1190 風が吹けば(13)
夜の闇の中へ、ゾイアは飛び立った。
敵に気づかれぬよう翼は出さず、魔道の浮身だけで滑るように夜空を進んで行く。
今夜は月が出ないため、偶々空を見上げた者が不自然に星が消えた箇所に気づかぬ限り、発見される虞はない。
と、ゾイアの目が赤く光った。
同時に、喉の辺りから、抑揚のない小さな声が聞こえた。
「……赤外線感知器を起動。前方に多数の熱源を発見。凡そ数百」
その声が止まると、口から喋った。
「やはりこちらに来たのだな。が、まだ揃ってはいないようだ。一先ず領内に戻り、ジョレ将軍の様子を見てやろう」
ゾイアは静かに旋回した。
一方その頃、赤目族から第一報を受けたジョレは、自分の陣内を慌ただしく動き回って迎撃態勢を採らせようとしていた。
但し、指示は全て囁き声であり、兵士たちにも大きな声を出さないように厳命した。
「よいか。こちらが気づいたと敵が知れば、間髪を入れずに攻撃して来る。絶対に大きな音を立てるなよ」
が、その動きは敵のマルカーノ将軍には筒抜けであった。
手帳のような薄い板を見ながら、創痕だらけの顔を不気味に歪めて笑った。
「ほう。気づいたか。西口の兵だけがザワザワと動き出したようだ。ならば、攻め込むまでのこと。この近辺の結界と『重さの壁』は既に解除してあるからな。取り敢えず、先着している戦車部隊を先に行かせよう」
一人だけ馬に乗って爆走したマルカーノに辛うじて追いついたのは、その時点ではチャリオット部隊百騎ぐらいであったからである。
ゾイアが熱源として感知したのは、ごつい甲冑で身を固めた兵士ではなく、装甲しているとはいえ大部分の皮膚が露出している大蜥蜴の方であった。
基本的に一台のチャリオットを複数頭の大蜥蜴が牽き、手綱を捌く騎手が一人、別に射手や槍手が一二名乗っている。
と、マルカーノから声による命令がなかったにも拘らず、手綱を握る騎手たちが一斉にピクッと身動ぎした。
どうやら、身体に埋め込まれている機械を通じて命令が伝達されているようだ。
手綱が引かれ、闇の中でギラギラと目を光らせていた大蜥蜴たちが一気に動き出した。
ゾイアは既に混乱しつつあるジョレ軍五千の中から、やっとジョレ本人を見つけ出し、驚かせぬように上空から小さめの声で呼び掛けた。
「ジョレ将軍、われだ、ゾイアだ」
騎乗していたジョレは、落馬しそうなほど鞍の上で飛び上がった。
「うわっ! あ、いけない、大きな声が出た。お、脅かさないでくださいよ、ゾイアどの」
山羊のような髭を震わせて抗議するジョレに、ゾイアは苦笑しながら傍まで降下した。
「すまぬ。これでも静かに呼んだつもりなのだがな。ともかく、敵は現在集結中のようだ。通常の軍なら夜明けを待って攻撃開始、というところだろうが、相手が相手だけに油断はできぬ。直ちに臨戦態勢をとってくれ」
ジョレはガクガクと激しく頷いた。
「勿論です! あ、また、大きな声が出た。すみません。ええ。そのつもりで、兵士たちにはいつでも戦えるよう準備をしろと……」
と、そのジョレの声を掻き消すような絶叫と、猛獣のような咆哮が聞こえてきた。
「いかん! 敵襲だ!」
そう言ったのはゾイアであり、ジョレは唖然として声も出ないようだ。
「ジョレどの、兵士たちに反撃を命じてくれ! われは先に行く!」
言われたジョレは、半開きになっていた口をやっと閉じた。
「あ、はい、わかりました。ええと。ぜ、全軍、敵を迎え撃て!」
ジョレが命令を下した時にはもう、ゾイアはその場にいなかった。
前線で立哨していた兵士たちは、大恐慌に陥っていた。
闇の中から、ガラガラという車輪の音とグルグルという獣が唸るような声が聞こえたかと思った時には、目の前にチャリオットを牽く大蜥蜴の光る目が迫って来ているのである。
それに怖れを成して逃げようとすると、背後から次々に矢が飛んで来て、動けなくなったところを大蜥蜴の獰猛な牙が襲って来るのだ。
通常、夜襲というものは敵味方とも同士討ちを避けるために動きが鈍くなるものだが、マオロン軍はそうしたことを一切斟酌しないようだ。
いや、それどころか、文字どおり死をも怖れぬ軍団であった。
当初の動揺から醒め、漸く反撃に転じたジョレ軍が、騎手を狙って矢で射落とすと、射手が代わって手綱を持ち、落ちた仲間を大蜥蜴に踏み潰させて前進して来るのである。
それを上空から見下ろしているゾイアは、顔を顰めた。
「なんと残虐なのだ! ううむ、取り敢えず大蜥蜴を何とかせねば。しかし、マオロン近辺と違ってここは泥がない。多少効率は悪いが、直接冷気を吹きかけるか」
ゾイアは急降下し、大蜥蜴を目掛けて口から白い息を吐き、チャリオットに乗っている敵兵が射掛ける矢を避けるためすぐに急上昇した。
忽ち季節外れの霜が大蜥蜴を覆い、動きが鈍る。
が、それも一瞬であった。
大蜥蜴の装甲の部分から霜が融け始め、それどころか、ユラユラと湯気すら立ち昇っている。
再度急降下しつつあったゾイアもそれに気づいた。
「しまった! 発熱器を仕込んでいるのか!」
そのゾイアの叫びが聞こえたかのように、少し離れた場所に居るマルカーノの口の両端がキューッと上がって笑みの形になった。
「マオロンの時と同じ失敗は繰り返さぬ。覚悟せよ、獣人!」




