216.愚鈍で蒙昧な王太子
やはり来たか。
ルウリャに引き籠るクシュルを睨むこと、二ヵ月と少し。ルウリャに向けて進軍する、約二万の軍勢ありとの報告を受けた。
「ルウリャに導き入れろ。その軍隊の指揮官はアダットだ。奴がルウリャに入れば、戦争は終わる。」
正直同じ壁を見続けるのも飽きていたところである。何度か、アメリアの天馬騎兵隊に乗せてもらって一人で敵地に乗り込んでやろうかと思ったほどだった。
流石に立場があったうえ、この展開が読めていた以上出来なかったが。
槍を握る手に力がこもる。長かった。本当に、長かった。
ルウリャに来て一ヵ月は、まあまだだろうと思っていた。ルウリャからディアエドラまで、昼夜問わずに馬で駆ければ二週間かからぬ距離。往復で一ヵ月はかからない。
一ヵ月を超えた頃に、「伝令兵め、夜は休みやがったな?」と気づいて、さらに二週間。いつ来るかいつ来るかと、首を長くしてさらに一ヵ月。
アダットめ、怖気づいて逃げたか。
決着をつけるかわずかに迷い、しかしアグーリオがそれを許すまいと考え直し、待ち、待ちくたびれて……
「ついにこの時が来たか。」
「……何の、話です?」
マリアが寝ぼけ眼で寄ってくる。こういうところは少女らしくていい。寝起きだから反応が鈍いのか、それとも単純に何のことかわかっていないのか。
「戦いさ。」
「そりゃ、そうでしょうけれど……。」
センチメンタルがわからなかったらしい。まあそれに関しては何も言うまい。私個人の話である。
「バゼルを呼べ。フレイもだ。勝負は一瞬でつける。」
クシュルとの最後の戦術合戦である。両軍の被害総計を少なく勝つか、両軍の被害総計を多くして負けるか。
アダット=エドラ=アゲーラ=ペガサシアという愚者の投入。それによってもたらされる結果が、ペガシャール帝国向こう50年の未来を決める。
ルウリャへの道が綺麗に開かれていた。
こんなザルな方位なら、クシュルが抜け出せぬはずはないだろう。感情に任せて『名ばかり』とまで罵ったが、それでも奴は『護国の槍』だ。
その力が名ばかりなどではないことくらい、父に見限られて心が折れているアダットにはよくわかっている。
「愚弄、してくれる。」
いつもの調子で怒鳴ろうとした。その言葉が尻すぼみに消えていく。あれから二か月経っていない今でなお、アダットの気力は萎えたままであった。
そばで見つめるゲリュンが、寂しそうな顔でアダットを見た。彼はアダットと一番長い男だ、ここまで折れた王太子を見るのは初めてだろうし、……この先の展開を予想できる程度の才はある。からこその、苦悶だった。
構わずアダットが歩を進める。ペガシャール帝国派の将校は、誰一人としてそれに襲い掛かることはない。
「ゲリュン。」
「は。」
「なぜエルフィールは、この無力な軍勢を襲わない。俺の首を獲れば、戦は終わるのではないのか。」
「……。」
二ヵ月もあった。エルフィールとクシュルがルウリャにたどり着いて三ヵ月、アダットが父から実質上の死刑宣告を受けてから二ヵ月。
それだけあれば、アダットにも、父アグーリオが望む戦争の結末くらいでよければ予想できる。そして、それがエルフィールにとっても都合がいいということも。
「エルフィール様は、女性ですから。」
「……なるほど。」
ここでアダットを討ってしまえば、確かに戦争は終わるが……エルフィールは、正面から戦わなかった腰抜けと非難されかねない。
「違いますよ、アダット様。非難されるから戦わないのではない。正面から向き合って勝ったという事実が、彼女の女性という不利を埋め合わせる。」
それに、あなたがルウリャに入ること、ひいては討つべき、護るべき総大将が変わったという事実を伝える必要があるのですよ。そう続けられる言葉に、引き攣る頬を抑えつけてアダットは笑った。
「ゲリュン。」
「は。」
「俺はな。王座が転がり込んでくるのが当たり前だと思っていた。」
今、死ぬことだけはない。これほど敵地のど真ん中にいてなお、敵は遠巻きに己らを眺めるだけ、味方は迎えの兵すら寄越さない。
アダットが安全にルウリャ入りし、王座に焦がれて出兵し、エルフィールに討ち取られるまでが一連の流れだと、嫌でもわかる。
だから。己の役割は、愚鈍で蒙昧な王太子であることをわかっているから、最後の最後で、彼は吐露する。
