1199 風が吹けば(22)
白み始めた空の下、エイサに向かって来ている軍を率いているのは、無論、魔女ドーラである。
総勢三万の大軍勢であった。
夜間行軍に先立ち、首都パシントンの大統領官邸には、態と夜中に届くよう普通の馬による伝令で、行軍の趣旨書を送ってある。
その趣旨とは、逃げた捕虜の捜索、というものであった。
珍しく馬に乗って先頭を行くドーラは、北叟笑んでいた。
「ヤーマンめ、今頃目を醒まして趣旨書を読み、悔しがっておるじゃろう。素人が言霊縛りの真似事なんぞするからじゃ。わたしは、援軍は出さぬと約束したが、エイサに行かないとは言っておらぬ。まあ、捜索隊の規模が、ちと大きくなりすぎたかもしれんがの。もし、それを詰問されたら、三千名の最強軍団を取り押さえるために慎重を期した、とでも答えるつもりぞえ」
ドーラは、自分の冗談に受けて吹き出したが、すぐに表情を引き締めた。
「おっと、油断大敵じゃ。マルカーノには、最低限でも結界と『重さの壁』は解除するよう命じたが、それもいずれは回復するであろう。短期決戦でエイサを占領し、早急に傀儡政権を作らねばならん。ふむ。まあ、遅くとも今日から三日じゃな。それ以上長引けば、必ずヤーマンが横槍を入れて来るぞえ。一応、マオロン軍の捜索が手間取ったと言い訳はするがのう」
さすがのドーラも、そのマオロン軍が既に全滅したとは知る由もない。
その頃、いつもより早く目醒めたヤーマンは、秘書官から渡された趣旨書に目を通すなり、ビリビリに引き裂いて怒鳴った。
「今すぐコロクスを呼んでちょ!」
ガルマニア人の秘書官は飛び上がるように駆け出し、パシーバ族の巫術師であるコロクスを呼んで来た。
コロクスは狒々に似た顔を眠そうに擦りながら、「お待たせしてもうて」と形だけ頭を下げた。
ヤーマンは普段は皺に埋まっているような目を、カッと見開いてコロクスを睨んだ。
「いつまでも寝惚けちょったら、その首、胴体から離れることになるでよ」
コロクスも表情を改めた。
「醒めちょります。何かどえりゃあことでも起こりましたかや? うわっ!」
飛んで来た紙屑が、コロクスの顔に真面に当たったのである。
苛立ったヤーマンが丸めて投げたのは、ドーラの趣旨書であった。
「何かあったら、それを先に見つけるのがおみゃあの仕事だがや。ドーラの婆が、三万の大軍でエイサに向こうとるそうでにゃあか。おみゃあの目は節穴か?」
「あ、すぐに、調べさせますだで」
ヤーマンは舌打ちした。
「遅えわ。今頃はもう、エイサに着いちょる。それより、調べるならバローニャ州の防衛体制だぎゃ。残る三万をどう配置しちょるのか。もし、油断して州境がガラ空きなら、今のうちに攻めるっちゅう手もあるが、まあ、抜かりはにゃあじゃろう。それでも、調べるだけは調べちょけ!」
「へへーっ!」
ほぼ同じ頃、バローニャ州の隣のガーコ州を受け持つハリスにも、ドーラの出兵が知らされた。
光を遮断した室内で、白頭巾を脱いで休んでいたハリスは、寝台に腰掛けて部下の報告を聞いた。
「そう、か。まあ、エイサの、軍事力と、赤目族の支援、などを考えれば、そう易々とは、負けることは、あるまい。寧ろ、この隙に、ヤーマンがバローニャ州に、ちょっかいを掛けるかも、しれぬから、それを監視して、おいてくれ。特に、皇后領の、近辺だ。これを奇貨として、その付近一帯を、パシーバ州に編入する、などと言い出しかねない、からな」
もう一つの自治州であるガルム州にも、その噂は伝わった。
いつものように獣の革を繋いだ珍妙な服を着たゲーリッヒは、歯を剥き出して笑った。
「面白えじゃねえか。ドーラの婆さんが留守にしてる間に、どうせヤーマンの猿面がなんかするぜ。この二人が戦ってくれねえと、おれの出番がねえからな。よし。今のうちに間者を放って、そこら辺を探らせろ!」
一方、ガルマニア合州国の中で、そうした動きを全く感知していない人物がいた。
皇后オーネである。
豪華な天蓋付きの寝室で、眠れないのか、ブツブツと文句を言っている。
「あの人、どうして帰って来ないのよ!」
この場合の『あの人』とは、間もなく正式に結婚するヤーマンではなく、愛人の魔道屋シャドフであることは言うまでもない。
オーネはヤーマンを毛嫌いしており、結婚して正式に皇后となった暁には、夫を亡き者にしようとシャドフと相談している。
ところが、最近シャドフが妙によそよそしくなっており、心変わりしたのではないかとオーネは一人で気を揉んでいるのだ。
「まさか、他に女ができたんじゃないでしょうね。いいえ、あの人に限ってそんなことは。でも」
本人が居ない以上、自問自答に決着はつかず、今日もまた眠れぬ夜が明けたのである。
逆に、そのシャドフ本人は、漸く眠りから醒めたところであった。
「え? ここは、どこだ?」
夜明け前の薄明りの中、周囲を見回すと森の中であることはわかった。
しかし、謎の漂着者の憑依のせいか、スルージの痺れ薬の副作用なのか、記憶が完全には戻らぬようで、呆然とした表情で立ち上がった。
と、人の話し声が聞こえたため、シャドフは反射的に隠形した。
話しているのは、兵士たちのようであった。
「おまえも見ただろう、あのジョレ将軍の怖ろしい顔」
「ああ。あれが本性なのかな。普段は山羊みたいに大人しいのに、ツァラト将軍よりおっかなかった。けど、まあ、そのお蔭で勝てたんだからな。これでゆっくり眠れるよ」
そこへ、話している二人とは別の声が聞こえて来た。
「おーい! 隠れているかもしれない敵兵の探索は中止だ! 東から大軍が向かって来ているそうだぞ! おまえたちも、すぐに東口に移動しろ!」
慌ただしく兵士たちが去った後、隠形を解いたシャドフは、「ほう」と呟いた。
「ここへ攻めて来るとすりゃあ、ドーラの婆さんだな。ちょっと様子を見てみるか」




