう、三人はウーススの毛皮を川で洗っていたのだ。
が、振り返ったゲーリッヒは案外真面目な顔で、「違う」と否定した。
「血の臭いで、別のルプスが来るかもしれねえからな。ってか、一頭仕留めたようだな」
「ああ。やむを得ず、だが。そうか、これも血抜きをしないとな。因みに、肉は喰えるのか?」
これには、作業中のウルスが笑顔で答えた。
「食べられるよ。但し、肉食獣の肉は臭味が強いから、充分に水洗いしてから、臭い消しの薬草を揉み込むといいんだ」
ゲーリッヒも笑いながら、「ウルスの言うとおりだ」と頷き、更に褒めた。
「ウルスは筋がいいぜ。飲み込みも早えし、ちゃんと自分で考えて熟してる。他所の国の王さまじゃなきゃ、おれの弟子にしてえくらいさ」
すると、ウルスは顔を輝かせて頼んだ。
「弟子にしてよ!」
これには、慣れない手つきで毛皮を洗っていたラミアンが悲鳴のような声を上げて反対した。
「駄目ですよ、陛下! お立場をお考えください!」
猶も、「だって」と言いかけるウルスに、ゲーリッヒが苦笑して「冗談だよ」と手を振った。
「おれがいいと言ったって、どうせおめえの姉ちゃんが反対するさ。だが、ここに滞在中は弟子のつもりで接してやる。それでいいな?」
ウルスは感激して「ありがとう!」と礼を述べたが、すぐに顔が上下して瞳の色が限りなく灰色に近い薄いブルーに変わった。
「あら、わたしだって反対はしないわ。でも、わたしとウルスを分けられない以上、仕方のないことよ。まあ、ここに滞在する間は、精々弟を可愛がってやってね」
ゲーリッヒは鼻を鳴らし、「いけ好かねえ女だぜ」と吐き捨てた。