王太子に戻るために、アダット派のトップであるために、ただ一介のアダットでいられる最後の機会が今だと悟って。
「『神定遊戯』最後に生き残っていた王が死に、200年。200年もの長きにわたって、神はこの地に降りることなく時間が過ぎ、しかし神が降臨されることを千年以上も見続けた我ら人が神に縋って200年。」
人類の歴史は。ペガシャール王国の歴史は。常に『神定遊戯』と共に在った。
国体も、文化も、政治も、哲学も。人が生きていくための知恵と工夫も。
ありとあらゆる、あまねくすべては、『神』の実在と恩恵が前提で成り立った世界に、神が顕れなくなって、200年。
「俺は、嗤っていたよ。神に縋り、神が降りた後のことを考えて今を生きない農夫どもを。神が降りれば世界は富むのだからと、王太子の放蕩を赦し続けた貴族どもを。」
そうだ。アダットの豪遊が許されつづけていたのは、国庫が減ろうが対処しようとすらされなかったのは、『神定遊戯』が訪れ大地に豊穣が訪れれば、必ず潤沢な富が確約されていたからだ。
賄賂が横行したのは、潤沢な財があった頃の生活から水準を変えることが出来なかったからだ。盗賊が横行したのは、民の生活が苦しくなれば他者から奪い合うという人の性質を忘れていたからだ。
ペガシャールに限らない。ドラゴ―ニャとヒュデミクシアを除く全ての国は、どこもかしこも似たようなものだった。
もちろん、自領に限れば対処できたそこそこに使える一族だっていた。だが、ひどい話だ。
神の恩恵を最も強く受け、神の恩恵で立場を維持する二つの家が、最もひどく、醜く堕落した。
「いいじゃないか。どうせ、次代の王は俺になるのだ。いいじゃないか、もう200年も『神定遊戯』など起きなかったのだ、俺がどれだけ無能だろうが、神は我らを救いやしない。」
無能だろうが王座につける。『神定遊戯』が起きていない間の玉座など、所詮繋ぎの席に過ぎないのだ。
本当の王とは、『神定遊戯』によって『王像』に選ばれた『王像の王』のみ。それ以外の王など、王という名の玉座に座る飾りに過ぎない。
「なのに、今だったか。」
『神定遊戯』さえ起きれば、己に匹敵する才角の持ち主などいないと、努力せずとも天才であったレッドと違う。『神定遊戯』さえ起きれば『王像の王』に選ばれると信じて疑わなかったレッドとは、違う。
ましてや。『神定遊戯』が起きた時に備え、必死に生き延び、必死に戦い、必死に学び、必死に人と繋がり続けた。凡才を装い、実際凡な才能しか持たないながら、王器と努力だけで『王像の王』の座を掴み取ったアシャトなどとは、到底比較にならない。
「俺は、『神定遊戯』さえ起きなければ、必ず王になれた男だ。……『神定遊戯』が起きるまで、『王像の王』が選ばれるまで、玉座を温め続ける役割を持っていた男だ。」
今、レッドは派手にデファール=ネプナス相手に戦っているのだろうか、と聞いた。デファールが暴れさせないでしょうとゲリュンは答える。
「かもな。それでも奴は、ペガシャールきっての名将に、正面から突っかかっていけるだけの才能がある。」
碌に軍学など学んでいないはずなのにな、というアダットの言葉は、負け惜しみの様でいて、真実だ。
あのレッド=エドラ=ラビット=ペガサシアという男は、才能だけで生きてきた。アダットが10年努力してようやく届くかという領地にひと月遊ぶだけで届くような才覚を、レッド自身は保持していた。
それに胡坐をかき寝ていたから、アシャトに『王像の王』の座を掻っ攫われたのだが……ゆえに、『神定遊戯』が起きれば、逆立ちしたって己が選ばれないことくらい、10代になるころには悟っていた。
「敵はエルフィール=エドラ=ケンタウロス=ペガサシア。女だてらに武の心得を持ち、あのレッドを凌ぐ才覚を持ち、しかし女であるゆえに絶対に『王像の王』に選ばれる可能性がなかった公女。」
帝国を目指すという大それた夢を叶えることが出来るほどの才覚を有しておきながら、アシャトに託さなければ目指すことすら出来ない大天才。『妃』という名の翼を得た彼女を相手に、王の繋ぎにすらなれなかった凡才以下の王太子が挑むのだ。
「ゲリュン。俺は、『神定遊戯』なんて起きるなと思っていた。起きなければ、俺は王座に座れる。『神定遊戯』さえ起きれば『王像の王』になれると謳われたレッドを見下せると、その才能を発揮する場すら得られなかったエルフィールを嗤えると、そうなってほしいと願っていた。」
