第百三十一話 『うわっ……お嬢様の性格、悪すぎ……?』
冷静に考えてみると、わざわざ俺が危険を冒してまで船内に踏み入る必要はないことに気付いた。ユーハやトレイシーのようなプロに任せた方が安全確実だろう。少しは余裕を持って動けていたと思っていたが、そうでもなかったかもしれない。
近付いて来ていたドラゼン号が百リーギスほど離れたところで帆を畳んだので、俺とリュシエンヌちゃんは空の人となる。俺は練習も兼ねて〈瞬転〉で戻っても良かったけど、他人に知られると色々面倒そうだから自重した方がいいだろう。アシュリンはお嬢様に乗られることを酷く嫌がったので、イヴが抱えていった。うちのペット一号は無駄にプライドが高い。
ドラゼン号の甲板に降り立つと、心配そうな様子のみんなから声を掛けられるより先に、いの一番にローブ姿の少女に尋ねる。
「ゼフィラさん、周囲に人はいますか?」
「お主、妾を気軽に索敵してくれる便利な女と思っておらぬか?」
なんか面倒臭い反応が返ってきた。
こっちは何人も殺しちゃうほど真剣だってのに……。
どうせなら『あなたにとって所詮あたしは便利なレーダー女だったのね!』くらい言って、鬱りそうな心に笑いをもたらしてほしいところだ。
「いえいえ、全然思ってないですよ。むしろそんなこと言いながらも協力してくれる優しさにいつも感謝しています。ありがとうございます、お優しいゼフィラ様」
「……………………」
さながら主人に対する従者のようにおだててやったというのに、フードから覗く生白い顔には肌の色より白けた反応しか窺えず、赤い眼差しは冷めきっていた。
ゼフィラのような美少女なら、ここは『大変に気分がいい』と上機嫌に笑いながらお願いを聞いてくれる場面だろうに……これだからガワだけの美少女は困る。
やはり三千歳のお婆ちゃん相手には見え透いた世辞など用いず素直に頭を下げるべきか。
「すみません、冗談抜きに困ってるので今はゼフィラさんの力が必要なんですお願いします何でもしますから」
「最初からそう言えておればの……まあ良い。その言葉忘れるでないぞ」
ゼフィラは仕方なさげに嘆息し、口元に薄く笑みを浮かべた。
お嬢様よりこのロリババアの方が間違いなくプライド高いな。
「ふむ……あの船で一人生け捕りにしたようだが、それを除けば妾等以外、誰もおらぬな」
便利だけど面倒なレーダー女は椅子に座ったまま、トレイシーの残る敵船に視線すら向けず、そう断言した。
「それってあの島にも?」
「うむ」
セイディの問いに頷く姿を横目に、俺は島の方を見遣る。ドラゼン号から島までは一メトくらい離れているだろうか。アルセリア曰く、相識感の感知範囲は半径一メトくらいらしいが、鬼人はどうなんだろう。ゼフィラが素直に教えてくれるとは思えないので、それについて訊きはしないけども、魚人については別だ。
「では逃げていった魚人とかはいますか?」
「おらぬであろうな。少なくとも妾の感知できる範囲内から逃れていった反応はない。まあ、お主にしては良くやったのではないか?」
「あ、ありがとうございます……」
ゼフィラが褒めてくれるなんて、明日は雪でも降るのか?
まあとにかく、鬼人の相識感的なアレによれば、現在この周囲一帯に人はおらず、逃げていった者もいないという。つまり完全勝利である。危険を冒して迅速に行動した甲斐があったというものだ。これで去年末のように敵の一員を逃がしていたら、また新たに後顧の憂いができるところだった。
やっぱりゼフィラがいると何かと助かるな。いざというときは安心安全の鬼人セキュリティに今後も期待しよう。ちょっと扱いが難しいのが玉に瑕だけど。
「ノーラッ、何を暢気に寝ていますの!? 起きなさいこの役立たずっ!」
ほっと胸を撫で下ろしていると、怒鳴り声が耳に届いた。
声の方に目を遣ると、甲板で仰向けに横たわる翼人の女をお嬢様が足蹴にしていた。
みんな突然すぎる暴行に唖然としている。
「お前が無能すぎるせいで大変な目に遭いましたのよ!」
ノーラは全身の傷も膝矢もなくなり、血による汚れも服以外には見当たらない。ツィーリエあたりが治癒魔法を掛けて、誰かが血を拭ってあげたのだろう。
それでも服の破損や赤い染みから奮闘した痕跡は見て取れる。それはリュシエンヌちゃんも気付いていると思うが……言動に情けはなく、容赦している様子はない。
「何するんだっ、やめろー!」
「ピュェピュェェェェッ!」
リーゼが槍の柄でリュシエンヌちゃんを押し退け、アシュリンが威嚇する。
お嬢様は魔物畜生には怯んだ様子ながらも、幼狐には強気な眼差しを向けている。背の低いリーゼのことは年下だと思っていそうだ。
「お前がオジョーサマだな!? この人はオジョーサマを助けようと頑張ってたのに、なんで蹴るんだ!? かわいそーだろー!」
「無能な護衛に対する当然の仕置きを、可哀想? 何を馬鹿なことを言っていますの?」
ノーラが起きたら転職を勧めようかな。
ブラックな仕事はさっさと辞めて、ホワイトな街の衛兵にでもなればいい。
膝に矢を受けた人にはその資格がある。
「バカって言う方がバカなんだぞ!」
「……あぁ、失念していましたわ。下等な獣人種には上に立つ者の考えなど理解できるはずもないのに、わたくしとしたことが……馬鹿に主従の道理を説いても無駄ですわね」
ちょっ……お前、そんな……えぇ?
さっきまでは割といい子な感じだったのに、それが本性なのぉ?
リュシエンヌはこれ見よがしに溜息を吐き、身体的にも精神的にもリーゼを見下している。そこに挑発する意図などは感じられず、ただ本心からナチュラルに相手を侮っているのが伝わってくる。
「よくお聞きなさい。わたくしはリュシエンヌ・ソールズベリー。クアドヌーン王国がメイシャル領を治める由緒正しき侯爵家の魔女、そして第三王子フェリクス・クアドヌーン殿下の婚約者でもありますの」
堂々と自信満々に名乗りを上げる姿には、なるほどこれが貴族のお嬢様かと納得させられる貫禄らしき凄味が……ありそうでないな。高慢そうな幼女のドヤ顔にしか見えん。
王子様の婚約者って話がマジなら、俺たちとは住む世界が違うのだろうが、まだ子供であることに変わりはない。
「あたしはリゼット! あたしだって魔女だ!」
「……べつにあなたのことはどうでもいいですわ」
おぉっと?
