1207 風が吹けば(30)
エイサ上空を旋回中に何かを発見した魔道屋スルージは、急降下して地上に降り立った。
そこはエイサに点在する小さな森の傍にあるライ麦畑で、住民の殆どが中央部に避難したため逃げ出したらしい鶏が、地面に落ちた麦を啄んでいる。
勿論スルージが見つけたのはガルスではなく、その横に佇んでいる全裸の少年である。
見たところ十歳ぐらいで、髪はダークブロンド、瞳は珍しいアクアマリンの色をしている。
少年となったゾイアであった。
怖がらせないようにそっと近づいて来るスルージを、戸惑ったように見ている。
「……誰?」
スルージは精一杯の愛想笑いを浮かべて見せた。
「スルージっていう名のしがねえ魔道屋でやんす。覚えちゃいねえでしょうが、坊ちゃんとは知り合いでさあ。色々説明しなきゃなんねえんですが、ここは危ねえ。間もなく戦場になりやすんでね。さあ、あっしが安全なところへご案内しやすから、一緒に参りやしょう」
手を差し出しながら一歩近づくと、少年ゾイアは一歩下がった。
ゾイアは頭痛がするのか、頭を押さえて顔を顰めている。
「……待って。少し思い出した。顔に創のある怖いおじさんに首を絞められていた人だね。でも、その後のことは……」
スルージは、ゾイアに聞こえないような小さな声で呟いた。
「どうやら、狼に変身している間の記憶はねえらしい。ってか、身も心も野獣って感じだったからねえ。うーん。ってことは、感情が昂って変身しねえように、宥め賺して連れて行かねえと」
が、ゾイアは益々頭痛が酷くなったのか、両手で頭を掴んで呻き出した。
「……ううっ。ぼくはどうしてここにいるんだ? ぼくはいったい誰なんだ?」
ゾイアの身体に黒い点が現れ始めた。
スルージは「こりゃいけねえ」と慌ててゾイアに声を掛けた。
「坊ちゃん、聞いてくだせえ! あっしは坊ちゃんがどこの誰だかわかってやす! 後でちゃんと説明しやすから、今はそのことは考えず、とにかく落ち着いてくだせえ!」
ゾイアの身体から黒い点が消え、まだ呼吸は荒いながらも、なんとか人間の姿を保った。
「……わかった。おじさんは悪い人じゃなさそうだし、言うとおりにするよ。だから、ぼくを助けて」
「おお、合点承知だ!」
勢い込んで請け合ったものの、スルージはまた独り言ちた。
「さてさて、どこにお連れするのがいいかねえ? 本当なら魔道神さまのところがいいんだろうけど、なんか急ぎの用があるとか殿下が言ってたしねえ。おお、そうだ。あそこしかねえでやんす」
不安げに見ているゾイアに、スルージはニッコリ笑って見せた。
「坊ちゃんは病人みてえなもんだから、治してくれるところへ参りやす。さあ、あっしに掴まってくんなせえ!」
一方、魔香による幻術を掛けられ、反転してエイサに戻りつつあるジョレ将軍は、一万の軍勢の先頭を馬で駆けていた。
その顔は自信に満ち溢れ、普段のオドオドした様子とは一変している。
「ふん。こんな簡単な戦はないな。何しろ、相手は素人同然の市民軍だ。二三人叩き斬って見せれば、それ以上の抵抗はするまい。まあ、ゲルヌとか赤目族とかは逆らうだろうが、少々の魔道など一万の軍の敵ではないさ。寧ろ問題は、その一万の軍勢だな。敵の別動隊から市民を護るという名目で反転させたからな。その市民を攻めるんだということを、いつ言おうか?」
「言わせませんよ」
耳元で声がしたため、ジョレは「うわっ」と仰け反った。
その両腕が左右から引っ張り上げられ、馬の鞍から離された。
見えない相手は二人いるようで、先程と違う幼い感じの声が「やっぱり重いですねえ」と吐息混じりに溢した。
と、その馬に上から降りて来た誰かがスッと乗り、手綱を握って後ろを振り返った。
ゲルヌ皇子であった。
「すまんな、ジョレ! 馬を借りるぞ!」
となれば、見えない二人はカールとゲルニアであろう。
左右から抱えられたジョレは漸く事態を理解し、激しく罵った。
「くそっ、離せ! わたしを誰だと思っている! マオロン軍を一人で倒した……」
その時にはもうジョレを防護殻が包み始めており、科白の半ばでフッと声が途切れ、そのまま何処かへ跳躍して消えた。
馬を奪ったゲルヌは馬首を巡らし、後続する一万の兵に呼び掛けた。
「わたしだ! ゲルヌだ! これよりわたしが直接指揮を執る! 敵の別動隊は、北口から侵入しようと向かって来ている! よってわが軍はこれより北口に向かい、プシュケー教団の援軍と協力し、敵を挟み撃ちにする! 者ども、奮え!」
ジョレの行動に多少は不信感を持っていたらしい軍勢は、爆発するような雄叫びを上げ、進路を西北に修正した。
その頃既に、プシュケー教団の援軍とドーラ軍は交戦状態にあった。
どちらも騎兵を中心とした構成で、互いにかなりの距離を激走した状態でぶつかったため、当初から敵味方入り乱れての混戦となった。
その中でも一際目を惹くのは、騎馬戦では不利とされる剣で次々と敵を斃している女武者であった。
ファーンである。
それを遠目から見た魔女ドーラは、激戦の最中にも拘わらず、「ほう」と感心したような声を出した。
「なんと、敵将はあのタンファンぞえ。ふむ、面白い。今日こそ積もり積もった恨みを晴らさせてもらおうかの」




