211.未熟の先に
夜。エルフィールは、空が赤いのをボウっと見ていた。
『エンフィーロ』がやったらしい。上出来だと褒めるべきか、やりすぎだと窘めるべきか、いまいち判別がつかないなと思う。……いや、これはダメだな。叱責するべきだろう。
「本当にやるのですか?」
「不安か、マリア?」
同じ赤を見上げながら、少女が頷く。やはり、まだ発展途上の少女なのだ。あまりに天才過ぎて時たま忘れかける幼い姿が、とても愛らしい。
くしゃくしゃと頭を撫でながら、彼女は目を瞑る。
正直、あれほど派手に燃えたのだ。敵は意気消沈だろう。今、わざわざ攻める必要があるかと言われれば、戦争的観点からは、ない。戦略的観点からしてもまた、ない。
エルフィールの戦略目標は敵が軽被害の状態での勝利である。弩砲の使い手を失い、平穏無事の撤退方法を失ったアダット派の、逃げるような敗北は……目を瞑っても瞼の裏に浮かぶようでさえある。
「が、政治的には、な。未来のペガシャール帝国の国民の為には、確かにここで追い打ちをかけるべきではない。だが、それを貴族たちが理解できるかと言われると、話が別になる。」
勝利目前にして、攻めなかった女の総大将。これが男であれば間違いなく攻めていたはず。どれほど有能であっても、情で敵を見逃す程度にはエルフィールも女なのだ……。貴族たちの思考は、こうなる。
なぜなら、目の前に据え膳があるのだ。今攻めれば確実に勝てるような、非常に大きな据え膳が。食わねば恥だと、男たちは考える。
デファールが攻めなければ、きっと「考えがあるのだろう」に留まった。あるいは、貴族たちからの評価を下げることになったとしても、「女だから仕方がないか」という思考には絶対にならなかっただろう。
そこが、デファールとエルフィールの間に隔たる絶対的な差異だ。女は家を守るもの、という考えは、政治にも戦争にも持ち込まれている。……逆説的に言えば、こと「家を守る」という点においては、女は男より信用されている、という意味だが。総大将をしているエルフィには関係のない話である。
「ゆえに、俺は奴らの失望を買わぬために、攻めなければならない。だが、徒に被害を大きくするつもりもない。ムルクスめ、派手に燃やしやがって。」
敵に非常事態あり。それを悟った貴族たちの心意気たるや、いかほどか。
喜び勇んで戦果を挙げようと突っ込む姿が目に浮かぶようだ。最悪どころの話ではない。むしろ災厄である。
「頼むから、殺しすぎないでくれよ……!」
未来のことを思うならば。ここで殺すは、愚策であり。
ゆえにエルフィは、敵を殺さないために一計を案じなければならない。
殴り飛ばされた。『影の軍』が追ってきていない森の中で、ムルクスは盛大にぶん殴られていた。
「父上、何を!」
「愚か者だ、貴様は!『エンフィーロ』の仕事は静かなる密偵、王家の影だ!あれほど派手に敵の切り札を燃やすだと!存在を喧伝しているに等しいではないか!」
再び殴る。いくら何でも、『エンフィーロ』という、『神定遊戯』という存在と国王という名の輝きに隠れて生きてきた者たちにとって、どうやっても戦場に残る成果は悪手でしかない。
「前半!敵の連携を失うような攪乱は褒めてやる、アレは上出来だった!しかし、後半はなんだ、調子に乗りすぎだ、貴様がやるべきは他のことだった!」
弩砲の矢を失わせたこと。使い手を殺しつくしたこと。それは功績などではない。『エンフィーロ』という存在にとって明確な恥である。
「では、どうすればよかったと!」
「食事の最中に火に幻惑薬を入れ、屑玉をもって兵を一人だけ殺す。」
団欒をしている兵の塊であればなおいい。ムルクスの父……現『エンフィーロ』当主ヌント=アニマス=エンフィーロはそう断言する。
そのやり口で起きる結果を、ムルクスは頭の中で考慮する。幻惑薬。それは、人に幻を見せる薬であるが、効果そのものはそこまで強くない。