魔女だと聞いたからか、態度が若干軟化したな。
「そっちが自己紹介したからあたしもしてあげたんだ!」
「あら、お馬鹿とはいえ魔女だけあって、最低限の礼儀は弁えているようですわね」
「当たり前ですわ!」
リーゼは得意気な顔で胸を張っている。
なんだかんだで二人とも会話のキャッチボールは成立しているし、意外とすぐ仲良くなりそうな気がしないでもないですわね。
「でしたら、誰の前に立っているのかくらいは理解できますわね? 分かったらそこをおどきなさい」
「どかない。あたしはナントカ王国の人じゃないし、ルシエンヌがどれだけ偉くても関係ないもん」
「わたくしがそこの無能をどう扱おうと、わたくしの勝手ですの。これは当家の問題ですのよ、どこの馬の骨とも知れない下等種如きが口を挟まないでくださる?」
「ここはあたしたちの船だ! ルシエンヌの好きにはさせないぞっ!」
「一度ならず二度までも……ルシエンヌではなくリュシエンヌです! 人の名前を間違えないでくださいます!?」
「間違えてないぞっ、リュシエンニュだろー!」
「リュシエンヌですわ!」
「だからそう言ってるだろー! なんだお前ー!」
「はぁ……まったく、これだから学も品もない下民は嫌ですわ……」
リーゼが人をからかえるほど器用でも性悪でもないことは、出会って間もないお嬢様でも悟れたのだろう。リュシエンヌは深く嘆息し、呆れたように頭を振っている。対する幼狐は今にも槍の穂先を向けかねない気迫で仁王立ちし、お嬢様を睨んでいた。
それでも尚、誰も二人の間に介入しようとせず、大人たちは様子を見守っている。貴族様の威光に平伏した……わけではないだろう。
「ローズ、大丈夫?」
クレアが俺の前に膝を突き、ボロボロの服に触れながら心配そうに尋ねてきた。
「あ、はい、私は大丈夫ですけど……あっちはいいんですか?」
「ええ、いいのよあれで。魔法で喧嘩しそうになったら仲裁するけれど、これもいい経験になるからね」
「いい経験……ですか?」
俺が首を傾げている間にも、お嬢様と幼狐の言い合いは続いていく。たまにアシュリンが「ピュェェ!」とリーゼに加勢するが、リュシエンヌは武者震いしながらも毅然とした態度を崩さない。
「同じ年頃で、貴族らしい貴族の魔女と、ああして触れ合える機会なんて滅多にないもの。今なら多少の無礼は問題にならないだろうから、好きにさせておくわ」
「……なるほど」
ゼフィラ曰く周辺には誰もいないし、もはやノーラの話を疑う余地はほとんどない。とりあえず危機的な状況は去って、後はお嬢様とその護衛を送り届ければ、今回の一件は無事に終わるはずだ……たぶん。そう思いたい。
であれば、同年代の魔女とじゃれ合わせるのも一興だろう。俺だけでなく、クレアたちもリュシエンヌの言動に思うところはあるだろうが、だからこそ貴重な経験となり得る。世界には色んな人たちが色んな考えで生きていて、同じ魔女だろうと分かり合えるとは限らない。そうしたことを学べる好機だ。
喧嘩は悪いことではない。特に子供の場合は尚更で、ぶつかり合わないと分からないことだってある。子供同士であれば立場や利害を気にせず、案外ころっと仲良くなれることが間々あるものだし、そこに大人が横やりを入れるのは無粋ってもんだ。
ベルが対立する幼女たちを慈母の眼差しで見守っているうちは、放っておいて大丈夫だろう。
「それよりローズ、今後は勝手に戦ったりしちゃダメよ」
クレアは俺の両肩に手を置いて、間近から真っ直ぐに見つめてきた。美しく整った顔に表出した感情は混沌としてすぎて、彼女自身ですら判然とせず戸惑っている気がする。
「すみません。でも、あれは自衛のためで――」
「みんなを守ろうって気持ちは立派よ。でも、ローズ一人で危険を冒すことはないの。何かあっても、一人で勝手に無茶するより、みんなで力を合わせて乗り越えていけばいいのよ」
「それは、そうかもしれませんけど……」
クレアの気持ちは察しが付く。
子供に人殺しをさせたくないって考えには深く共感できる。俺がリーゼに対して思うように、クレアたち大人は俺に対しても殺人を犯してほしくないと思っているのだ。
しかし、俺は見た目が子供なだけで、中身は三十過ぎの大人だ。危機的な状況となった際、俺一人で対処するのが最適であれば、そうすべきだと思っている。別段、俺一人が犠牲になればいいとか、そういうことは考えていない。余程の危険がない限り、みんなの力が必要なときは頼るつもりでいる。
俺はあくまでも合理的に判断して、今回は一人で吶喊しただけだ。
しかし、保護者からすれば、相手が子供であるというだけでどんな合理的思考も意味を為さなくなるのだろう。俺だってリーゼたちを心配する気持ちは理屈で割り切れない。
「こんな世の中だもの、絶対に人を殺してはいけないとは言わないわ。でも、それは身を守るときだけよ。『今ここで殺しておかないと、いつか危ないかもしれない』っていうだけで殺していては、今後もし何かあったとき、少し不安になっただけで簡単に人の命を奪うようになってしまうわ」
それは一理ある話だった。
どんどん歯止めが利かなくなって、些細なことで殺しまくるようになれば、人の命を何とも思わなくなりそうだ。自分でも気付かないうちに、怪物になってしまうかもしれない。そうなれば、加速度的に敵が増えていくだろう。遅かれ早かれ俺の情報が漏れて、殺した敵の親兄弟恋人友人が復讐しに来るようになり、俺の周りは危険になってみんなと一緒にいられなくなる。
自衛という名目が立ってしまうから、念のため殺しておこうって考えが正しく思えてしまう。だが、念のためとか一応とか不確かな理由で人の命を奪おうだなんて、あまりに酷い話だ。もし相手が善人だったら、ただ理不尽なだけの暴力で、殺される側は堪ったものじゃない。
そもそも、俺が悪人だと思っても、万人が認める悪人なんて存在はいないのだ。善悪は相対的なものでしかなく、悪逆非道なゲス野郎としか思えない奴が、家族や友人にとっては善人であることなど間々ある。
「今回は実際に襲われたし、攫われた魔女を助けたことにもなったから、結果的には良かったけれど、今後は『敵になるかもしれない』っていうだけで、深追いするようなことはしちゃダメよ」
「……分かりました」
やっぱりクレアはしっかりしてるな。
どう言えば俺が自省し、今後自制するようになるのか、ちゃんと分かっている。精神的には俺より年下なのに、敵う気がしない。べつにそれでいいから、何も問題はないけど。
思わず抱き付くと、美女は両手で抱き返してくれながら立ち上がった。
「さて、それじゃあ着替えましょうか」
「……はい」
クレアに抱っこされていると、何だか無性に安心する。
殺しまくって荒んだ心が癒されていくのを実感でき、全身から力が抜けてしまう。精神的に年上の男として情けなくはあったが、クレア相手なら今更だ。このまま美女の母性に身も心も委ねよう。
この調子なら、大後悔時代の到来はなさそうだ。
♀ ♀ ♀
以前は衣類の着脱をみんなが思い思いに手伝ってくれていた。
しかし、黒柴系メイド姉妹が乗船してからは姉の方に全て任せている。着替えを手伝うのは侍女の仕事だと主張して、他の誰にも手伝わせようとしないからだ。
ちなみに、風呂で身体を洗う役目にこだわりはないようで、ニーナには一緒に入ったときに洗ってもらうくらいだ。俺はいつも誰かしらと入浴するし、ニーナは賢い子だから、洗いっこはコミュニケーションの一環だと理解しているのだろう。
「あまり無茶はしないでほしいのです」
着替え中、ニーナにはどこか物悲しい顔で心配されてしまった。ユスティーナが亡くなってから、まだ二節も経っていないせいか、色々と思うところがあるのだろう。
お互いのメンタルのために、今日はニーナと一緒に寝るか。
着替えを済ませた後、みんなで船内から外に出ることにした。ひとまず危機は去ったので、子供たちも一度青空の下に出して、もう大丈夫だと安心させた方がいいだろう。
「え……?」
甲板に出た矢先、呆然とした声が耳に届いた。
声の主は相も変わらず対峙している幼女二人の片方で、当人は間の抜けた顔を晒している。今し方リーゼが行使した〈従炎之理〉に怖じ気づいた……という様子ではなさそうだ。
「どーだっ、上級魔法だぞー! あたしの方が凄いんだから、もーバカにするな!」
「あ、あなた……今、詠唱は……?」
「してない! それがなんだーっ、なんか文句あるのかー!?」
「……え、そんな……上級魔法を、詠唱省略で……え?」
ご立腹な様子の幼狐に対し、お嬢様は愕然と立ち尽くしている。
状況は何となく察せられたが、とりあえず声を掛けてみるか。
「リーゼ、どうかしましたか?」
「あ、ローズ」
リーゼは〈従炎之理〉を解除すると、苛立たしげにリュシエンヌを指差した。
「こいつ嫌な奴だ! なんか変なこと言ってバカにしてくるし、あたしが特級魔法まで使えるって言ったら嘘吐き呼ばわりしてくるし、あっちは全属性中級までしか使えないくせに偉そうにしてるし……なんかもーダメだっ、いじわる魔女だ!」
この子がここまで言うのも珍しい。
よほど腹に据えかねる高慢な態度で不当な嘲弄でも受けたのだろう。
「なるほど。でも、そういうことなら特級使った方が良かったのでは?」
「特級は詠唱長くてめんどーだもん」
状況的に、一秒でも早く黙らせたかったってのもありそうだ。
どうやらリュシエンヌは中級魔法が使える程度でマウントを取ろうとしていたようなので、それなら上級でも十分だと思ったのだろう。
いや、全属性中級までってことは一通りの中級は習得済みってことなのか? それなら九歳では十分凄い方なのかもしれん。光闇と治癒解毒は他属性より難しいし、リーゼだって治癒解毒はまだ下級だ。
まあいずれにせよ、お嬢様は予想外に詠唱省略されて、二重の意味で驚いたってことか。
「こんな馬鹿そうな子が……何かの間違いですわ……年齢が同じなら下等愚劣な獣人如きに侯爵家の魔女たるわたくしが劣ることなど……」
「あの、リュシエンヌさん」
なんか一人でぶつくさ言ってるお嬢様に声を掛けると、俯きがちな顔がバッと上がった。そして縋るような眼差しを向けてくる。
「ロ、ローズ様……こちらの獣人はいったい……?」
「私の家族です」
「家族……あ、なるほど! 妾腹の子というわけですわね! 半分はローズ様と同じ高貴な血を引いているのであれば、優れた魔法力も納得ですわ!」
この子はいったい何を言っているんだ?
