第四十五話 東菊花は、世界なんか救わない。
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………………フィ―――――――――ッ、
―――――――ッッ――――――フィフィッ…………
…………………………フィ―――――――ッ――――
――ッッ―――――ッ……
宙を舞う。
そして青銀色の雲に乗り、半透明の黄金の大地を、つむじ風より速く駆け抜ける。
四国山脈を見下ろし、石鎚山を右の瞳にかすらせると、瀬戸内の潮の香りが届いた。
暁が輝く高空を背に、流星と同時に移動していく。
そんな自らを、幼き日に夢見た事はあったのだろうか……?
いや、あったような気がする。
男は幽玄な闇の彼方に見え隠れする、己自身と対話していた。
これから始まる地獄巡りの輪廻を、躊躇なく受領したその男は、眼前の蒼緑色に輝く巨大な大海原に、質量ゼロの胸板を思い切りぶつけてみた。
スズキ、鯖、鰯、カツオ……。
魚たちが、己の透明な身体を、するりするりと通過して行く。
―――――潮の匂いすら忘れた。
………が、海は……いい。
海は、いい、な……―――――
この海が、このまま我が身体をすすってくれたら、
どんなにか―――
久遠の時は過ぎ、男が知る土佐は既に、無い。
しかし、故郷に宿る長宗我部氏旧臣の士魂は、何ら変わる事なく其処此処に息づいていた。
……フッ、はりまや橋……まだ、あんのかねぇ……?
――――ま、これで……思い残すことはない。
すまぬな、女狐たち…………
―――――飛び方は未だよく判らぬが、あとは自分で飛ぶ。
自分で……な。
男は達観した表情で、その半透明の身体を大きくひるがえす。
ユーラシアを横目に、地中海を見下ろし、
目指すは、米国デトロイト………。
かつて「岡田以蔵」と呼ばれたその男は、想う故郷に挨拶を終えた。
三悪道での禊を前に、岡田雷濠は、あの海瑠璃色の瞳の少女との約束を果たすべく、その最期の瞬間を―――今まさに、迎えようとしていた。
「……ごめんね、もう少し……
もう少しで、お母さん、迎えに来るから……」
その女性は大粒の涙をこぼしながら、女の子のほっぺたを自らの胸に押し当て、
「ごめん、ごめんね…………おかあさんが悪いの。
ごめんね……ミホちゃん、もう少し、
もう少しだけ――――――――待っててね……」
母はただひたすら、懺悔の言の葉々を告げる。
ニ十代半ばと思われる女性が、精信学園の門前で4歳になる娘を、ひしと抱きしめていた。
交通事犯の受刑者を主に扱う市原刑務所。
仮出所で精信学園にやってきたその母親は、もう二度と間違いを犯すまいと、娘のその小さな両の手を握り締め、天使のようなその微笑を見つめながら、後悔と決意の涙を流していた。
「―――っ、………お、――おかぁ……
しゃ――――…………っ、―――ぉ、……っか――
…………っ……おか、おかあしゃ……んっ…………」
4歳の女の子の泣き声は辺りに響き渡り、施設の他の子供達は、指をくわえてその光景を見守るしかない。
母親が子を抱きしめる、その光景を…………。
児童養護施設という特殊な空間に於いて、ある意味最も残酷な光景は多分、これなのだろう。
特に両親が死別・行方不明等で、親に一生会うことが出来ないと確定している子供達にとっては、例え他人から親無しであることを揶揄されたり、天涯孤独の身上を侮辱されたとしても、この場の苦しみと比較すれば、どうということもない。
……おかあさんに、だっこして……もらってる……。
刹那であっても、この世で最も会いたい肉親……愛する母親に、面会することが出来た友達。
それを眼前で見せつけられるときほど、地獄の苦しみは他に無い。
「―――っ、―――っふ、―――――――――ッ、
……ッ、……っい、ギャアアあぁぁぁぁっっ!!」
無慈悲にも、滅茶苦茶にささくれ立った心理状態のひとりの男児が、その光景を目撃してしまう。
事務棟の窓から、あの辻本陽人が顔を覗かせていた。
「……は、陽人クン、ま、待って!