見せる幻は非常に単純。目の前で起きたことの、辻褄合わせである。
例えば、今言ったように。急に目の前で人が死ねば、それは何者かに殺されたに違いない、という判断から、その肉体に刃が刺さっているように見えるとか。
あるいは、急に病死したと思い込んで、己にもその病が感染したかもしれないと信じてしまうとか。そういった、軽い効果である。
が、そうなれば、少なくともスキン子爵家の陣は荒れる。
兵を殺した犯人探しか、病が蔓延しているという恐怖か。
いずれにせよ、兵士たちは眠れる夜を過ごすことになるだろう。精密操作が必要な弩砲という兵器を扱う兵士たちが、眠気を堪え、集中力を大きく欠いて戦場に立つことになるのである。
「あ。」
「『エンフィーロ』は大きな戦果を得てはならない。小さく、目に見えない、しかし影響を与える傷を蓄積させるのが仕事だ。」
その存在を把握しているのは、王を含めて一握りで十分だ。それ以上が存在に気づくこと、あるいは「気づく可能性があること」……それを、『エンフィーロ』は阻み続けている。
「そのための薬、そのための隠密、そのための暗器だ。」
倒れた息子の手を掴む。引き上げてその重さに少し瞠目しながら、ヌントは言った。
「お前はまだ若い。『エンフィーロ』にとっての経験不足を、私は甘く見ていたのだろう。ムルクス。」
「はい!」
直立不動になった息子を見て、口元がほころぶ。ムルクスは今16歳。確かに、まだ、全てを託すには早すぎたのだろう。
父親の情が、達人としての矜持より勝ってしまった。己の未熟もまた噛みしめつつ、壮年は言った。
「指揮はこれから私が執る。お前は『像』としての力を活用しつつ、エルフィール様の指示を伝達せよ。」
「は!」
これでいい。ヌントはそう言い聞かせながら、もう一人を連れて駆け始める。
結果論だが、これが最善だったことは言うまでもない。
なぜなら、『エンフィーロ』はこれより、『影の軍』と地味で嫌らしい抗争に突入する。
一転。戦場側である。
弩砲が残っていても、それが打ち出す矢がないこと、熟練の兵士たちがいなくなったことに、クシュルとパーシウスを除く全ての貴族役人たちが騒然とした。
「『エンフィーロ』ではない気がするな。」
「ですね。」
その中で静かにしている『護国の槍』と『最古の貴族家』の男二人は、状況を冷静に分析していた。
「『エンフィーロ』の起こす行動にしては派手すぎます。」
アルス=ペガサスの一門は『エンフィーロ』創設以前から存在する貴族家である。言うまでもなく、その存在を知っている。そのパーシウスが、これを『エンフィーロ』ではないと断じた。クシュルも同意である。『エンフィーロ』は影も形もないがゆえに『エンフィーロ』なのだから。
「『跳躍兵』か。」
「でしょうね。しかし、してやられました。エルフィール様が『像』の積極利用はしていないゆえに油断しておりましたが、敵は『像』を持っているのでした。」
『エンフィーロ』をよく知る二人。もちろん眼前で会っていないゆえの判別ゆえに仕方がない部分がある。が。
まさか二人も、それが未熟な『エンフィーロ』による仕業であるとは考えない。
「原因より、先のことを考えましょう。」
何を話しているかわからないベネットは、とにかく問うた。今彼に必要なのは、何が起きたかよりこれからの行動指針である。
「敵が攻めて来る。ベネット、ミデウスの軍を率いて殿につけ。」
「……承知いたしました。」
表情を強張らせる。弩砲がなく、敵が攻めてきて、あまりに派手な炎と煙の影響も相まって自軍に士気がない。この状況の「殿」の意味など、普通に考えれば一つである。
「勘違いである、ベネット。貴様は死地には赴かぬ。敵に『像』、それに準ずる才覚の持ち主、居らず。死に急ぐな。」
え、と呆けながら立ち止まり、振り返る。その目に籠められた信頼と、言葉への信頼を、ベネットは明確に読み取った。
「承知!」
意気揚々と、彼は戦場へ。
