第十七話 スナック 化け猫にて
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杉斗町商店街の一番奥にあるスナック……
「化け猫」。
面倒くさそうに……
駐車用のラインを無視して停めた、
軽トラックが店頭に一台。
照明をケチった室内は場末感で充満していた。
店の扉も木製のドアが変色し、汚らしい。
無愛想なマスターが小声で
「昔の名前で出ています」を口遊む。
奥の古びたソファーで、
マールボロを灰皿にこすりつける女性ひとり。
グラスには不味いブランデーが、カラカラと音を立てて沈んでいた。その瞳は曇り、仏頂面に見えたが、それは懐かしいシルエットの男性を見た瞬間の、ある種の照れが、そうさせていたのかもしれない。
「……姐様。……おひさしぶり…………で、
ございますな?」
アンバーカラーの照明に映える、白銀色の長髪と垂らした数本の三ッ編み。その男は輝く長髪を後ろに跳ね上げ、ゆっくりとその身をカウンターに横たえる。
「―――クックックッ……これはこれは。
…………今井の旦那ァ…………――――あてぇをまた……
あん時みたいにブン殴りにでも来たってわけですかぇ……?」
着物の裾が折れ返り、後れ毛がはらりと襟元にかかる。
襟中から見える、蛇を噛みちぎる血まみれのタトゥーが、紅潮した肌に妖しく輝いていた。
「恨みっこなしでいきましょうや……
あてぇにも、かわいい家の子郎党が待っているんでネ」
男は一歩踏み出し、その髭をつまみながら、スッ……と、グラスを持ち上げる。
「あなた様の団体は……多少なりとも、まぁ、
お気持ちは分かりますがな……
あまりよろしくないことを未だ……
続けていらっしゃるようで……」
紫色の背広が、薄暗いスナックの室内で虹色に反射し、男谷涼の蒼い瞳の内側に映り込んでゆく。その瞳を静かに見つめる老年の男性。
「―――もう、わたくしは公僕ですらない。
どうこうするつもりも、ございませんがな……」
男の冷静な瞳は微かに角度を変え、
「ただ、あなたのひとり娘は、
未だあきらめてはおりませんぞ……お忘れなきよう……。
幼き剣聖の魂は、この汚らわしき現世の……
絶望だけを見てはおりませぬ。
剣聖は……男谷精一郎は、
彼女を天界から見守っておられることでしょう……」
しばらくソファ横のテーブルに身体を向けて、無言でうつむいていた男谷涼。マールボロに火をつける。しかしおもむろにその顔を上げると、今井という男に向けて言葉を発し始めた。
「……あてぇは剣聖のなれの果て……
男谷精一郎の輝かしき血統の面汚しさね……。
今井の旦那も、よく分かっておいででしょう……?
超常の力は――――あてぇも多少受け継いではいるが、
それを世のため人のため、なんざ……
まっぴら御免……てぇ女でしてね。
――――フッ、可哀相な奴らに、
手を差し伸べてやるのが精一杯…………」
うつむいて、不味いブランデーに再び唇を近づける男谷涼。
「……クックックッ……
学校でママゴトをやらかしてる菊花なんざ……
あてぇに言わせれば偽善ですらない……てなもんでネ。
単なる自己満足……超常の力の無駄遣い…………
ってぇ、トコロですかねぇ……」
下唇を噛みながら、男は男谷涼から少し視線を外した。
「……わたくしは姐様の人生の在り様を、
矯正しようなどとは思ってはおりませぬ。まして……
そのために本日参ったわけでもございませんし、な……」
カウンター横に置いてあった、アタッシュケースを持ち上げる今井信次郎。その中から数センチはある、分厚い資料らしきものを取り出した。
「――――剣聖の血を受け継ぐということ……それは、
明瞭としない事象として、
諸所に現われる場合も多かろうとは存じますが、な……」
その資料をパラパラとめくる。
併せて、写真数枚を男谷涼に見せた。
「私どもの調査開始から計上するに、
菊花様のその鋭い洞察力・喝破する能力は、
実に90%以上の確率で、正答を得ております。
まったく……あれは見事という他ありませんな。
……人々の行く途を、正しき方向へと導かんとする、
精一郎様の再来でありましょう……」
驚愕の表情で今井信次郎を見つめる男谷涼。
無言でその資料を取り上げ、目を見開く。
「――――ほう…………精一郎様の……
思惟の深淵の如きは…………
あてぇには殆ど、現われなかったんだがねぇ……
菊花は精一郎様の行いのひとつを、
見事体現できた、……というわけだね?」
額に手をやり、少し髪をいじりながら、少々訝しげな表情で男谷涼は続ける。
「今井の旦那……あんた、
あてぇを焚きつけて何を考えておいでだね?
あんたも知っての通り、菊花はいずれは迎えに行くよ。
地獄を見た人間にしか、あてぇの後は継げないんでねぇ……
まぁ、そのつもりであの子を―――――
『育てて』きたつもりなんだけどねぇ」
微笑を浮かべる。
「だからといって、
まだ尻の青いオボコ娘をあの汚ねえ世界に――――――
引っ張り出そうとは……あてぇも思っちゃいませんよ……」
そのとき、はじめて今井と言う男が…………薄く笑った。
いや、刹那ギラリと睨みつけた。
「……姐様は……それで良いかもしれませんがな……。
しかし、あの娘は恩讐の果て、
その迷いなき鉄槌をあなたに下す時が来る……
姐様にも僅かな正義はあろうが、
彼女の目指すものはそれではない。
東菊花はすべての人間に、
全域に渡って幸せをもたらすことを求めていらっしゃる。
……現世の欺瞞を、蛆虫の巣の浄化を……
あきらめることを善しとした時点で、
東菊花はあなたを絶対に許しはしない。
あなたの心臓を迷うことなく……貫くために、
いつの日か……
あなたの前にその姿を現すことでしょう。
……甘く見ないことです。
彼女の血は、いささかもぶれてはいない。
上泉信綱公から続く、栄光の血…………
――――東菊花は……
剣聖そのもの、ですぞ………」
苦笑いの男谷涼。
マールボロの吸殻がテーブルに転がり、
ブランデーに吐息がかかる。
「あ、そうそう……本国では…………
坂本の動きが最近その激しさを増しておるようで……
お気をつけくださいませな……」
スナック「化け猫」の扉が開く。
今井信次郎は、待ちうけていた部下に何事かを伝えると、亞蘭家の特殊高機動車両のタラップを駆け上がり、その紫色のスーツの襟元を緩めた。