…………べ、勉強、おねぇちゃんと一緒に………!」
臨時採用の保育士・田村頼子は、短大を出たばかりだった。
児童養護施設の内情は、ボランティアや専門学校の実習で、ある程度は判っていたつもりだったし、中枢神経刺激薬の処方を必要とする特殊な児童のケースも、事前に理解していたつもりだった。
しかし、辻本陽人のそのときの激情は、今までに無いほど狂気に満ちていた。薬物投与後の時間と血中濃度を考えれば、それは「錯乱」状態に近かったかもしれない。
さらに悪いことに、机上の田村頼子の筆箱には、鋭利なコンパスが入っていた。一年生の宿題には必要の無いものだったが、特殊な児童対応に於いての致命的なミスを、彼女は犯していた。
「――――ヤダァッ ―――ァ、ァッ、
――――ッ、グッ、……ぐぅギャアアあぁぁぁっっ!!」
尖った鉛筆でカーテンを突き刺し、一気に引き裂く。
そのえんぴつを振り回す陽人。
泣き喚きながら、児童用の机を蹴り飛ばし、眼を血走らせる。鉛筆の先がガラスに叩きつけられ、先端が粉々に飛び散った。
その男児は大声をあげながら事務棟を出て行こうとすると、
「……だ、だめッ! 陽人クンだめっ! あぶないっ!」
陽人が鉛筆からコンパスに持ち代えたその瞬間。
田村頼子の上半身に、針が僅かにかすった。
「――――――――っ、ひっ!? あ、あぶな……」
コンパスの、その鋭利な先端がもろに触れれば、7歳児のちからとはいえ、タダでは済まない。
事務棟から外に飛び出した陽人は、置いてあった三輪車を蹴り飛ばし、柔らかいそのビニール製のシートを、コンパスの先端で切り裂き始めた。
「―――っ、あ――――お、かぁさんっ!
……ゥ、うァかぁ、さッ、あッ、か、さ……ん!」
辻本陽人は、母親を呼び続ける。
―――――ッ、ザクッッ! ズザッ、ッザクッッ!
――ザッ……―――――ザクッ、ズァクッ!
コンパス針は柔らかな三輪車の座席シートをボロボロにし、一筋の陽人の涙が、切り裂かれたシートの隙間に滲みこんでいく。
数メートル先には、あの親子の姿。
「………………あっ、――あぁ、―――っ、
―――――――――キャアアアアアァァァァッッ!!」
その男児を見た門前の母と子は、あまりの恐怖に悲鳴をあげた。
狂気に満ちた獣のような眼光。
「――っ、―――っぐ、――っえ―――ぐッ―――――ッ、
――――――――――――ッギャアアァァァッッ!!」
辻本陽人は何を思ったか、鋭利なコンパス針を振り上げ、その親子に突進して行く。田村頼子が必死に追いかける。
「だめッ! 陽人クンやめてッ! ―――――っ、
――――あ、………………、
…………―――――――――っ、キャアアアアアァァッッ!」
……俺は、
野菜炒めのフライパンを片手に、その悲鳴を聞いた。
思わず調理室から飛び出し、中庭に出たんだ。
そのとき辻本陽人の右腕が、大きく天に向かって振り上げられた瞬間を…………俺はこの眼で見た。
保育士の田村さんは、その親子の数メートル手前だったと思う。
同時にひとりの女子生徒が、施設の門から30メートルほどの距離だったかな……霞の向こうに見えたのを、俺は覚えている。
そのあと何が起こったのか、俺には…………
はっきりとは判らなかった。
あまりに速すぎて、俺の目にもしっかりと確認できなかったんだけれど、砂埃が一瞬舞い上がり、辻本陽人が……ひとりの女子生徒に抱きとめられている光景。
―――――数秒後に、それは眼前に飛び込んできた。
東菊花。
彼女が、瞬時に移動したとしか思えない。
黒髪が門前で舞い上がり、陽人を包み込むように、その長髪が覆いかぶさっていく。彼女は膝立ち姿勢で、辻本陽人を優しく抱きしめていた。
それでも、陽人はからだを震わせ、悲鳴をあげて、ずっと興奮して………菊花がしっかりと抱きとめているにも関わらず、陽人は大声で、母親を何度も何度も………呼び続けたんだ。
「―――っ、ぁぐぐっ――――――ぉかぁさんっ!
