最終話 サルヴェ・レジーナ
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「――――――かならず…………
俺は、一万人救ってみせる…………
彼は、そう言っておった……そうです」
信次郎は言葉を詰まらせた。
「京也が彼に最後に出会ったのが3日前。
……もう、県内には……いないでしょうな……」
今井信次郎は孫からの伝聞を、そのまま少女に伝えた。
流石の老年剣士も、それをどんな表情で……どのように伝えるべきか、苦慮していた。
「そうなんだ……
わたしも、あいつにひとこと……
伝えたかった、なァ……」
うつむいて少し悲しげな表情。
しかし踵を返して西の空を一瞬見上げると、少女はその悲しげな表情の中に、少しだけ誇らしげな瞳を……今井信次郎に向けた。
そして、僅かに微笑を浮かべ、少女はその視線を校舎側に……。
「―――――みんな………がんばって、ね……」
東菊花が、島田虎仁と彼のグループに課した重い十字架。
しかしそれは、到底実現不可能な、苛烈極まりないものだった。
あの第二校舎屋上での血まみれの邂逅のあと、少女は島田虎仁たちに……こう、伝えていた。
「―――この国が、この国の法律が……あんたらを証拠不十分でほったらかしなら…………一万人救ってみせるがいい。
九千九百九十九人でも……駄目だ。
一万人だ。
それが出来れば、人間ひとりを殺した罪は、
僅かにでも――――――薄まるかも、……しれないね」
あの日、第二校舎屋上で……そう言い終えて、立ち去った東菊花。
……しかし、少女は大切な語り残しを……
島田虎仁らに、伝えられずに終わっていた。
それだけは、菊花は……
彼らに伝えては――――いなかった。
《………あんたらの罪は、わたしの罪だ。
わたしも一緒になって、償うつもりだよ……?
わたしも死ぬまでの間に、一万人救う………
救って、みせる―――――――――たとえ、
それが到底無理なコトだと、判っていてもね。
あんたらが一万人救えなかったら…………
わたしが代わりに救ってみせる……あの罪を、
少しでも……ちょっとでもさ、
かみさまに……許してもらうため、に―――――――――》
九月一日。
田園風景の彼方に、陽炎がゆらゆらと……
うだるような灼熱の太陽光線が、北関東に注がれていた。
町立極東葛東中学校・二学期始業式当日。
暑苦しい退屈な式典は終わりを告げ、生徒たちは二学期最初の下校時間を迎えていた。
「……っぱりさァ、本当らしいよっ……?」
「あの娘って、学校中歩き回るからさぁ……いろんなトコ探したけど、やっぱいないしィ……」
ざわめく生徒たち。中には涙目で学校中を探す生徒もいた。
「……なんか理由でも……あったのかなァ?」
「ってゆーか……いなくなったら、あたしィ……」
「東菊花」は……既に、この学校の生徒では無かった。
夏休み中には隣町の中学校に転校手続きを既に済ませており、彼女はふらりと……通い慣れたこの校舎を訪れていた。
「―――菊花様、島田虎仁らの件は、わたくしと京也でフォローし続けますので……次の学校でも是非ともご健闘くださりませ。
また今後も何か御用がありますれば……疾風迅雷、
わたくしも京也も、即座に駆けつけますゆえ」
今井信次郎は、その柔らかな微笑を東菊花に投げかけた。
「ありがと、今井さん……」
菊花はいつでも頼りになる今井信次郎に、心から感謝していた。
最初は変なオヤジ……と不審に思っていたところもあったが、今ではこの老紳士を肉親のように、昔からの家族のようにさえ、思っていた。
……そのとき、校門付近から歓声が上がった。
「―――――菊花ちゃん!」
「菊花ァ!」
「菊花……さん!」
「……菊花の、アネさん!」
誰が見つけたのか、信次郎と菊花が校門前で佇んでいたところに、わぁっと数十人の生徒たちが殺到した。
それが何倍、何十倍もの人数に増えるのに、
さほど時間はかからなかった。
彼女が転校するとの噂は……そんな不確定情報は、夏休み終盤には生徒間に一斉に駆け巡っていたのだが……。
そして……九月一日の始業式の朝には、東菊花の登校姿は無かったのである。
「……菊花ちゃん、この学校やめるのっ!?」
「なんでなんでっ!?」
「菊花がいなくなったらさァ……俺ぇ!」
「お願いだからさ……行かないでよッ!」
「菊花ちゃん、そんなの……やだよぉ……」