「そちらの方々も腹違いの兄弟姉妹ということですわね? もしや女性は皆が魔女……いえ、もしよろしければ、ご紹介頂けますか?」
「サラ姉たちもバカにする気だな!? お前みたいな嫌な奴とはみんな友達にならないぞー!」
「べつにあなたには頼んでませんわ。少し静かにしていてくださる?」
「ピュェピュェェェェェェェッ!」
「そーだそーだーっ、もーあっちいけー!」
アシュリンが静かとは真逆の声で叫ぶと、リュシエンヌは気圧されたように顔を強張らせ、それを好機と見たのかリーゼは勢いづいている。
「リーゼがこんな態度で友達にすらなろうとしないって、かなりの性悪みたいだな」
「悪い人、なの?」
「……うーん、これは確かにお嬢様みたいだね」
ウェインは一歩引いたところから警戒心を露わにしており、ルティは俺の隣で興味津々な様子ながらも二の足を踏んでいて、メルはなぜか遠い目をして苦笑している。
かと思ったら、美少女が少し腰を屈めて俺の耳元に顔を寄せ、囁いてきた。
「さっきの話では、貴族の子ってことだったけど」
先ほど船内で軽く事情を話してあるので、リュシエンヌの素性もみんな把握済みだ。そのせいか、メイド服姿の双子は少し離れたところで傍観の姿勢を見せている。二人は一緒に大きな編み籠の持ち手をそれぞれ掴んでいて、そこに収まる赤ちゃんはすやすやと眠っている。
「ローズなら気付いてると思うけど、たぶんあの子、人間至上主義の考え方に強く影響を受けてるんだと思う」
あふん、メルの優しい声が吐息と共に耳をくすぐって……とか感じてる場合じゃねえな。
なるほど、そうか。あれが人間至上主義か。
もちろん知識としては知っていたが、実際にその手の思想に偏った人に会ってみると、指摘されるまで気付かなかった。
「リーゼやサラ、ニーナちゃんやラスティくんに対しては良くない態度を見せると思うけど、あまり怒らないであげて。あの子はまだ小さいし、きっと貴族の魔女としてそういう風に教育されただけで、悪気はないと思うんだ」
メルの優しさに触れていると心が穏やかになるよ。
この子は魔大陸に来る以前、旅に出るまではリーンカルン王国の魔法学院に通っていたという話だ。ユリアナからメルになった日に色々と聞かせてもらったとき、貴族令嬢の魔女に苛められていたことも少し聞いた覚えがある。
平民で獣人の魔女だったメルは、貴族で人間の魔女たちから見下され、かなり辛い目に遭っていたはずだ。その辺はあまり掘り下げない方が良さそうだったから詳細は知らないし、家族との問題もあったようだが、それまでの全てを捨てて旅に出るほどってのは相当なものだ。
状況は違えども、あの笑顔美人のノシュカですら、旅立ちには長年二の足を踏んでいたようだった。十二歳の少女が一人旅を決意するほど、当時のメルは家族問題と苛めに追い詰められていたことは間違いないだろう。
にもかかわらず……偏見の目で見ないどころか、まだ幼女のリュシエンヌは悪くないだなんて、なかなか言えないよ。
「もしかしたら、ローズたちの学力や魔法力を見せてあげれば、考えを改めてくれるかもしれないね。腹が立つことを言われたりするかもしれないけど、できれば辛抱強く接してあげて」
「分かりました。みんなで仲良くなれるように頑張ってみます」
メルの優しさに免じて、俺はそう頷いた。
いくら子供同士だからって、うちの可愛いリーゼを理不尽に貶す悪役令嬢の言動は目に余るものがあった。しかし、そういう価値観のもとで育てられたのであれば、致し方ないと思える。
人間至上主義は人間が一番優れた種族だという優等種族論が正しいとする考え方のことで、これは王侯貴族にありがちな選民思想と非常に親和性が高い。世界的に見ても、王族や貴族は人間が圧倒的に多いらしく、人間の貴族として生まれれば自然と人間至上主義に基づいた教育を受けることになるようだ。
元貴族のベルやジークが他種族を侮蔑している様子がなかったのは、どちらも俗世間で長く生きてきたからかもしれない。獣王国の港町で会ったイケボ貴族ダヴィートはノシュカと普通に仲良くしてたし、獣人のレンツォが養子だったり、翼人の護衛にぶっ叩かれたりもしてたけど……まあ、あいつは変人だったしな。そもそも人間の貴族だからといって、必ずしも主義者というわけではないはずで、主義者でも程度の差はあるだろう。
ともかく、リュシエンヌはまだ子供で、子供は周囲の影響を強く受けて育つものだ。社会や大人の都合で、人間至上主義という価値観を植え付けられただけで、好き好んで偏見を持っているわけではないはずだ。ある意味、被害者と言っても過言ではない。
であれば、ここは一度その偏った認識を破壊してやり、色眼鏡の掛かっていないクリアな視界で現実と向き合わせてやるべきだ。そうすれば、身分や種族に関係なく対等な存在として、仲良くできるようになるかもしれない。
リーゼの経験のためにも、子供同士のやり取りに口は挟むまいとも思ったが、方針変更だ。ここは一肌脱いで、人間至上主義をキメてる生意気なメスガキに分からセック――じゃない、分からせてやるか!