っぁさんッ! か、あっ……さん! ……なんっ……で、
……えっか、ぇってき、くれっ、なっ、い…………の!?
なん……でぇ……」
そして………陽人は絶叫しつつ、手にした何かを振り上げて、
――――――――――――――――――シュ――――ッ
―――――――――――………………菊花の左脚に、
思い切り…………叩きつけた。
―――――――――――――――――グ、………
――――――――――サッ……
「―――――――、―――――くっ………………っ、
………………陽人。
―――――――……うん、……――そう、
―――――大丈夫―――――大丈夫だよ…………」
何があったのか……俺にはよく判らなかった。
砂埃が未だ立ち昇り、よく見えなかったんだけれど……。
その惨状を確認したのは、数回それを振り下ろした後だったと思う。よく見ると、数センチの長さのコンパス針が、菊花の左太腿に深々と突き刺さっていた。
「―――っ、かァあぁさん! っ、か、
かえっ……てきて、ょぉ……っぁさんッ! ………」
陽人は天を仰ぎ、涙がとめどなく滴り落ちた。
……そして、また……陽人の右腕は振り下ろされる。
再び、鋭利なものが振り下ろされ…………
再び、血が流れ、
再び、血が流れ、
陽人の右腕は、
何度となく彼女の左太腿に振り下ろされ…………
でも東菊花は、その鈍い光が自らの肉体に振り下ろされるたび、何かを陽人に優しく語りかけていた。
「――――――――――大丈夫。
―――――お母さん、陽人のこと……
忘れてないよ……………」
何回……陽人の右腕は振り下ろされたのだろう。
俺の両眼は、瞼を閉じることすら……
忘れていたのかもしれない。
眼前の光景が、胸の奥底をえぐるように、つらぬくように、俺の内部に入ってくる。それが振り下ろされるたび、左脚からたくさんの血が飛び散ったけれど、彼女は少しだけ……微笑を浮かべていたように見えた。
右腕は何度も何度も振り下ろされ、
何度も何度も紅い血が……周囲に、飛び散っていく。
「―――………お母さんは……陽人のこと、
世界で一番――――――愛してるんだから……」
痛みがなかったはずはない。
彼女の左太腿は表皮がズダズダに切り裂かれ、既にその足元は大量の血液で真っ赤に染まっていた。
スカートも、靴下も、制服も血みどろになって……。
その後、彼女は少しだけ……泣いていた。
涙を流し始めた。
ただ、泣いているんだけど、その表情は…………
なんていうのかな…………俺には、瞳を伏せて、
赤ん坊を寝かしつけている母親のように見えたんだ。
そして不思議なことに……その場に駆けつけた俺、そして保育士の田村さんも、陽人をやめさせようとするんだけれど……どんなに力を込めて走り寄っても、東菊花と陽人には近づけないんだ。
まるで時が止まっているかのように、その身体には触れられなかった。そのうち、俺の手足すら動かそうにも動かなくなり…………本当にその空間だけ、時間が止まっていたのかも、しれない。
動いていたのは……俺の頬を伝う「それ」だけだった。
そのとき、東菊花の優しい声が、
…………いや、歌声が……
あれは子守唄だったのかな。
同時に風が吹いた。
ゆっくりと、そしてとても――――――――
あたたかかった。
………あれはなんだったのだろう。
確かに俺にはそれが聞こえたし、それを感じることができた。
そして夕陽のオレンジ色が辺りから消えて、
辺りが真っ白に輝いた……と思う。
俺には、そういうふうに見えたんだ。
その数はたしか、ふたつより多かったと思う。
みっつか、よっつだったかもしれない。
たぶんみっつ、だと思う。
菊花と陽人の頭上、何メートルくらいだったかな…………?
……あの、不思議な光が現われたんだ。
―――――――――東菊花は、世界なんか救わない。
……救えない。
そんなの、無理だ。
ただの、13歳の……中学生の女の子なんだから。
けど、この少女は、これからもずっと……
自分の心臓が動きをとめる、その最期の瞬間まで……
絶対に、あきらめないだろう。
俺が、現世で彼女の姿を見たのは、それが最後だった。




