1212 スタンドバイ(2)
「ぼくって、ゾイアという名前なの?」
聞かれたエマは困ったように笑った。
「そうよ。少なくとも、自分ではそう名乗っていたわ。しっくり来ないの?」
自分でもよくわからず、そのまま答えた。
「わからない。でも、違うという気もしない。だから、それでいいと思う」
エマの笑顔が優しくなった。
「じゃあ、わたしも今からゾイアと呼ぶわ。お水を飲んで落ち着いたら食事にするけど、どうする? ここに運ばせてもいいけど、良かったら大食堂に行ってみない?」
「ケーナティオ? カフェテリアみたいなものかな?」
エマの怪訝そうな顔を見て、自分がおかしなことを言ったのはわかったが、どんな言葉だったのか、もう思い出すことはできなかった。
その代わり、エマが望んでいるであろう答えを返した。
「そこへ行ってみるよ。どんなところか見たいし」
エマはホッとした顔で、「じゃあ、後で迎えに来るわ」と告げて出て行った。
一つ溜め息を吐き、サイドテーブル置かれた器に入った水を飲んでみた。
湯冷ましとは言っていたが、器の木の香りが移っており、飲み難くはなかった。
ところが、喉の渇きが癒されたのかどうか自分でもよくわからず、まして空腹かどうか判然としなかった。
すると、喉の辺りから自分のものではない声が聞こえた。
「……感覚質の形成が未だに不完全。……本来の記憶との乖離が要因と思われる。……速やかな再起動を推奨する……」
声が止まり、恐る恐る喉を触ってみたが、ツルリとした感覚があるだけで、特に異常はない。
しかし、別の驚きがあった。
「あれ? アダムのリンゴがないみたいだけど」
が、次の瞬間にはその言葉がスルリと意識から抜け落ち、思い出せずにいるうちに、エマが戻って来た。
「どう? 食べられそう?」
「え? ああ、そうだね。服はこのままでいいの?」
起きた時には気にならなかったが、今着ているのは麻のような素材の貫頭衣で、寝間着のような服装であった。
エマは笑顔で「勿論よ」と頷いた。
「それが患者さんたちのお仕着せなの。脱ぎ着がしやすくて、洗濯も簡単。みんな同じものを着ているから、恥ずかしいことはないわ」
そう言うエマは、もっと確りした作りの平服であった。
その視線に気づいたらしく、エマは苦笑した。
「わたしたちは別。外の世界に出る必要があるからよ」
「外の世界?」
エマは表情を引き締めた。
「さあ、質問はそこまでにして、とにかくケーナティオに行きましょう。お腹が空いたでしょう?」
まだその感覚はなかったが、逆に満腹ではないことは自分でもわかったので、「うん」と答えて部屋を出た。
廊下は左右に長く延びているようだ。
「随分大きな建物だね」
エマは何故か肩を竦めた。
「大きすぎるのが悩みの種よ。この施療院は、最大二百人を収容できるの。でも、癒しができる霊癒族が十人しかいない状況では、宝の持ち腐れね。本来患者用に使っていた部屋の大部分は、手伝ってくれている人たちの住居として使ってもらってるわ。使わないと部屋が傷むし」
「どうして必要以上に大きいの?」
エマは少し言い澱んだ。
「……昔は、もっと大勢のサナト族がいたからよ。純系を保つために他部族や普通人との混血を避けた結果、それでなくても低かった出生率は年々低下し、同族婚の弊害も出ているの。今残っているのは血縁の近い者ばかりだから、もう次の世代は生まれないでしょうね」
「でも、血統に拘らず、みんなにヒーリングを教えたらいいんじゃないの?」
エマの表情が一変した。
「そんなこと、できる訳ないでしょう!」
が、すぐに泣きそうに顔を歪め、「ああ、ごめんなさい」と謝った。
「あなたに怒っても仕方ないわね。確かに、バロードのウルスラ女王はニーナに教えられてできるようになったというし、その結果、あなたも……大丈夫?」
頭痛がして顔を顰めたものの、先程よりは軽いようで、「なんとか」と笑って見せた。
「でも、サナト族以外でできる人がいるなら、可能性はあると思うけど」
エマはフーッと溜め息を吐いた。
「そうね。でも、わたしは一族を束ね、掟を守らせる立場。なかなか踏ん切りはつかないわ。さあさあ、もう質問は禁止よ。少なくとも、食事が終わるまでは」
そこからは二人とも黙り込んで廊下を歩いた。
何度か角を曲がり、突き当りの大きな扉の向こうに、巨大な広間があった。
天井が身長の何倍も高い吹き抜けで、屋根と壁の高い位置にある多数の明かり採りの窓には、薄い色調の硝子が嵌め込まれている。
床は大理石が敷き詰められ、そこに長いテーブルが何列も並べられていた。
恐らく、エマが最大人数と言っていた二百名が一度に食事をできるようにだろうが、見たところ、その十分の一程度しか居なかった。
エマは少し淋しそうな笑顔で、「どこでも好きなところにどうぞ」と告げた。
が、どこに座るか実はもう決めていた。
ここに入った瞬間、草色をした人の姿が目に入っていたのだ。
「どこでもいいのなら、ハンゼの隣でもいいかな?」
エマはちょっと迷ったが、「いいわ。でも頭痛がしたら、すぐに呼んでちょうだい」と告げると、準備のためか奥に歩いて行った。
その間にハンゼに近づき「やあ」と声を掛けると、こちらを向いてぎこちなくお辞儀をした。
エマから話すなと言われたことを守っているのだろうが、構わずに横に座って聞いてみた。
「患者はみんな同じ服を着ているってエマが言ってたけど、きみは違うね。きみはお手伝いをする人なの?」
ハンゼは躊躇っていたが、結局話してくれた。
「おれ、両方。色々手伝うが、そのお礼として、治療も、受けさせて、もらってる。ピリカ先生、結婚の準備で、忙しい、からな。でも、おれのこと、本当に、覚えてないのか?」
頭痛を堪えながら、正直に答えた。
「ごめんね。ボンヤリと、知っている人かもしれないって気はするんだけど、思い出せないんだ」
「そうか。でも、ゾイアはゾイアだ。おれの話、考えて、くれたか?」
「うーん。実は、考えたくても何も浮かばないんだ。きみがどういう人で、お父さんが誰なのか、友だちだというヤンという子がどんな立場で、そのヤンという子の新しいお母さんが何者なのか、全くわからない。いや、抑々ぼく自身が誰なのかも思い出せないんだよ」
「あなたは獣人将軍ゾイアよ」
そう言ったのはハンゼではなく、通りかかった知らない妊婦だった。
その横に、同じくらい腹部が出っ張った気の弱そうな男が立っているが、これは勿論太っているだけだろう。
しかし、驚くべき光景は、その二人の間にあった。
二歳にも満たないであろう幼児が、空中に浮かんでいるのだ。
その瞬間、激しい頭痛に襲われ、意識が遠のいた。




