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第四十四話 ……人の、優しさって……

本物語は「タテ書き小説ネット」のPDF縦書きのみですべて文章調整しています。横書き、携帯ですと読みづらいかもしれませんがご了承ください(挿絵は横書き、携帯のみで閲覧できます)。

 東菊花はある一軒家を目指し、江渡川沿いの細道を歩いていた。


 

 その狭い道は、田んぼの(あぜ)まで横切る、その家(・ ・ ・)までの最短ルートである。

 靴も汚れるので通りたくない道ではあったが、菊花はなぜか無意識にこの道を選択し、そしていつしか……自分が早足になっている事に気づく。

 

 何か連絡があったわけではない。

 なんとなく胸騒ぎがし、鼓動が打ち鳴らされる。


 この一軒家での用事を済ませた後は、いち早く帰宅した方が良いのではないか? そんな思いに、少女はかられていた。


「―――千春、小春じゃない……ちがう、

 これは大舎のほうかも、しれない……」


 菊花の第六感のような胸騒ぎは時々、当たる。


 夕食のメニューの予想が外れる事はあっても、菊花はそのインスピレーションの赴くまま、事件現場に駆けつけ、施設の子供達の危険を何度か救ったことがあった。


 少女はこの心臓の早鐘を、単なる思い違いであってほしい……と心から願い、歩き続けた。



 その細道から狭い橋を渡り路地を入って行くと、樹々に囲まれた御屋敷が見えてくる。

 黒松、長寿梅、真柏……著名な盆栽職人・作家が創り上げた高級な鉢が並ぶ庭先は、当家が県北部に於いて、由緒ある家柄であることを漂わせている。


 しかし、不登校生徒が生み出されるか否かは、家柄は関係無い。


 むしろ両親のプライド、世間体や体裁といったものが、少なからず不登校の理由を不鮮明にし、その生徒の回復を遅らせていたのも事実だった。


 東菊花は、何度となくこの優雅な御屋敷を訪れている。

 ただ、いつもは重々しい門扉が、今日だけは異なる感触だったのは不思議だった。


「…………そうですか。

 あの、わたしも……由乃ちゃんが、

 そろそろ大丈夫じゃないかって……

 ずっと思ってたんです。


 ……良かった…………

 ――――――――良かったです……」


 少女は安堵して胸に手を置く。


 新宿の爆破テロ事件以来、久しぶりに登校した菊花は、その間ストップしていた不登校生徒宅への訪問を再開していた。


 朝はもちろんの事、この放課後も何軒か回っていたのだが、この御屋敷の不登校生徒・野口由乃は外出中で、不在だった。


 母親の話では、先ほど何人かの友達に誘われ、数ヶ月ぶりの明日の登校開始に向けてノートや消しゴムなど、文房具類を一緒に買い物に行ったのだという。


 その「友達(・ ・)」は、今まで何度かこの家を訪れていたらしい。


菊花は、天にも昇るほど嬉しかった。

いきおい睫が濡れ、拭う指先が震えた。


その「友達(・ ・)」の名前を聞いた時…………

 余計に、嬉しくなった。


 …………っ、……うれしい、なァ…………。


 不登校生徒宅への直接訪問だけでなく、クラスメイトへの協力の呼びかけも日々コツコツと、地道に続けていた東菊花。


 ――――直美ちゃんのことがあったから……

 頑張って……くれたのかな………………

 うれしい……うれしいな。


 ……うん、……こういうのって…………そう、

 ――――みんなが……優しくなることが、

 なにより大事だもの。

 ――――生徒全員が、助けてあげようって………

 みんなが優しくなることが……


 ――――――――――――――………人の、優しさって…………。


 東菊花はこのとき、あの『ニニギ』屋上での、別れ際のシスターの言葉を思い出していた。


 あのときの心臓の高鳴りは、今も変わらず…………

 菊花の魂の内に、強烈に刻み込まれている。





「――――菊花……あなたの気持ちは判るわ……

 人殺しなんて、絶対に許されるわけはありません。