「リュシエンヌさん、みんなを紹介しますね」
「ありがとうございますローズ様!」
俺が声を掛けると、リュシエンヌは対峙していたリーゼ&アシュリンにあっさりと背を向け、可愛らしい笑みを浮かべて駆け寄ってきた。
こうして見ると普通にいい子そうだし、根は悪くないのだと思いたい。
「ダメだローズっ、そいつはみんなをバカにする危ない奴だ!」
「大丈夫ですよ、リーゼ。ここは私に任せてください」
「いじわるする敵からみんなを守――」
「リーゼ、落ち着いて。どうしてそう思うのか、詳しく聞かせてくれる?」
幼狐は憤懣やるかたない様子で止まる様子がなかったが、美少女がやんわりと間に入ってくれた。
リーゼが愚痴るようにメルに話している今のうちに、何とかしよう。
「サラ、こちらが先ほど話したリュシエンヌ・ソールズベリーさんです。私と同い年の魔女です」
サラは人見知りだが、年下相手にはある程度余裕を持って対応できる。それは最近の危うそうな人格のサラでも、ニーナとラスティのときに確認済みだ。
「どうも……サラよ。よろしく」
「リュシエンヌ・ソールズベリーですわ。よろしくお願いいたします、サラさん。もしかしなくとも、魔女でしょうか?」
「ええ、まあ……一応」
サラの反応を見るに、お嬢様にはあまり関心がなさそうだな。リュシエンヌみたいな我の強そうなタイプの相手は得意じゃないだろうし、仕方ない。
「サラも上級魔法を詠唱省略で使えます」
「へ、へえ……それは、凄いですわね。ところで……今お幾つかお聞きしても?」
「来期で十二歳よ」
「なるほどっ、そのお歳でそれは本当に凄いですわね! まあ、わたくしも三年後には上級魔法を詠唱省略で使えるくらいにはなっていると思いますわ!」
年下という言い訳が立つからか、お嬢様の自信過剰な高慢さは健在だった。
ま、俺は優しいからな。
いきなり落としたりはせず、一度上げてやるのさ。
「そう……それは、良かったわね」
「ええっ、何しろローズ様に色々と秘訣をご教授頂けますし、わたくしなら一年もせずに追いつけますわ!」
サラの引き気味な様子も何のその、リュシエンヌは右手を胸に、左手を腰に当て、くいっと顎を上げて断言した。どこぞの狂信者みたいな堂々とした盲信っぷりだ。
こいつはなかなか重症っぽいね。
ある種の偏った主義や思想ってのは麻薬に似ている。思い込みは己を鼓舞するのに役立つこともあるが、往々にして現実を正しく認識できなくなるので、危険を危険だと思えなくなり、非常に危うい。まるでクズニートのように自分に都合の良い思考を常時展開できてしまえると、それが気持ち良くてやめられなくなるので尚更だ。
大抵の人は自分の思い通りにいかない現実との摩擦で否応なく目が覚めるものだが、温々と育つ貴族様はその限りではないのだろう。思想的麻薬をキメられるのは上級国民か熟練自宅警備員、あるいは狂人の特権だ。
やはりリュシンエヌにはRMCを受診してもらう必要があるな。
「ところで、翼人のようですけれど、随分と個性的な翼ですわね。ご出身はどちらになるのでしょう?」
「……ローズ、わたしはエステルの面倒を見てるわ」
純粋に疑問といった態でお嬢様が尋ねると、サラはぴくりと両翼を震わせた後、居心地悪そうに髪を弄りながら背を向けた。そして足早にメイドたちの方へと去ってしまい、籠の前に屈んで赤ちゃんの寝顔を眺め始める。
「あら……わたくし何か失礼なことを言ってしまったのでしょうか」
「サラの翼は珍しいですから、人から色々言われることにうんざりしてるんです。初対面の人に素っ気ないのもそのせいです。翼のことに触れなければ、普通に接してもらえるようになりますよ」
「そうでしたの。それよりローズ様、次はそちらの子をお願いしますわ」
リュシエンヌは翼人であるサラにあまり興味がないのか、あっさりと流してルティに目を向けた。先ほどのリーゼに対するあしらい方を見るに、やはり人間以外の種族はナチュラルに見下しているのだろう。
「この子はルティカです。私やリーゼより一つ年下で、この子も魔女です」
ルティはこれで意外とコミュ力が高い。老若男女誰に対してもあまり物怖じせず話せるし、出会った頃より口数も幼女らしさも増したせいか、相手の受けも悪くない。
「ぼく、ルティカ。八歳です。よろしくお願いします」
「リュシエンヌ・ソールズベリーですわ。よろしくお願いしますわね、ルティカさん。ルティカ……あぁ、まるで夜空に瞬く一等星のような素敵なお名前ですわね」
「うん、星の名前。ぼくも好き」
このお嬢様、偶然だろうがクリティカルな一手を打ったな。ルティにとってジークの付けてくれた名前を褒められるのはかなり嬉しいはずだ。現に薄く笑みを浮かべていて、これは相当ご機嫌なときでないと見せない表情だ。
「ところで、ルティカさんも魔女とのことですが、魔法の腕前は如何ほどか聞いてもよろしくて?」
やはりそこが気になるのか。
常に自分の優秀さを再確認しないと落ち着かないのかもしれない。人より優れた魔法力こそが、己の価値だと信じているのだろう。いや、思い込まされているのか。それは貴族社会では当たり前のことなのかもしれないが、そんな偏った狭い価値観が健全であるはずがない。
人より魔法力が劣っていたって、べつにいいんだ。
誰だって世界に一つだけの花なんだ。
それをお嬢様に教えてやろうじゃないか。
「リーゼと同じくらい」
「そ、そうなのですか……それは、また……凄いですわね」
相手が人間だからか、お嬢様は戸惑いながらも認めている様子だ。俺を貴族だと勘違いして、ルティもその血筋だと思っているのであれば、受け入れられるのだろう。
でも、そんな甘ったれた言い訳、先生は許しませんことよ。
「正確にはリーゼより凄いですよ。ルティは六歳で特級魔法を習得して、今では詠唱省略で使えますし、上級魔法の同時行使もできます」
「…………え?」
「北ポンデーロ語の他に、クラード語はもちろんネイテ語も堪能で、読み書きはもちろん四則計算もばっちりです。最近は音楽も学んでいて、芸術を解する美感も持ち合わせています」
あなたの価値観を虹色に。
ローズメンタルクリニックにようこそ!
「リュシエンヌさんは北ポンデーロ語とクラード語の他に、話せる言葉は?」
「そ、それは……将来的には、エノーメ語かフォリエ語を学ぼうかと……」
「それなら計算はどうです? 三十七掛ける六十九は?」
「え、あ……三十と七で、六十と九ですから……えっと……」
あらら、もたついちゃってるわ。
必死に暗算しようとしている姿は健気で可愛いわね。
でも、可愛ければ何でも許されると思ったら大間違いよ。
「ルティ、答えは?」
「二千五百五十三」
「ほぇ……?」
あらもう、いやですわリュシエンヌさん。淑女たるもの、人前でそんな間の抜けた声を漏らしてはいけませんことよ。
まあ、うちの子たちは優秀だから、驚くのも無理ないけども。
我が家の方針として、掛け算を九の段までではなく、九十九の段まで覚えるようにしている。単純に覚えるというより、二桁の暗算に慣れさせる過程で自然と覚えてしまうのだ。もちろん俺もこの新鮮な幼女脳のおかげで、九十九の段まで覚えちゃったし、三桁の暗算だって余裕……ではないけど、普通にできるぜ。
「この程度、サラもリーゼもできますよ。二人ともクラード語も北ポンデーロ語もエノーメ語も話せますし」
「あ、あの、それは……ご冗談ではなく……?」
「この程度のことが冗談になるんですか? お嬢様なリュシエンヌさんなら、勉強は私たち以上にできるんですよね?」
「……………………」
患者さんは何も言えず立ち尽くしているわ。
視線が泳ぎ、額に汗がにじみ出し、口元が微かに震えている様子からして、精神に相当な負荷が掛かっているのは間違いないでしょう。
仕掛けるならここね。
「あれ? え、もしかして……リュシエンヌさん、まさか……」
私はさも驚いたと、信じられないと言わんばかりに、口元に左手を当てて目を見開いたわ。
「年下の子より、魔法も勉強もできないんですか?」
「わ、わたくしは…………い、いえ、つまり、ルティカさんたちはよほど高貴なお生まれなんですのね……?」
「いえ、私たちみんな両親の顔も知らない平民です」
嘘を吐く必要はなく、ただ事実を述べるだけで事足りそうね。
とはいえ患者さんは俄には信じられないのか、引き攣った笑みを浮かべてほざきやがります。
「でも、それは……知らないだけで、きっと間違いなく王侯貴族のご落胤ということですわ」
「実は私たち魔大陸育ちで、今はシティール目指して旅している途中なんです」
