1280 遥かなる帰路(9)
翌日の未明にアルカン湖近くの森に着いたファーンとゾイアは、樹に馬を繋ぎ、肩を寄せ合うようにして仮眠を取りながら、夜明けを待った。
空が白み始めた頃、目を閉じているファーンの片手がスッと上がった。
その手には刀子が握られている。
「殺さんでくれ、わしじゃ」
惚けたように言いながら、小人族のギータが樹の蔭から出て来た。
ファーンも切れ長の目を開け、「おお、ギータどのか」と白い歯を見せて笑った。
「すまぬ。寝呆けたまま知り合いを殺すところであった」
「いや、さすがと云うべきじゃろう。わしとて多少は隠形の真似事はしておったでな。それはさて置き、だいたいの事情はウルスラから聞いたと思うが、ここはやはり、わしが現場におった方が良かろうと思うてな」
「成程。確かにリーロメルはギータどのを指名したと聞いた。ならば、わたしは極力隠れていよう」
「うむ。そうしてくれ。おっ、ゾイアも目が醒めたようじゃな」
確かに少年ゾイアも目を開き、夜明け前の薄明りの中で、アクアマリンの瞳がギータの皺ばんだ小さな顔を捉えているようだが、その表情は茫然としたままであった。
「ほう。わしを忘れておるのか。ふむ。記憶が定着しないのじゃな。ならば、昔のことは何か覚えておるか?」
「昔?」
ゾイアは首を傾げ、周囲を見回した。
その視線は隣に居るファーンを自然に通り過ぎ、再びギータに戻った。
悲しげに「何も思い出せない」と告げるゾイアに、ギータは畳み掛けるように聞いた。
「おぬしの横におる女性は誰じゃ?」
「え? お母さんのこと?」
これにはファーンが苦笑し、ギータに説明した。
「ゾイアが不安がるので、わたしを母と思えと教えたのだ。その部分だけが記憶に残ったらしい」
ギータも笑った。
「随分若い母親じゃな。あ、いや、ゾイアがこの世界に生まれて三年半くらいじゃから、ちょうど似合いの年頃か。おお、すまん。戯れ事はこれくらいにして、策戦を考えよう」
「そうだな」
夜が明け、眩しい陽光が射す中を、ギータはゾイアの手を引いて移動を開始した。
並んで歩くと、殆ど身長に差がない。
近くにファーンの姿はないが、隠形しているのであろう。
湖畔に着くと、小さな桟橋に繋がれた小舟が見えた。
「あれじゃな」
ギータはそのまま進もうとしたが、ゾイアが立ち止まってしまった。
「どうした、ゾイア?」
問い掛けるギータを見ずに、ゾイアは怯えたように湖面を見つめている。
ギータもその視線の先を追ってみたが、特に何も見えない。
「おぬしには何か見えるのか?」
ゾイアは驚いたように首を振った。
「そうじゃない。この湖は良くないところ。近づかない方がいい」
「ほう。若しや記憶が甦ったのかもしれんな。スルージから聞いたが、ここでおぬしは最大の難敵と戦ったのじゃ。しかし、勝利した。もう怖れることはないぞ」
「スルージ?」
「おお、思い出したか? モジャモジャ頭の魔道屋スルージじゃ」
と、ゾイアの指がスッと桟橋の方をさした。
ハッとしてギータがそちらを見ると、先程まで誰もいなかった桟橋の上に人が立っていた。
魔道屋スルージであった。
後ろ手に縛られ、口に猿轡を噛まされている。
瞳の色は、いつもの灰色であった。
何かを伝えようとしてか、必死で身を捩り、モゴモゴと声を出そうとしている。
ギータは周囲を見回しながら叫んだ。
「約束どおりゾイアを連れて来たぞ! リーロメルよ、ラミアンはどうしたのじゃ!」
「ここにいますよ」
その声は小舟の中からだった。
誰も乗っていなかったはずの小舟にラミアンが立っていた。
が、その目は白眼の部分まで真っ黒であった。
顔に浮かぶ皮肉そうな笑みも、リーロメルのものである。
「日没までと期限を切ったのものの、厳しすぎたかもしれないと反省しておりましたのに、夜明けと共に連れて来てくださるとは上出来ですねえ。但し、上出来すぎます。罠の臭いがプンプンしますよ」
ギータは負けじと言い返した。
「偶々ゾイアがわしらを追って来ておったのだ。一刻も早くラミアンを救いたいとの女王の思し召しもあったでな。さあ、ラミアンを返してもらおう!」
その時、ギータの後ろに隠れるように立っていたゾイアが、「ああっ」と声を上げた。
どこからか飛んで来た投げ縄が、ゾイアの両腕ごと締め上げていた。
ギータは舌打ちし、「ゾイア、それぐらいの縄なら簡単に抜けられるじゃろう。身体を変形させるんじゃ!」と助言した。
が、よく見ればそれは徒の縄ではなく、蛇のようにクネクネと蠢き、ゾイアの身体を捕らえて離さない。
その縄尻を握ったリーロメルの本体が姿を現した。
その両目もまた暗黒に染まっている。
支配しているラミアンと同じ笑顔で告げた。
「魔族には色々と面白い魔道具が伝わっておりましてね。これは『魔縄』というもので、ヌルサン陛下から特別にわたくしに下賜されたものですよ。ゾイアどのが如何に変身しようと、一度巻き付いた魔縄は外せません。では、お約束どおり、ゾイアどのをいただいて帰りますね。言っておきますが、おかしな真似をすれば、わたくしの支配下にあるあの若者は湖に飛び込み、二度と浮かんで来ませんよ。それでは、ご機嫌よう」
北叟笑んで話す間にも、リーロメルは魔縄を手繰り寄せており、近くに来たゾイアを抱き留めた。
これがアルカン湖でなければすぐにでも跳躍していたであろうが、藻掻くゾイアを両手で押さえつけながら飛び上がろうとした。
と、不意にリーロメルが顔を反らすと、その鼻先を掠めるようにして刀子が通りすぎた。
「待つのだ、リーロメル!」