主のいう「死に急ぐな」は、「生きて帰ってこい」と同義である。
一方で、エルフィールはなぜ『像』を出さぬのかと詰め寄られていた。
そりゃそうだ、『像』さえ出せば敵は蹂躙しつくせるだろう。長い時間をかけた戦争を、貴族たちは望まない。
だが、エルフィールにとって蹂躙劇は望むところではない。既に過分に殺しているというのに、これ以上人死にを出す気はエルフィールにはない。
いや、戦争である以上嫌でも死人は出るのだが……すでに、殺生人数が殺生上限目標の八割に届こうとしていた。これではまずい。
「お前たち、『像』を出さねば負けるほどの腰抜けぞろいか?」
だが、それを素直に吐いたところで貴族たちが頷かないことなど、エルフィールは重々承知している。エルフィが兵士の消耗を避けたい理由は、アシャトと彼女による布石なのだ。ごく一般の、「貴族」には、どだい理解しがたい理由である。
ゆえに、煽る。『像』などなくとも、この状況で突っ込めば、お前たちでも勝てるだろうと、信頼を盾に煽り文句を口にする。
しかし、伊達に教育を受けたものではない。彼らはバカであっても愚かではなく、考えなしであっても短絡ではない。
むしろ、エルフィールが敵を殺さないように戦っていることも、なぜそうしているかも、二ヵ月以上もの戦争の時間があれば、気付くだけの時間はある。
「私たちは、兵を、一人でも多く殺しておきたいのです、エルフィール様。そうしなければ、戸籍を一から作成している都合上、私たちの仕事が大幅に増えてしまう。」
敵軍は20万。現在では17万を下回ったくらいのはず。彼ら全てが三人家族であると仮定すれば、新規作成せねばならない戸籍の数は50万を超えてくる。
一理ある。エルフィールは苦笑する。確かに、その全てを貴族たちで処理せねばならぬというなら、かかる時間は尋常ではない。一年二年で終わる話ではない。
だが、正直なところ17万やそこらの数字が減ったところで、仕事の量は微々たる差である。何より彼らは、戦後処理のことを考えていない。……敵であったとはいえ遺族に対する補償がないのは、自国民になった後困るというのに。
「俺は殺す気はない。アシャトも殺したくないんだ。敵を一人でも殺したいなら、お前たちが敵前線で好きに暴れろ。俺は、出兵しろとしか命令は出さん。」
「それほど『帝国化』が大事ですか!」
「当たり前だろう。」
睨みあう貴族たちとエルフィール。裏切られるかもしれない、とさえ思う。それほど空気は殺伐としていた。
が、その空気は霧散する。アメリアが天幕の中に入ってきたからだ。
エルフィール一人ならまだしも、『像』に任命された者二人と同時に喧嘩する気まではないのだろう。あるいは、アメリアは……
「エルフィ様。私はいつ出撃するのですか?」
「次になるだろう。……多分。」
「多分、というのは?」
「次に出兵する彼らが、敵を殺しつくしたのなら、完全に撤退まで持ち込ませたのなら、女のお前の出番はなくなるさ。」
うわ、また煽った。貴族たちは青筋を浮かべて立ち上がる。
「よろしい!女が戦場に出るなど言語道断!アメリア嬢が戦いに赴かずとも、我々だけで敵を殺しつくして差し上げる!」
憤慨したのがよくわかる。蟹股で歩くのはつらくないのだろうか。私は嫌なんだけど、と眺めていると、アメリアがくすくすと笑った。
「じゃあマリア。お姉ちゃんを借りるわ。」
「お姉ちゃんは私のものではありませんが……生きて帰してくださいね、アメリア様。」
「大丈夫よ。ちょっと空を飛ぶだけなんだから。」
隣を見ると、ガクブルと震えるお姉ちゃんがいた。声にならない呟きが口の端から漏れている。出ている言葉は……うん、ひどい。「空は嫌、空は嫌」だ。
「どんな飛び方したんです?」
「見てのお楽しみよ。」
お姉ちゃんを引っ張って、アメリア様が立ち上がる。本当に、生きて帰ってくるのかな。
少し、不安になった。