「ま、ままままたいり……くぇ? え、や、おほほほ、ご冗談を、そんな……」
「これが冗談言ってる顔に見えますか?」
「…………あ……あ、あぅぁ……あばばばばば」
あっ、患者さんが白目を剥いて震え始めたわ。
魔大陸出身ってのがだいぶ効いたみたいね。
まあ、無理もない反応かもしれない。
高貴な身分の方々に限らず、ザオク大陸は世界の辺境、あるいは未開の僻地という認識のはずだ。更には、そんなド田舎で暮らす人々など奴隷か猟兵くらいなもので、卑しい身分の野蛮人たちが日々を生きるために魔物相手に駆けずり回って汗水流している……と見下していることだろう。
実際は他大陸とそう大差ない文明レベルで、街によってはだいぶ発展しているところもある。しかし、他大陸の多くの人々は実態を知らないし、聞く機会もそうそうないだろう。だからこそ、貴族にとってはマウントを取れる絶好の相手になり得る。
高貴であることを自他共に認知させるには、自分たちより低俗な、見下せる相手が必要不可欠だ。きっとリュシエンヌも魔大陸やそこで暮らす人々については、世界で最も貧しく哀れで下等愚劣な生まれながらの負け犬……みたいな認識を持つように育てられていたとしても不思議はない。
つまりこのお嬢様は、蛮地育ちの下民なのに自分より優れた魔女に助け出された挙句、同い年の獣人や年下の子より魔法力も学力も劣っている自分の状況を前にして、先入観とのギャップに頭がバグっているのだろう。
「お姉ちゃん、なんかリュシエンヌの様子が変」
「いいですかルティ、これが理想と現実の差を思い知らされて苦しむ人の姿です。こうなりたくなければ、どんなことにも偏見を持たず、思い込みで判断せず、広い視野で物事と向き合わなくてはいけません」
「……よく分からないけど、なんとなくは分かる」
さて、ルティに人の愚かさを学ばせることもできたし、そろそろ仕上げに移ろうか。
俺は茫然自失の態で立ち尽くすお嬢様の手を掴み、ルティと一緒に双子メイドとサラの方に歩み寄る。三人はその場に屈み込んで、編み籠の中で眠るエステルを見て笑い合っている。
そんな和やかな場にお邪魔させてもらうと、俺たちも赤ん坊の側に屈んで、無垢な寝顔を見る。
「リュシエンヌさん、この子を見てどう思いますか?」
「ど、どう……とは……?」
まだ頭の中の整理が付かないのか、お嬢様の反応は鈍い。
だが、それでいい。今は一時的に麻薬が切れ、その意識はリセットされて真っ新なはずだ。このまま放っておけば、やがて適当な言い訳をこねくり回し、慣れ親しんだ思想を再びキメるようになるだろう。
その前に、それが如何に危険な行為か教えてやらねばならない。
「この子はエステル。まだ生まれて二節ほどの赤ちゃんです。無知で、無力で、自分では何もできない存在ですが、貴族だろうと奴隷だろうと誰だって最初はこうで、人はみんなここから大きくなっていきます。そうですよね?」
「それは……ええ、もちろん」
「人はみんな、最初はありのままの現実をそのまま受け入れます。自分が無知であることすら知らず、与えられるものをただ貪欲に己の糧にしていきます」
俺は焦らず、ゆっくりとした口調で語っていく。それはリュシエンヌにしっかりと言葉の意味を咀嚼させるためでもあるが、ルティやサラはもちろん、ニーナとラスティにも理解してほしいからだ。子供には少し難しい話かもしれないしね。
「そうして大きくなっていき、やがて選り好みをするようになります。自分の好きなもの嫌いなものができて、ものの良し悪しが分かるようになり、善悪の区別がつくようになります。もし選べるなら、嫌いなもの、悪いものを己の糧にしたいと思いますか?」
「そんなの、思いませんわ」
「そうですね。誰だって嫌いなもの、悪いものは避けたいです。では、どうしてそれが嫌いだと、悪いものだと思うのか、説明できますか? 例えば、リュシエンヌさんは獣人のことを下等種だと思っているようですけど、どうしてそう思うんですか?」
「それは…………みんなそう言っていますし、現に獣人は学も品もない人が多いですわ」
リュシエンヌは少し考えた素振りを見せた後、そう答えた。それはほぼ予想通りと言って良い主張で、やはりこの子の視界は濁りきっていると言わざるを得ない。
俺は内心で溜息を吐きつつ、微笑みながら応じる。
「みんな言っていて、学がなく、品がない人ほど、下等ですか。では私にとって、リュシエンヌさんは下等ということになりますが、異論はありますか?」
「わ……わたくしは、ソールズベリー家の魔女です! いくらローズ様でも下等呼ばわりされるのは我慢なりませんわ! そもそも学はともかく、わたくしの上品な振る舞いのどこがローズ様に劣っていると!?」
ふと我に返ったかのように、威勢良く反論してきた。
俺は冷静を心掛け、感情をコントロールした上で、怒気を込めて言い放つ。
「人の家族を下等だと侮辱する馬鹿ガキのどこに品があるってんだ?」
場が凍り付いた。
みんな俺が態度を急変させたことに驚き惑っている様子だが、俺は構わずリュシエンヌの目を真っ直ぐ見つめて言葉を続ける。
「べつにさ、誰がどんな思想のもとで何を考えようと、その人の自由だと思うよ。でもお前、リーゼがどんな子かろくに知りもしないくせに、獣人ってだけで馬鹿だの下等だの愚劣だのボロクソ言ってたよな?」
「そ、それは、だって……」
「だってもクソもねえんだよ。こっちは大事な家族を不当に貶されて怒り心頭だぞ」
気圧されたように困惑する幼女を見ていると心が痛むが、ここで甘い顔を見せちゃいけない。どんな立場だろうと、安易に人を嘲弄することにはリスクがあるのだと教えて、心のみならず頭でも理解させないといけない。
「獣人だから下等だ、貴族だから上品だ、魔女だから当然だとか、お前自分の頭で何も考えてないだろ。相手のことをちゃんと見ようとしないで、誰かに教えられたことを盲目的に信じてるだけじゃねえか。そんなの生後二節のエステル以下だぞ。分かってんのかおい?」
九歳児に対しては酷な物言いかもしれない。
しかし、それでもお互いのために言ってやらねばならない。
リュシエンヌは俺からの視線に堪えかねるように目を逸らし、再び赤ちゃんを見た。依然としてすやすやと眠るエステルの有り様は無垢そのものだ。
「お前が嫌いだと思ってるもの、悪いと思ってるものは、本当に自分で考えて納得した上で、そう思ってんのか? 獣人ってだけで会ったばかりの人を見下すその態度が、正しいものだと思ってるのか? お前を助けようと血塗れになってまで頑張った護衛を足蹴にするのが、上品な振る舞いだと本気で思ってるのか?」
「わ、わた、わたくしは――」
「もしそうだとしたら、俺はお前を軽蔑する。貴族だろうと何だろうと、礼を尽くしてやる価値もない」
何か言い掛けたリュシエンヌに構わず、冷たい声で静かに告げてやると、押し黙った。お嬢様は顔を俯けて、俺のみならずサラたちの顔も見ようとせず――見ることができず、ただエステルに視線を落として固まっている。
「少しは自分の頭で考えて、偏見を持たずに人と向き合ってみろ。お前だって赤ん坊の頃は、種族とか魔法力とか学力品性で人を差別してなかったはずだ。差別する人たちに育てられたから、お前も差別するのが当たり前になっただけなんだよ」
「……………………」
「その当たり前が、人として本当に正しいことなのかどうか、よく考えてみろ。少なくとも俺は、魔女であろうとなかろうと、獣人だろうと翼人だろうと、貴族だろうと奴隷だろうと、それだけで人を見下すようなことはしない。大事なのは生まれ持った外見や才能じゃなく、心の在り方だ」
なんかオッサン臭く偉そうに説教垂れちゃってるけど、俺もまだまだ未熟だから、自分の理想を語っている部分はある。それでも俺は自分が正しいと信じることを伝えたい。
「人より勉強ができなくても、魔法力が高くなくても、上品じゃなくても、綺麗じゃなくても、べつにいいんだよ。他者を尊重できて、誰かを思い遣れる心があるなら、それだけでその人は立派だと思う」
俺は静まり返った空気の中で、しばしリュシエンヌの横顔を見つめた後、立ち上がった。
言うべきことは言ってやったので、後は本人次第だ。しばらく一人でゆっくり考えさせてやった方がいいだろう。それで何も変わらなければ、俺はこの子を本当に軽蔑するし、今後礼を尽くしてやることもない。
「……ローズ」
一人この場をあとにしようと歩き出した直後、名を呼ばれたことで、リーゼがメルと共に立ち尽くしてこちらを見ていることに気付いた。今し方の話が聞こえていたのだろう。他にもクレアやベルも俺を無言で見ていた。