 男谷涼は―――――――罪人として……

 現世で許されざる業を、死ぬまで……

 ずっと背負っていくでしょう。でもね、菊花……


 あの子の、あの子なりの……それは、

 苦しい決断だったと思うの。


 ……それを理解しろ、なんて言わない。

 理解しなくてもいい。でも……」



 シスターの伏せた青い瞳が、菊花の胸の十字架に映りこみ、その複雑な思惟を映し出す。立ち昇る煙が薄らぎつつある新宿の街並みを、少女は憔悴しきった表情で見下ろす。


「――――何があっても……どんな理由があろうと……


 千春と小春を施設に捨てたことは………

 わたしは、あの女を……絶対に許さない。

 

 わたしは、絶対に……許すことは、できない…………」




 シスターは少し時を置いた。


 屋上階の夜風にたなびく東菊花の美しい黒髪が、その沈んだ表情を時折覆い隠し、シスターの視界から、ふっ……と消えては現われる。


 少女の物悲しい、揺るがない決意の表情が伺えた。


 シスターは菊花の肩をそっと優しく抱きしめ、



「――――菊花……人の優しさって……あなた、何だと思う……?


 ………………男谷涼の娘は、あなた……ただひとりなのよ………」





 ――――――――――………………え…………?




 ―――――――………………菊花の眼前の世界が、

 無限の闇に押し潰されるかのように、瞬時に凍りついていく。


「……あの子は、男谷涼は……

 反坂本派の人間を数多く切り裂いてきた。


 ……その修羅場の中で、

 置き去りにされた子供たちを……あの子は……」





 千春は、名古屋での抗争事件の折、兄妹ふたりで反坂本派の暴力団事務所で遊んでいた。


 そのとき千春は3歳。

 未だに誰の子供なのかは判らない。


 組長に子供はいなかったので、幹部連の子供か、あるいはその事務所に出入りしていた組員の子供だったはずである。


 男谷涼は組長の首を標的に、備前長船兼光びぜんおさふねかねみつのみを携え、単独で討ち入った。


 乱戦の中、千春の5歳の兄は流れ弾に当たり重症。

 組長の首は獲ったが、他の組員は散り散りに逃げ出し、子供達は置き去りにされた。男谷涼は兄妹を何とか助け出したが、兄は時遅く、駆け込んだ病院で出血多量で死亡……。





 今は「小春」と呼ばれている少女。

 少女はその時、大阪のとあるカトリック教団にいた。


 教団と言ってもそこは体裁だけの偽教会本部であり、その司教は薬物売買や密輸だけでなく、裏で子供達を誘拐し、人身・臓器売買まで仕切る悪魔のような男だったという。


 小春はそのとき生まれて数ヶ月の赤ん坊で、母親と思われる女性は小春を抱きながら、司教の首を狙う男谷涼に、トカレフを発砲する実戦部隊のひとりだった。


 司教を男谷涼は見事討ち果たしたが、司教の死を眼前にした小春の母親と思われる女性は、その場で発狂したかのように絶叫してのた打ち回り、ピストル自殺を図る……。




 千春は、持っていたぬいぐるみのネームタグに名前があったので「千春」は多分本名らしいが、「小春」は後付けの名前であり、男谷涼が名付けている。


 本名は、わからない。





「――――――……あのふたりは、あなたの妹じゃない。

 男谷涼の娘でもない。


 反坂本派の、誰の子とも分からない……

 銃撃戦のさなか、人知れず泣いていた赤ん坊……。


 でも、これからもずっと……。

 修羅場に身を置かなければならなかったあの子は、

 6年前の、あの日…………わたしに、

 あの姉妹を、託すしかなかったのよ…………」




 押し黙る菊花に、あなた自身(・ ・ ・ ・ ・)のことも話さなければ……

 と、シスターは思い馳せたが……。


 しかし、この場ではそれ以上、言葉が出なかった。





 それは祖母としての…………


 愛しい孫娘への気遣いも……あったのかも、しれない。


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