違う、とゲリュンは首を振る。そうではない。そうではないのだ。
『神定遊戯』という儀式に、神の実在と威容に従うペガシャールで、才無き王族だったアダットが望めることは、それだけだったのだ。それ以外、彼には出来ることがなかったのだ。
なぜならば。アダットが王たるために研鑽する20年の年月と成果は、レッドが1年満たずに超えられる程度のものにしかなり得ないのだから。
そんなこと。そばで見守り、豪遊を放置し、だけでなくその後ろで補助、しりぬぐいの全てをこなし続けていたゲリュンが知らぬはずがない。アダットは呆れるほどに無能である。言葉にできないほどに凡才である。
努力の無意味さを知っていた。王座のむなしさを知っていた。
齢30が近づき、『王像の王』に選ばれる可能性がなくなった父アグーリオが、ほぼすべてに等しい貴族たちから無視されるのをその目で見てきた。
己は『王像の王』が降臨するまでの繋ぎに過ぎず、万が一『神定遊戯』が始まれば己が選ばれることは決してない。
「今だった、か。」
プルプルと手が震えるのを見た。腰に差された、彼にとってはもはや意味のない『継承の剣』がともに震える。
既に『神定遊戯』が始まり、アシャトが王に選ばれた以上、もはや息子に継がせることすらできない剣だった。それでも、それだけが、アダットを一人の『王像の王』候補として証明しうるものだった。
「ゲリュン。」
「は。」
「なぜ俺は、この時代に生まれたんだろうなぁ。」
アダットは今25歳。物心ついてから23年、そのすべてを『王像の王』に選ばれるために努力し、今よりましな性格になったとしても、アダットは才能頼りのレッドの足元を掴む程度の能力しか持ちえなかった。エルフィールなど、その背を見ることしか出来なかった。
才能とは、そういうものだ。
努力で近づくことは出来る。努力をしない天才が相手であれば、迫ることも追い抜くことも出来たかもしれない。
だが、アダットには、レッドに迫ることができるほどの才能もなかった。凡才も凡才。努力で天才に追いつくには、努力次第で追いつける程度の才能は必要なのだ。
「……。」
何も言えない。彼の苦しみを知っていながら、同時に救いようがないこともゲリュンは承知している。
彼があの苦しみから抜け出すためには、おそらく王家から離れる必要があり……ペディット=クジャタ伯爵家の当主たるゲリュンには、それを勧められるほど安い身分ではなかった。
黙り込み俯くゲリュンを一瞥。そのまま、彼は一歩踏み出す。
「お前は、やることがあるだろう。父上のことだ。俺が死んだ後のことを考えているに違いない。その時、お前を使うつもりでいると思う。」
父はゲリュンを連れて行けとは言わなかった。連れて行くなとも言わなかったが、ゲリュンがクジャタ伯爵家軍を連れてきていない時点で、ゲリュンが戻ることを予想できている。
「あるいは、お前も切られたか?」
「……。」
ない。ゲリュンは、20年近くにわたるアダットの豪遊資金を調達できる程度には有能な男だ。何を考えているかまでは知らないが、ゲリュンを殺すような真似を、父はしない。
「帰れ。俺は、お前に死に顔を見られたくはない。」
もう一歩、踏み出す。主の進行に付き合うように、アグーリオがよこしたアダットの軍勢が歩き出す。
遠目で見ていたエルフィールは、その二万が精鋭であることを見抜いた。普通に戦えば、『像』たちの軍勢でさえ、互角に相争えるだろうと。
ルウリャから見下ろしていたクシュルは、ほんのわずかに目を細めた。ただただ、強力な精鋭を寄越されたという事実が導く意味を、粛々と受け取って。
そしてゲリュンは、泣いた。
なぜこの軍が渡されたのか。なぜアダットがこの軍を率いることになったのか。それを深く理解したうえで、無視して。息子を案じて強力な部隊を用意した父の愛と誤解して。
もちろん。そんなことは彼はわからない。実は見放していた父が、それでも授与してくれた軍隊の心強さに、騙し騙しで立て直した心の添え木を見た気がした。
「全軍、進め!ルウリャに入る!」
当代にいるペガシャール『王像の王』候補たちの中で、最も選ばれる可能性の低い男。愚鈍で蒙昧な王太子殿下が、戦場に入った。