「ちっとさァ、思い直せって!」
菊花が転校する真の理由を知らない生徒たちは、その突然の別れを心から嘆き、悲しみ、特に彼女によって救われた生徒たちは一様に絶望し、その頬を……濡らしていた。
「……きっ、菊花サン、なぜお往きになられるのですかァ!?」
「……ま、まだいろんなこと……菊花ちゃんと……」
あの日あの朝、優しい言葉をかけられた生徒たち。
あの日の午後、校舎裏で救われた生徒たち。
あの日の夕方、明日こそ学校に行こう……
彼女の微笑を見つめながら、決断した生徒たち…………。
もちろん、ケンカや生徒間トラブルが、この中学校からなくなったわけではない。
しかし、一学期最終日の3日前、安西美希が最後の不登校状態から脱出したのを最後に……この中学校の不登校生徒数は「ゼロ」となった。
生徒間の多少のトラブルや喧嘩はあっても、複数の生徒がひとりをいじめるような残酷な行為も、この中学校には見られなくなっていた。
そして……不良っぽい生徒でも、快活な生徒でも、暗く気弱な生徒でも……皆誰もが……自分の性質や個性を恥じることなく、ひとりひとりの人間性を大切にする空気が…………
少しだけ、ほんの……少しだけ――――――
この中学校に、訪れるように……なっていた。
小川直美が漫画の原稿を抱えながら、彼女の両手を握り締めて離さない。
山下志郎が自主トレで日焼けしたその顔を菊花に向け、照れながら頭をかく。
田口裕信が海軍スタイル・鉄道員挙手を見せ、涙目で天を仰ぐ。
《………………菊花に父親は、いないって……
言ってるでしょ、今井の旦那ァ……?
いないもんはいないんだ、
あてぇを困らせないで……くださいな?》
菊花との別れを惜しむ、大勢の生徒たちを遠景に見ながら、紫色のスーツを身に纏う老年剣士は、入院中の男谷涼が投げかけた、 「あの」言葉をどう解釈してよいか……迷っていた。
しかし、彼の右手に光る先祖代々のロザリオと、
サルヴェ・レジーナの祈りだけは………
すべての現象を理解し、その輝きを包み込んでいるように……
今井信次郎には、そう思えた。
そう……信じたかったのだ。
「―――……姐サマ……菊花様の……超常の力……
して、その剣聖の願いとは……一体……?」
信次郎は、大勢の生徒たちに囲まれる東菊花の笑顔を横目に……
ひとり……ごちた。
「……やだなァ、あたしそんなに遠くにいかないよ……
だって転校すんの、隣の学校だよ?
みんな、精信学園にも遊びにきてね……
子供達が、みんな楽しみにしてるから…………」
大勢の生徒たちの握手に、抱擁に、もみくちゃにされる東菊花。
別れを惜しむ校門前での即席のセレモニーは、しばらく続いた。
ザッ、ザッ、ザザッ、ザッ、ザッ……。
そのとき、高らかな掛け声と共に、野球部員がランニングで少女のそばを通り過ぎる。
あの青木卓哉は小さな声で、
「……菊花、さん……」恥ずかしそうに声をかけた。
しかしそれ以上、少女の方を見ることもなく、野球帽を目深に被り直し、ランニングの掛け声を続ける。
「――――――がんばってる、ネ……」
少女は小さく手を振り、しかし少年は振り返らない。
ただ独り言のように、
「……あ、あり、が……」
少年は何かをつぶやいていた。
青木卓哉は、結局……葛東中学では公式戦出場は一度もかなわず、そのまま控え選手として、中学卒業まで野球を続けた。
しかしニ度の手術を経て、粕壁栄進高校二年の夏、遂にその豪腕を爆発させる。
過去、そしてその後も決して破られることのない、驚異的な高校生記録を引っさげて、彼は過去最高の豪腕ルーキーとしてプロの世界にデビューしたという……。
重ねて彼は毎週末、野球部の練習の前後にかならず精信学園を訪れ、子供達とキャッチボールや三角ベースを楽しんだ。プロの世界に入っても、学園訪問はずっと続き……彼の中で、何かが大きく膨れ上がっていく……。
他の、数多くの葛東中学校の生徒たちも同じように……。
「……さぁて、次いこーかね、次、次ィ!!」
東菊花の笑顔は、いつもと変わらない。
これからも、ずっと。
……ただ、
彼女が通り過ぎていった場所は恐ろしいほど変わり果て、
すべてが……別世界となった。
たぶんこれから通る場所も同じように……。
次に通り過ぎる場所を目指し、
彼女はこれからも歩いていく。
東菊花は、汚らわしきこの現世を……
これからもずっと―――――歩いて、いくのだ。
(第一部 完)