「リーゼ、彼女に対しては色々と思うところがあるかもしれませんが、私が代わりに色々と言っておいたので、これ以上はもう勘弁してあげてください」
リーゼはにぱっと笑みを浮かべて近付いてくると、俺の左腕にぶらさがるように抱き付いてきた。
「うん、もういい。なんかもー、どーでもよくなった! でも、ルシエンヌがちゃんと反省して謝ってきたら、あたしもバカって言ったこととか反省して、ちゃんと謝る」
「そうですね。そのときは私も、彼女に馬鹿とか言ったりしたことを謝ります」
「うんっ、それで仲直りで友達だー!」
リーゼは大きな声で明るく宣言した。それはリュシエンヌの耳にも、さっぱりとした嫌味のない言葉に聞こえたことだろう。嘘偽りのない本心だと、伝わったはずだ。
根は悪くない子だと思うので、友達になれることを期待しよう。
♀ ♀ ♀
とりあえず移動することになった。
ゼフィラによれば取り逃がした敵はいないようなので、ここであったことは俺たち以外に知る者はいなくなった。しかし、ここではないどこかに敵の一味がいる可能性は高いはずだ。もし先ほど殺した連中が仲間たちと合流する予定だった場合、一向に現れないことを訝しんでこの場に様子を見に来ないとも限らない。
だから、とにかく今は早急に現場を離脱することが重要だ……ということを大人たちが話しているのを俺は端から聞いていた。もうこれ以上、幼女は積極的に口出ししない方がいいだろう。クレアたちにとって、俺は守るべき存在なのだ。彼女らのためにも、必要に迫られない限りは大人しくしておこう。特に今は殺しまくった後だから、大人たちはみんなローズちゃんの精神状態を心配してくれているからね。
「悪者の見張りはあたしたちの仕事だ! アシュリンもちゃんとやるんだぞー!」
「ピュェン!」
生け捕りにしたオッサンを敵船から回収してきて、帆柱の根元に縛り付けると、リーゼがペット一号に発破を掛けていた。主と同じく返事だけは一丁前だ。
敵船はどうすべきか議論されていたが、結局そのままの状態で残していくことになった。トレイシーやミリアが船内を軽く物色したようだが、敵の素性に関する情報は特になかったらしい。その辺は向こうもプロってことなんだろう。
そもそもあの船は『当家が誘拐犯役の海賊船として用意していたもの』とノーラが言っていたので、あれは侯爵家に縁ある船のはずだ。どうせ後で侯爵家の関係者が回収するだろう。その前に敵の仲間があの船を発見したとしても、そこに俺たちが関わったと特定できる痕跡は何もない。放置していくのが無難だった。
「ノーラさんが目覚めました」
出航後、普段より遅い昼食を摂って間もなく。
イヴの知らせを受けて、俺たちはぞろぞろと船内の一室に向かった。リュシエンヌも一緒だが、誰とも目を合わせようとせず、先ほどまでの覇気もない。
「お嬢様、ご無事で何よりです」
翼人護衛の姉ちゃんはベッドに横たわったままお嬢様の姿を見て、心底から安堵した笑みを浮かべている。彼女に外傷はないものの、俺が念のためにと無力化した際に〈霊衝圧〉を行使したため、まだ身体的には不自由らしく、ベッドに横たわったままだ。
そんなノーラに対し、リュシエンヌはどこか気まずそうに身じろぎして、頷いた。
「ええ……大丈夫よ。そういうノーラも、無事のようね」
「え……あ、はい。自分は何も問題ありません。この度はこのようなことになり、誠に申し訳ありませんでした」
「……………………」
リュシエンヌは無言だが、そこにノーラを責め立てる気配はなく、ただ俯きがちに立ち尽くしている。ノーラはその様子を複雑な面持ちで見つめていた。お嬢様が大人しいのは誘拐されて怖い目に遭ったからだと思っているのだろう。
やがてお嬢様が逃げ出すように船室から一人出て行くと、ノーラは気を取り直すように軽く咳払いをして、クレアに目を向けた。
「この度はお嬢様をお助けくださり、誠にありがとうございます。また、我々の事情に巻き込んでしまったこと、深くお詫びいたします。申し訳ありませんでした」
「やむを得ない状況だったことですし、私たちも全員無事ですから、巻き込まれたことについてとやかく言うつもりはありません」
クレアはそう応じてから、ノーラが気を失っている間のことを簡単に説明した。尚、俺がお嬢様に色々言った件は省かれた。
「そういうわけですから、ひとまず貴女方をティムアイ島まで送ります。侯爵家の方とはそこから連絡を取ってもらいたいと考えていますが、可能ですか?」
ビジネスライクな様子のクレアに対し、ノーラは少し考える素振りを見せた後、軽く顎を引いた。
「そうですね……大丈夫だと思います。ローラン様たちが滞在されているヴィアーティ島はティムアイ島から船で半日も掛かりませんから、自分が飛んで行きます。その間、お嬢様をお預かりして頂いてもよろしいでしょうか?」
「もし貴女が戻らなかった場合は、クアドヌーン王国まで送り届けてほしいと?」
「申し訳ありませんが、そのときはそのようにお願いできますか。ローラン様はこの辺り一帯を治めるミネアルト伯爵と知己ですから、自分が無事戻れるような状況であれば、安心して頼れるのですが……まだ此度の件については不明な点が多いですから、もし自分がヴィアーティ島から戻れないような危機的状況に陥った場合でも、彼の伯爵を信頼して良いものかは……自分では判断できません」
今回、お嬢様が誘拐されたわけだが、問題がそれだけとは限らない。件の侯爵様が滞在しているヴィアーティ島が襲撃されている可能性だってあるのだ。その確認をしないうちに、リュシエンヌを直接ヴィアーティ島に送り届けるのは不用心と言わざるを得ない。
それに今回の件で侯爵家内部に裏切り者がいることは確かなはずだ。それが誰かを特定しないうちに俺たちが姿を見せて、お嬢様を救出した旨を伝えてしまうと、未確認の敵勢力に俺たちの存在を知られてしまう。もし仮に敵がバシーケイ多種族国とやらで、俺が殺した中にイレイン・ノースとかいう元筆頭宮廷魔法士の魔女が本当にいた場合、危険視され恨まれるのは確実だ。
あるいはここら一帯の領主が、今回の件に一枚噛んでいないとも言い切れない。それは最悪の状況といえるだろう。ノーラがヴィアーティ島から無事戻って来られなければ、領主ほどの大物が関与している可能性を無視できなくなる。
二人の遣り取りを聞く限り、クレアもノーラもその辺りのことは分かっているようだ……などと思いながら様子見に徹していると、ふとノーラの視線がちらりと俺に向けられた。
「察するに、皆様は《黎明の調べ》に縁ある方たちではありませんか? クアドヌーン王国は環ベイレーン同盟に加盟し、ソールズベリー家もかの組織には少なからぬ援助をしております。どうかご協力頂けませんか?」
「私たちはシティールに向かっている途中ですから、もしそのときはリュシエンヌさんを《黎明の調べ》に預けることになりますが、それでよろしければ」
「はい。十分です。よろしくお願いいたします」
この姉ちゃん、侯爵令孫にして王子様の婚約者の護衛だけあって、有能なのが伝わってくるな。《黎明の調べ》だと察したことは未だしも、今思い返せば出会ったときからの言動はお嬢様と侯爵家に利することを第一とし、俺たちのことや自身の安全は常に二の次だった。
仮にヴィアーティ島に敵がいて、ノーラが捕まって尋問されても、この人は死んでもお嬢様の居所や俺たちのことは吐かないだろう。もちろん絶対ではないので、俺たちもまだ気は抜けないけど、侯爵家が将来有望な魔女の護衛にするような人だ。能力や忠誠心の高さは折り紙付きだろう。
「海賊に一度も絡まれずここまで来れたと思ったら、ただ海賊に襲われるより面倒なことになっちゃったわね」
ひとまず話し合いがお開きになって解散していく中、セイディが苦笑交じりにぼやくと、クレアが気遣うように美天使の肩に触れた。
「そう悪いことばかりでもないわ。私たちは《黎明の調べ》の一員とは言っても、シティールに縁故はほとんどないから、侯爵家と繋がりが持てれば今後の助けになるかもしれない」
「あ、そいえばアタシらって立場としては微妙な感じかもってことでしたね。例のマリリン様の孫ってのがお祖母ちゃん似だったら、先行きに不安を覚えることもなかったでしょうに……」
「リュシエンヌちゃんを助けられたことは、間違いなく《黎明の調べ》として価値ある成果よ。私たちがシティールで足場を固める一助にな――」
不意に、クレアが話しながら後ろを振り返ったことで、その声が途切れた。セイディも釣られて俺を見ると、『あ、やべ』みたいな顔して立ち止まる。
