1195 風が吹けば(18)
謂わば狼少年となったゾイアには、殆ど人間としての記憶がないようであった。
自分が何故ここにいるのか、目の前で刀を握って自分を斬ろうとしているのは何者なのか、いや、抑々自分が誰なのかもわからないらしい。
が、逃げたら殺られることは、本能的にわかった。
牙を剥き出してグルグルと唸りながら、相手の動きをジッと見ている。
見られているマルカーノの方も、ゾイアの目が薄暗がりの中で自分の刀の動きを追っていることに気づいた。
「ほう。暗くてもよく見えるようだな。さすがに獣だ。が、わしの剣捌きの速さについて来れるかな?」
ニヤリと醜悪に笑いながら、両手で握った刀を縦横に振るった。
速い、などというものではない。
元々剣の腕が立ったのだろうが、改造によって更に人間離れした剣技になっている。
しかも、斬り下ろすのと同じ、いや、それ以上の速度で斬り上げ、横に薙ぎ払う以上の速さで反転して来るのだ。
その剣先を、ゾイアは紙一重で避け続けた。
最早他のことを考える余裕もなく、嵐のような猛攻を凌いでいる。
しかし、それが精一杯のようで、とても反撃できそうもない。
いずれ避け切れなくなり、斬撃を受けてしまうのは、時間の問題であった。
と、下生えの草に隠れていた切り株に脚が引っ掛かり、ホンの一瞬ゾイアがよろめいた。
その刹那。
ゾイアの頭上でキラリと光った刀身が、避けようのない速さで振り下ろされて来た。
頭蓋骨が真っ二つに割れた、かと思いきや、刀身の幅ギリギリの隙間ができており、刀はスカッと空を斬って地面に当たった。
もし、更にそれを上に返されたなら、ゾイアもさすがに防ぎきれなかったであろう。
が、地面に着いた刀は、そこで止まったまま動かなかった。
凍りついたように動かないマルカーノの背中には、一本の刀子が突き刺さっていたのである。
その背後からゼイゼイという荒い息が聞こえ、「予備が、もう一本、あったんでえ、ちくしょうめ」という声がした。
上半身だけ起こした魔道屋スルージが、自分の首を撫でながら笑っている。
「ゾイアの坊ちゃん、大丈夫でやんすか?」
頭を変形して切っ先を逸らしたゾイアは、スッと後ろに下がって頭部の隙間を塞ぎ、警戒するように唸りながらスルージの方を見ている。
その二人の間で、全身が痺れたらしいマルカーノが、刀を握った体勢のままドッと横に倒れた。
改めてゾイアと目が会ったスルージは、困惑したように笑った。
「あっしを覚えていねえようでやんすね。それでも、敵じゃねえことはわかるはずだ。そこにブッ倒れてる親分は朝まで目を醒まさねえでしょうが、子分たちが捜しに来ると厄介だ。さあ、一緒に行きやしょう、坊ちゃん」
地べたに座ったまま手を差し出したが、ゾイアは動かない。
唸るのは止めたが、まだ鼻面に皺が寄っている。
スルージは、ゾイアを驚かせないよう、ゆっくりと立ち上がった。
ゾイアを見つめながら、強張った笑顔を作った。
「野生動物と接する方法でも勉強しとけば良かったが、今更そんなこと言ってもしょうがねえでやんすね。ともかく、坊ちゃんを説得しねえと。でも、人間の言葉がわかるかねえ? 変身する前は、なんか喋ってたみてえだが。ええと、初めまして、じぇねえし」
その時、遠くの方からガチャガチャと金属がぶつかるような音と、ザッ、ザッと草を踏む足音が聞こえて来た。
スルージは小さく舌打ちした。
「言ってる傍から来やがった。もう愚図愚図しちゃいられねえ。ゾイアの坊ちゃん、とにかく逃げてくだせえ。あっしもまだフラフラで、とてもあんたまで面倒見きれねえんだ。さあ!」
その言葉が通じたのか、ゾイアは狼の姿のままクルリと振り向いて森の奥へ駆け出した。
スルージはホッと息を吐いたが、その間にも足音が迫って来ている。
「うーん。マルカーノは放っといきゃいいが、シャドフの野郎をどうしよう?」
少し離れた場所に横たわったままのシャドフに目をやったが、最初に置かれた状態から少しも動いていない。
「触らずに綱を牽いたんじゃ、とても逃げきれねえ。あっしの体力も、もう限界だし。まあ、ここへ置いとくしかねえか。やつの悪運が強けりゃ助かるだろうさ。あばよ、悪党」
スルージは、その場から跳躍した。
それから程もなく、棘だらけの甲冑に身を包んだマオロン軍歩兵が五体現れた。
全員が迷わず倒れているマルカーノに近づいたところを見ると、何らかの信号を発しているのだろう。
そのままでは棘が刺さるため、二体が甲冑を脱ぎ、前後からマルカーノの身体を抱え上げた。
残る三体は周囲を警戒していたが、そのうちの一体が地面に横たわった状態のシャドフを発見した。
ガチャガチャと足音を響かせて近づき、生死を確認するためか、いきなり胴を蹴り上げた。
いや、胴に当たる寸前で足が止まっている。
歩兵の足首を、横たわったままのシャドフの手が掴んでいるのだ。
しかし、シャドフの目は依然として閉じられており、気絶から醒めた訳ではないようだ。
その状態で、二人とも固まったように動かなかったが、先にシャドフの手が離れ、ダラリと地面に落ちた。
マオロン兵はゆっくり足を地面に戻し、肩凝りを解すように二三度首を動かすと、兜の面頬の隙間から白い光が漏れた。
「……情報移転完了」
静かに振り返ると何事もなかったように歩き出し、マルカーノを運んでいる仲間の後を追って行った。




