1267 魔の婚礼(38)
少年の体型のまま獣人化し、ジョレに飛び掛かったゾイアは、短剣を握っている方の手首を噛んだまま引き摺り倒した。
更に、ジョレの真後ろに居たシャドフも、煽りを喰らって突き飛ばされた。
その隙にタロスが駆け寄ってウルスラを抱き上げ、その周りをファイムやフォルスが固めた。
短剣を手放したジョレが痛みに悲鳴を上げると、タロスの腕に抱かれたウルスラが振り返り、「ゾイア、もう止めて!」と叫んだ。
が、理性を失っているのか、ゾイアは猶も力を籠めて噛み続けている。
そのため、ジョレの悲鳴がどんどん甲高くなって行く。
と、ポーンと弾むようにギータが傍まで跳んで来て、「よさんか、ゾイア!」と滅多に出さないような大声で命じた。
「ジョレは既に降参しておる。それより問題は外に迫っている軍勢じゃ。皆が逃げるまで、時間を稼いでくれ。このままでは全員殺されるぞ。頼む、ゾイア!」
その言葉をどこまで理解したのか、ゾイアはジョレの手を離し、四つん這いで走り去った。
泣き叫んでいるジョレの様子を見たギータは、「大丈夫じゃ。これぐらいで死にはせん」と、ややホッとしたように告げた。
が、すぐに「あの男は?」と周囲を見回した。
それとほぼ同時に、少女の悲鳴が聞こえた。
皆がそちらに注目した時には、右腕でヤンを抱えたシャドフが、左手に持った刀子を高く掲げていた。
「言っとくが、この刀子には猛毒が塗ってある! 一刺しでこの娘は死ぬぞ! さあ、オーネをこっちへ寄越せ!」
ウルスラが人質となっていた時には薄ら笑いすら浮かべて見ていたヤーマンが、蒼白になっていた。
「やめてちょう。ヤンには何も関係にゃあでよ」
「関係はあるさ! てめえの娘だからな! もう時間がねえ! どうしてもオーネを渡さねえなら、このまま逃げるだけだ!」
このような場合であったが、杜の番たちに拘束されているオーネが唇を歪め、「薄情者!」と罵った。
その横をすり抜けるようにして、緑色の小さな人影がシャドフの前に駆け寄った。
「ヤンを、助けて、くれ! おれ、人質に、なる!」
全身を草色の布で覆ったハンゼであった。
シャドフは皮肉な笑みを浮かべた。
「親子揃って身代わり志願か。残念だな。ハリスにしろ、おめえにしろ、死んだところでヤーマンは屁でもねえよ。もういい。オーネは好きにしろ。おれは逃げ」
不意にシャドフの声が途切れ、ギョッとしたように自分の左手を見た。
そこに握られていたはずの刀子が消えている。
背後から声が聞こえた。
「物品引き寄せは得意ではありませんが、あなたの注意が前ばかりに向いていましたのでね。さあ、これで借りは返しましたよ」
刀子を奪ったのは魔道師カールであった。
まだ片腕は痺れたままらしく、ダラリとしている。
シャドフは舌打ちしたが、「その刀子でおれを刺さなかったのが、おめえの甘いとこさ」と言いざま、ヤンと一緒に跳躍する態勢に入った。
が、防護殻が二人を包む寸前、真正面から飛んで来た短剣が、シャドフの額に突き刺さった。
シールドが消えると、ヤンはシャドフの腕を振り解き、自分を庇おうとしてくれたハンゼに抱きついて泣き出した。
咄嗟にジョレが落とした短剣を拾い上げて投じたのは、何とファイム大臣であった。
まだ呆然としているヤーマンの方を向いて軽く頭を下げた。
「娘御を盾にするとは、男の風上にも置けぬ所業と思い、差し出たことをいたしました。わたしも同じ歳頃の娘がおりますので」
「おお、助かったぎゃ。この恩は」
ヤーマンの礼の言葉を掻き消すように、大きな鬨の声が外から聞こえて来た。
ヤーマンは表情を改め、部下たちに命じた。
「おみゃあたち全員で手分けして客人を逃がせ! ハリスもドーラも手伝ってちょう!」
さすがに自分だけ逃げることを恥じる気持ちになったようだ。
尤も、二人の補佐官のうち、ドーラが既に逃げてしまっていることは、まだ誰も気づいていない。
その代わり、孫のウルスラがタロスの腕から降り、「みんなで協力して逃げましょう!」と呼び掛けた。
タロスは「何とかわれらの警護兵で時を稼ぎます」と告げると、共に戦うことを申し出たファイムたちと外へ向かった。
どうしようか迷っているラミアンには、ギータが「おぬしは、わしと一緒に避難誘導の方を手伝うのじゃ」と声を掛けた。
その混乱の最中、一人だけわれ関せずとニヤニヤ笑っている者がいた。
マオール帝国の特命全権大使リーロメルである。
「なんとまあ面白い見世物が続くのでしょうね。もっと眺めていたいところですが、巻き添えで死ぬのは御免です。失敗したら殺そうと思っていたシャドフも死にましたから、後腐れもありませんし。そろそろお暇いたしましょうか」
目立たぬようにスーッと隠形したが、そのニヤニヤ笑いだけが残像のように暫く消えなかった。
その少し前、皇后宮の周りはロッシュ軍一万に完全に包囲されていた。
衛兵三千は殆ど逃亡したため、代わりにバロードの警護兵千名と各国各自由都市の護衛たちが全員城内に入り、城門を閉ざして護りを固めている。
その中に、なんと元皇帝のゲーリッヒがいた。
実は、警護兵たちに城内に入るよう指示を出したのはゲーリッヒであった。
式典が始まって早々に「下らねえ茶番に付き合ってられるかよ」と外に出てブラブラしているところへ、カールの敵襲を知らせる叫びを聞いたのである。
楼台に登って周辺を見回しながら、頻りに舌打ちしている。
「こんな城でもないよりマシと思ったが、とても護り切れねえな。ん? ありゃ何だ?」
黒い獣が一匹、城壁を跳び越えて外へ走り出た。
同時に包囲するロッシュ軍から、大広間にまで響いた鬨の声が上がったのである。