「ロ、ローズ、いたのね。気付かなかったわ」
「アンタ出航してからやけに静かだけど、大丈夫? 色々あったし辛いならアタシの胸に飛び込んで来てもいいのよ?」
うーん、どうせ飛び込むなら俺は隣のたわわなお胸の方がいいかなぁ。
「私たちって《黎明の調べ》では立場微妙なんですか?」
「いや、あー……子供はそういうの心配しなくていいから。立場ってのは大人の魔女としてのアレコレだから、子供は大丈夫だから!」
「そうね。それにローズが頑張ってくれたから、そのことについてはもう私たちも心配せずに済みそうなの。ありがとうね、ローズ。もう無茶はしてほしくないけれど、今回はローズのおかげでリュシエンヌちゃんも私たちも助かったわ」
子供に追及されたくないことなのか、二人とも誤魔化そうとする気満々の勢いで喋ってくる。
気になるけど、ひとまず今はこれ以上問いを重ねない方が良さそうだ。
「そうですか。クレアたちの役に立てたなら良かったです」
「そうそう、ローズはもう十分すぎるくらいみんなの役に立ってるから、これ以上頑張らなくていいんだからね」
セイディは畳み掛けるように言いながら、俺を抱っこしてきた。
抱っこならクレアの方がいいんだけど……まあ、たまにはいいか。ちょっと哀愁を誘われるけど、この煎餅布団みたいな感触も、これはこれで悪くないさ。
「ていうか、それよりアンタ、オルガの姐さんみたいになりたいの?」
「え? どうしたんですか急に」
「だってローズ、リュシエンヌちゃんに色々言っていたとき、オルガさんみたいな話し方していたでしょう?」
べつに姐御の真似したつもりはないけど、そう勘違いしてくれるなら好都合だ。俺ももう九歳だからな。今後、第二次性徴が始まったりしたら、身体がどんどん女になっていき、俺の精神もどんどん女々しくなっていく可能性が高い。
だから、たまに人前で男っぽく喋っていれば、男らしさを保持できるかもしれない。クレアやリーゼたちがその度に違和感を持たず受け入れてくれるなら、それに越したことはない。
それ以前の問題として、先ほど俺が男っぽく話したのは、殺しまくって情緒不安定になっているからだと二人は心配しているのかもしれない。これが一時的なものではなく、実はオルガに憧れているからだってことにしておけば、余計な心配を掛けずに済むだろう。
「オルガさん、格好良いですから、実は少し憧れてるんです。さっきはリュシエンヌさんにリーゼが馬鹿にされて私も頭にきたので、びしっと言ってやる勇気が欲しくて、オルガさんの真似をしてみたんです」
「にしてはめっちゃ堂に入っててびっくりしちゃったわよ。アンタ女優の才能あるわね」
「オルガさんは立派な人だし、あの人の真似をするなとは言わないけれど、あまり乱暴な言葉遣いにはならないようにね」
「分かりました。たまにオルガさんの真似して格好付けたりするかもしれませんが、乱暴にはならないように気を付けます」
よし。これで今後うっかり『俺』って言っちゃっても、クレアたち身内にはいちいち突っ込まれないだろう。基本的に対外的な一人称は『私』でいくけど、俺にとってそれは女性の一人称ではなく、大人としての一人称であり、丁寧語の一部だ。敵とかクズ野郎に対して敬語で話していると、いまいち戦意が湧かないから、その手の連中に対しては素でいきたい。
「にしても、ローズも結構重くなったわねー。昔はもっと余裕で抱っこできたんだけど」
セイディは重さを確かめるように俺を抱え直して、しみじみと呟いてる。
俺は大人しく抱っこされたまま、しばらく美女の感触を味わった。
♀ ♀ ♀
翌日、予定通り昼頃にティムアイ島に到着した。
思っていたよりも大きな島で、少なくとも海上から、島の端から端が見渡せるような規模ではない。島内には一つだけ大きな山があり、富士山みたいに綺麗な形をしている。島ということもあって、前世の桜島をスケールアップした感じに近いだろうか。そう考えると、あれ活火山じゃないか心配になってくるな……。
俺たちは島一番の都らしいフォーリスという大きな港町に船を泊めると、ユーハとミリアとイヴ、ライムとツィーリエを船に残して、ぞろぞろと宿に向かった。生け捕りにした敵のオッサンを尋問しないといけないので、船にはある程度の戦力を残していく。
「それでは行って参ります。自分が明後日いっぱいまで戻らなければ、直ちに出港してください。皆様、リュシエンヌ様のことをよろしくお願いいたします」
ノーラは俺たちがどこの宿に泊まるのかを確認すると、例のヴィアーティ島とやらに飛び立っていった。持ち物は元から所持していた剣と、リーゼが携帯食として上げた干し肉くらいだ。
「じゃ、アタシとソーニャちゃんは買い出しに行ってくるわねぇ」
「それじゃーあたしたちもフォーリス探検に行こー!」
宿泊先である高級宿の前でベルとソーニャと別れると、俺たちはリーゼの有り余った元気に背を押されるようにして、街の散策に繰り出した。メンバーはサラとリュシエンヌ以外の子供たち、そしてクレアとセイディとトレイシーだ。サラとメルはエステルの面倒を見るために、ゼフィラは宿の上等なベッドで一人のんびり酒を飲みたいらしく、お嬢様はまだ無闇に街を出歩かない方がいいという事情以前に俺やリーゼと一緒には居づらいのか、待機組として宿に残った。
リュシエンヌは昨日から誰とも目を合わせようとしない。大人たちはたまに話し掛けて様子を窺っていたが、子供たちは誰も声を掛けていなかった。俺が彼女にああ言った手前、みんなお嬢様が謝ってくるまで歩み寄る姿勢は見せないようだ。ニーナに至っては昨日からぷりぷりと可愛らしく怒っており、昨晩二人で一緒に寝たときなどは、
『助けてもらっておいてあんな態度は人として最低なのです! クアドヌーン王国貴族の程度の低さが知れるというものなのです! 獣人でも差別せず接してくれたユスティ様に比べればウンコみたいな奴なのですっ!』
などと不満を口にしていた。俺がお嬢様に怒りを露わにしたことで、遠慮する必要はないとでも思ったのだろう。あの子は感情が高ぶると口汚くなっていけないね。
「リュシエンヌが着てたような服がいっぱい売ってる」
「あ、水着ですね」
商店が建ち並ぶ大通りをみんなで歩いていると、水着を扱う服屋があり、ルティが物珍しげに見つめている。看板にはパンネル水着店とあるので、専門店かもしれない。通りに面した壁の一階部分がガラス張りになっていて、お洒落な女性用水着を着たマネキンが通行人たちにその艶姿を見せ付けている。こういうショーウィンドウのある店は大きな街ならそう珍しくもないけど、水着の専門店は初めて見た。
ここフォーリスは規模でこそ魔大陸の港町には劣るが、その発展度というか文明度では一歩も二歩も先を行っている。通りはどこもしっかりと石畳で舗装され、建物はどれも小綺麗で、明確な都市計画の意図が感じられる区画の整理具合に加え、建築様式どころか屋根の色まで統一されているのだ。海上から見渡す白く整然とした街並みは眩いほどの美しさがあった。フォーリスが美観にこだわっているのは間違いなく、それが可能なほど豊かなのは街の活気ある様子からも明らかだ。
「サンメラ海はとても綺麗で安全に泳げる数少ない地域の一つだから、海水浴に来る人が多いらしいわ。それだけ水着が売れるんでしょうね」
「こういう珍しい専門店もそうだけど、この綺麗な街並み見てれば、貴族とか商人とかの金持ち連中に保養地として人気ってのがよく分かるわ。お偉いさん方が多く来るなら、それだけ金も落ちるし、国の方も治安維持に力入れるわけよ」
子供たちのためにか、クレアとセイディが感想めいた説明を口にしている。リーゼは興味なさげに周りをきょろきょろと見回し、ルティは水着をぼーっと眺め、ウェインはもっともらしく頷いている。
「ルティちゃん、水着欲しいのぉ?」
「着てみたいけど、泳がないなら、べつにいらない」
トレイシーの問いに答えるルティに遠慮している様子はない。この子は良くも悪くも素直だし、物分かりもいいから、大人からすれば扱いやすい幼女だろう。
「残念だけれど、今のところ泳ぐ予定はないわね」
「でもお姉様、例の誘拐犯と侯爵家の事情次第では、まだ分からないですよね」
「うーん、どうかなぁ。安全第一に考えるなら、どんな状況でもサンメラ海からは早く離れた方が良さそうだけどぉ」
大人たちが悩ましげな顔で話し合っていると、水着店から上品そうなおばさんが出てきた。
「何かお気に召すものがございましたか?」
「あ、いえ、少し見ていただけですので」
