1194 風が吹けば(17)
古代神殿に跳躍したゲルヌ皇子は、地下に避難して来ている子供や病人に余計な不安を与えぬため、かれらの目に触れないよう注意しながら本殿に入った。
伽藍とした本殿内に柔らかな明かりが灯り、すぐに白い影が現れて、切れ目のような口が開いた。
「……大体の状況は把握している。アルゴドーラの支配下にある改造人間については、非位相者と同じ世界から来たという漂着者たちが、盛んに命令変更を試みていたようだが、情報障壁を越えることができなかったようだ。その焦りからか、ケルビムに不必要な干渉をし、機能停止させてしまった」
ゲルヌはサラサラの赤い髪を揺らして頷いた。
「成程。それでゾイアが動かないのだな。しかし、この苦境を脱するにはかれの力が必要だ。魔道神よ、なんとかならぬか?」
「……幸いエイサ領域内に居るから、再起動信号を送ってみよう。ボーグたちの統率者が近づいているようだから、急いだ方がいいかもしれない」
そのマルカーノ将軍は、倒れているゾイアの前に屈んでいる魔道屋スルージを睨んでいた。
「もう一度真剣勝負をしたかったが、死んだのなら仕方ない。首級だけ貰って行こう。そこをどけ!」
スルージは立ち上がり、ゾイアを庇うように両手を広げた。
「冗談じゃねえ! たとえ相手が破落戸の親分だからって、はいそうですかと退き下がれるかよ!」
マルカーノは口を笑うような形にしたが、とても笑顔には見えない醜悪なものであった。
「面白い。ならば、先にあの世に行って、獣人の道案内をするがいい。見ろ!」
言いながらスラリと抜いたのは、剣ではなく、細身の刀であった。
「これは、わしがまだ暗黒街の親分になる前に使っていた刀でな。今回の出陣に当たって、特別に研ぎに出したものだ。薄く軽いのに、驚くほど良く斬れる。おまえで切れ味を試してやろう」
「や、やれるもんなら、やってみな!」
その時、震える声で啖呵を切ったスルージの背後で、抑揚のない声がした。
「……再起動開始……ローディング00743206……人格再構成60パーセント……深刻なエラーが発生……緊急事態……回避モードへ移行……児童形態にて再始動……」
思わず振り返ったスルージが目にしたのは、十歳ぐらいの全裸の少年の姿で立ち上がったゾイアであった。
ダークブロンドの髪は癖のない直毛になっているが、開かれた目は特徴的なアクアマリンの色である。
しかし、顔立ちこそゾイアの幼い頃のようであったが、その表情には、戸惑いと怯えしかなかった。
「ここは、どこ? ぼくは、誰?」
惑乱しているのはスルージも同じであった。
少年ゾイアとマルカーノを交互に見て、「こりゃ、危すぎるでやんす」と狼狽えている。
マルカーノの不気味な笑みが深くなった。
「ほう。子供の姿で甦ったのか。それでわしが手加減するとでも思ったのなら、大間違いだぞ。容赦はせぬ!」
刀を上段に構えたマルカーノの前で、スルージは目を瞑って叫んだ。
「ゾイアの旦那、じゃねえ、坊ちゃん! あっしが斬られてる間に、逃げてくだせえ!」
マルカーノは苛立ったように、「邪魔だ!」と言いざま刀を振り下ろした。
が、刀は空を斬り、グサリと地面に突き刺さる。
と、間髪入れずマルカーノの背後に短距離跳躍していたスルージが、痺れ薬を塗った刀子で背中を突き刺そうとした。
ところが、刀を離したマルカーノに寸前で躱され、その腕を掴まれて押し倒されてしまった。
馬乗りの状態で地面に何度も腕を叩きつけられ、遂にスルージの手から刀子が落ちた。
次の瞬間、マルカーノの両手がスルージの首に巻きついた。
「ふふん。わしに斬られれば、楽に死ねたものを。おお、そうか。苦しみたいのだな。時々そういう者がおるらしい。ならば一気にやらず、ジワジワと絞めてやろう」
「ぐふっ!」
スルージの顔が苦悶に歪んだ。
二人の背後から、「その手を離せ!」という幼い声がした。
スルージを押さえつけたまま、マルカーノが首だけを捩じ向けると、少年ゾイアが両手で刀を構えていた。
先程地面に突き刺さったのを抜いたのだろうが、力が足りないのか、剣先が下がってブルブル震えている。
それを見て、マルカーノが失笑した。
「本当に子供になったのだな。やめておけ。怪我をするぞ。この魔道屋を始末したら、おまえは苦しませずに殺してやるから、そこで待っておれ」
「ううっ、黙れ!」
そう叫んだゾイアに異変が起きていた。
少年の姿のまま全身に黒い斑点が生じ、そこからゾワゾワと黒い獣毛が生え出て来たのである。
顔もボコボコと変形し、ググッと口と鼻が突き出す。
目は緑色に爛々と光り、髪は後ろに長く延びて鬣のようだ。
手の形も変わり、刀が持てなくなったのか、ポロリと地面に落ちた。
いや、それどころか、直立することも難しくなったらしく、両手を前に着き、四つん這いになると同時に、首の角度が胴体と垂直になった。
最早、見た目は狼そのものである。
と、喉を上げて、朗々と遠吠えを始めた。
マルカーノは、気を失ったスルージの身体から下りて立ち上がり、ニヤリと笑った。
「こちらの玩具の方が面白そうだな。先に片付けてやろう」
一旦しゃがんだマルカーノは地面から何かを拾った。
スルージの手から落ちた刀子だ。
遠くで燃える篝火の薄明りの中、殆ど何の予備動作もなく、狼少年となったゾイアに向かってそれを投じた。
ゾイアは真後ろに飛び退ってそれを避け、鼻面に皺を寄せて唸った。
が、マルカーノはその間に走り寄り、ゾイアが落とした刀を拾い上げていたのである。
「獣人、いや、獣よ。覚悟しろ!」




