1281 遥かなる帰路(10)
「待つのだ、リーロメル!」
そう叫んだのは、無論、ファーンであった。
既に隠形を解き、両手に三本づつ刀子を握っている。
呼び掛けられたリーロメルは、魔縄で捕らえた少年ゾイアを押さえ込もうとしていた手を弛め、逃げないよう縄尻だけを確り掴んでファーンを見た。
態とらしい驚きの表情を作り、「おお、これはこれは」と声を上げた。
「どなたかと思えば、お師匠さまではありませぬか。いやはや、見違えましたねえ。鋭利な刃物のような気品のあるお美しさを捨て、野に咲く雑草のような逞しい面構えになられておりまする。悪くはありませぬが、腕は少し鈍られましたなあ。最初の一撃で敵を斃すのが最上の策、というご自分の教えを実践できぬとは」
ファーンは硬い表情で言い返した。
「警告のため意図的に外したのだ。次は外さぬ。さあ、ゾイアを放せ!」
リーロメルは惚けた顔で笑った。
「おお、なんと手緩い駆け引きでしょう。マオール帝国にその人ありと知られた、冷酷無比の女刺客タンファンさまとも思えませぬ。花を愛でられておるとか噂に聞きましたが、職を変えられた方がよいでしょうねえ。最初にギータさんに申し上げたでしょう? おかしな真似をすれば、若者が死ぬと。わたくしは嘘を申しませんよ」
次の瞬間、激しい水音がして、小舟にいたラミアンが湖水に飛び込んだ。
然程深くはないはずだが、精神を支配されているためか、全く泳ごうとせず、そのまま沈んで行く。
ファーンはリーロメルから目を離さず、「ギータどの、ラミアンを頼む!」と叫んだ。
「おお、心得た!」
ギータは、自分が水に飛び込んでも体格的にラミアンを救けられないため、縛られたまま桟橋に立っているスルージを目掛けて走った。
最後は、ポーンと一跳びし、猿轡と後ろ手に結わかれた紐を一気に小刀で斬った。
「スルージ、ラミアンを救けるのじゃ!」
ところが、ゆっくり振り返ったスルージの両目は暗黒であった。
リーロメルと同じ笑みを浮かべて首を振った。
「残念ですが、それはできませんねえ。他人のことより、ご自分の生命をご心配なさったらどうですか、ギータどの?」
スルージの手にはいつの間にか短剣が握られており、その背後では術が解けたラミアンが激しく水音を立てて藻掻きながら、「だ、誰か、救けてえ!」と叫んでいる。
が、ギータは小刀を構え、その両者を等分に睨みながら、ファーンに声を掛けた。
「今ならリーロメルの力はスルージに分散しておるはずじゃ! 勝機ぞ!」
ギータは、振り下ろされたスルージの短剣をギリギリのところで避けたが、第二撃、第三撃と引きも切らず斬りつけてくるため、それ以上ファーンに助言する余裕もない。
ギータの小刀は武器というより道具であり、体格の差もあって、ジリジリと追い詰められている。
ファーンはギリッと奥歯を嚙み締めたが、しかし、どちらにも動けなかった。
その様子を見て、リーロメルの本体が嘲笑った。
「どうしました、お師匠さま? ギータどのはああ仰っていますよ。わたくしを攻撃しないのですか? ふふん、できませんよねえ。魔眼は確かに一度に一人しか支配できませんが、そのことによってわたくしの力が削がれる訳ではありませんから。さてさて、お遊びはこれくらいにして、失礼しましょう。邪魔をするなら、お師匠さまでも殺しますよ!」
何の予備動作もなく、リーロメルはもう一本の魔縄をファーンに投じ、一瞬にして身体の自由を奪ってしまった。
「ほらね。あなたの知らないうちに、弟子は師を超えたのですよ。覚悟してください」
リーロメルが笑いながら魔縄を手繰り寄せようとしたが、その時、ファーンが叫んだ。
「ゾイア、今こそ母のために闘ってくれ!」
リーロメルは半笑いで「おやおや、ゾイアどのにお乳でも飲ませたのですか?」と揶揄ったが、すぐに異変に気づいて真顔になった。
魔縄で身動きも儘ならなかったゾイアの身体が、いきなり何倍にも膨れ上がったのだ。
次の瞬間、異音を発して魔縄が弾け飛んだ。
更に、服も裂けて全裸となっていたゾイアの身体に、黒い獣毛が生え出て来た。
ところが、顔だけは少年のまま巨大化し、気弱そうに「お母さん?」と呟いている。
ファーンは締め付けて来る魔縄に身を捩りながらも、自らも励ますように声を張った。
「そうだ! そして、その男は母の敵だ! 闘え、ゾイア!」
が、リーロメルは狡そうに「ははあん」と笑った。
「ゾイアどのの心は、本当に子供のようになってしまったのですねえ。それならことは簡単ですよ」
スッと垂直に上昇し、その暗黒の目で巨大化したゾイアの顔を正面から見た。
と、向うの方で、スルージの「あれ? あっしはどうしたんでしょう?」という声が聞こえた。
同時に、ギータが「ゾイアよ、その男の目を見てはいかん!」と警告を発した。
しかし、ゾイアにはその声が届かないのか、空中に浮かぶリーロメルと完全に真正面に向かい合った。
リーロメルは勝利を確信したのか、声を上げて笑いながらゾイアに命じた。
「さあ、ゾイアどの。あなたはわたくしの僕となるのです!」