店先でたむろっていたため、勘違いされたらしい。
俺たちはいそいそと散策を再開した。
適当に街並みを見ながら歩いていると、旨そうな匂いのする露店があった。おばちゃんが「名物ボーダーン巻きのヴィヴェー油揚げだよー」とか言って集客している。
「アレだ! アレ食べる! 絶対おいしーって匂いで分かるっ!」
リーゼが猛プッシュしたので、昼食として五つ購入し、二人一組になって半分ずつ食べた。今は九人なのでリーゼだけ丸ごと一本だ。
ボーダーン巻きとやらはサイコロ状に切られた何種類かの野菜と肉を何かの生地で細長く包み込み、ヴィヴェー油とやらで揚げたもので、春巻きに近い何かだった。でも春巻きよりも一回り太く長く、生地がやけにもっちりしていて、具材に果物も入っているのか甘酸っぱく、味も匂いも食欲をそそる。ヴィヴェー油ってのは初めて聞いたけど、たぶんその油がいい感じの風味を出しているのだろう。
今日は久々の陸なので昼食は控えめにして、夕食をたくさん食べる算段だったが、旨かったので宿の待機組の分も含めて人数分をお土産として追加購入し、少し早いが宿に戻ることになった。
宿はローレルのときのように高級なところを選んだ。それはリュシエンヌお嬢様のためでもあるが、俺たち自身のためでもある。船上での長旅は何かと不自由が多く、自覚できる以上のストレスが溜まりがちなので、久々の陸では多少贅沢しても良いだろうということになったのだ。
……というのはもっともらしい理由で、実際はローレルの高級ホテルが思いのほか快適で、あれを味わっちゃうと、そこらの宿では何かと不満を覚えちゃいそうだったんだよね。もう船旅は終盤に差し掛かってるけど、まだ続くのだから陸でもストレスを溜めたくない。少なくともクレアやセイディはそう思っているはずだ。
一度贅沢を覚えちゃうとダメだね。
「ただいまーっ!」
宿では何部屋か押さえてあるが、とりあえずサラとメルとエステルがいる八人用の大部屋に帰り着く。最近リーゼはエステルの前では静かにするようになっていたのに、今は失念していたのか、ドアを開けると無駄に大きな声を響かせた。
「申し訳ありませんでした」
ドアの正面、少し離れたところで、ぎらついた金髪頭が低い位置にあった。低いといっても、直立状態で腰を四十五度くらい折った高さだ。
「リゼットさん、昨日は無礼な態度を取ってしまったこと、お詫びいたします」
「――――」
突然のことにみんな驚いていて、リュシエンヌが頭を下げる姿を声もなく見つめてしまう。
「ローズ様の仰る通りです。わたくしは自分で何も考えていませんでした。いえ、考えようとしなかったのです。お父様やお母様、お兄様たちが獣人や翼人の方たちを嘲り蔑むのを見て、それが当然なのだと思う一方で、お祖父様はそんな酷いことをされていないことにも気付いていました」
昨日と違って声には張りがなく、威勢がない。プライドに凝り固まった高慢さがなかった。年相応の幼女らしいか弱さと、申し訳のなさが、声のみならず全身から感じられた。
「お祖父様は事あるごとに、たとえ誰が相手でも理不尽な暴言を吐いてはいけないと、嘲笑してはいけないと、教えてくださっていたのに……わたくしは、何が正しくて、何が間違っているのか、考えたくなかったのです。お父様が間違っていると思いたくなかったのです。お母様を嫌いになりたくなかったのです。お兄様を尊敬していたかったのです。わたくしだけ違うことをして叱られたくなかったのです」
今にも泣き出しそうな声で一方的に告げられる。
ただ、俺はあまりに突然の告白に戸惑い、いまいちお嬢様の言葉が心に響かない。いや、彼女の謝罪には誠意が感じられるし、その発言も本心からのものだとは思うんだけど、想像以上にシリアスな謝罪に心が追い付いてこない。
みんなはどういう反応してるのか気になり、軽く見回してみると、やはりまだ驚きから脱していなかったり、戸惑いを感じている様子だ。セイディなどは意外感丸出しの顔をしている。
まあでも、そりゃそうだよ。謝ってほしいなとは思ってたけど、まさかこんな真剣に反省して素直に頭下げてくるなんて、昨日の様子からは想像できないもん。
あ、いや待て、メルとサラは驚いてないな。部屋の奥にある椅子に座って様子を見守っている二人の表情は穏やかで、リュシエンヌに向ける眼差しは温かい。
「自分がそう思っていたことに、今まで気付いてすらいませんでした。メレディスさんと話して、指摘されなければ、きっと一生気付けず、気付こうともせずに、何も考えず誰かを見下す楽な生き方を続けていたと思います」
あぁ……そうか、そういうことか。
確かにメルなら、このお嬢様の心を解きほぐして、寄り添って、諭すことができるだろう。何せメルも昔は貴族令嬢に苛められていたそうだし、彼女は自分のこと以上に相手のことを考えられる人だ。どうして令嬢が自分を苛めるのか、その理由を考えなかったはずがない。
――家族が間違っていると思いたくないから。
――家族を嫌いになりたくないから。
――家族を尊敬したいから。
――家族に叱られたくないから。
そんなの古今東西貧富を問わず、家族に愛されている子供なら誰だってそうだろう。子供は家族を愛したいし、愛されたい。だから家族と同じような思想を持って同じような言動をする。成長して反抗期にでもなれば未だしも、まだ九歳の子供であれば、それが当然の反応だ。
「ローズ様、皆様、申し訳ありませんでした。皆様の家族に理不尽な暴言を吐いたこと、お詫びいたします」
う……そんな誠心誠意頭を下げられると罪悪感が……。
やっぱり昨日はちょっと言い過ぎたな。相手は九歳児なんだし、もっとお嬢様の事情を考慮してやるべきだった。俺もメルみたいに考えることができれば、もっと違う言い方で諭すことができただろう。
「いえ、頭を上げてください、リュシエンヌさん。昨日は私も言い過ぎました。馬鹿などと言ってしまって、申し訳ありませんでした」
「いいえ。ローズ様に叱って頂かなければ、わたくしはメレディスさんの言葉に聞く耳を持たなかったと思います。ですから謝らないでください」
頭を上げたお嬢様は少し照れ臭そうな様子ながらも、俺の目を正面から見つめてくる。
「むしろわたくしは感謝していますわ。ただわたくしを糾弾するだけでも良かったのに、わたくしに自分で考えろと言ってくださって、ありがとうございます」
うぅむ……この子は将来マジで大物になるかもしれん。
自分が間違っていたことを認めて謝罪するのは、なかなかに難しいことだ。プライドの高い人なら尚更だろう。しかし、リュシエンヌは人の言葉を聞き入れて、自分の考えや気持ちと向き合い、それを言語化できるほどに理解した上で、自らの過ちを認めた。思った以上に聡い子だ。
「あたしもバカとか言って、ごめんなさい」
リーゼもしっかりと頭を下げた。
だが、リュシエンヌは俺の謝罪を受けたときとは異なり、何やら気まずそうな顔をしている。リーゼに向ける眼差しには明らかな不安感が表れており、どこかそわそわと落ち着きのない様子だ。どう声を掛けていいのか迷っているように見えた。
「あ、えっと……わたくしから、先に失礼なことを言ってしまったわけですし……」
「じゃー、おあいこでいい?」
「え、ええ、もちろんですわ」
ま、お嬢様が緊張するのも当然か。
仲直りの瞬間って、気まずいもんな。ちゃんと許してくれるか不安だよな。リーゼには直接暴言を吐いて、リュシエンヌも感情的になって言い合った。そうでなくとも、相手はこれまで蔑んできた獣人だ。まだ貴族らしいプライドだってあるだろう。同じ種族かつ恩人で最初から好意的だった俺に対して謝罪し和解するのとは訳が違うはずだ。しかしそれは裏を返せば、それだけリュシエンヌがリーゼと和解したがって――友達になりたいと思っていることの証左だろう。
「じゃーもー友達だ! あたしのことはリーゼって呼んでもいーよっ!」
「あ……は、はい! よろしくお願いしますわ、リーゼさん!」
「これお土産っ、ボーダーン巻きのナントカ揚げ! みんなで一緒に食べよー! あ、ルシエンヌってなんか呼びにくいから、ルーシーって呼んでいい?」
「ええ、家族からも普段はルーシーと呼ばれていますし、もうわたくしたちはお友達ですものですものね。構いませんわ」
こういうとき、子供同士ってのはいいもんだな。喧嘩してもすぐに仲直りして、簡単に友達になっちゃう。これが大人同士だと、こうはいかない。
「……まあ、ウンコよりはマシになったのです」
ニーナがぼそりと呟いていたが、淑女らしからぬ単語は聞かなかったことにしよう。




