210.毒は派手に燃え上がる
一晩経ってようやく、アルディエトは自身の状況に疑念を抱いた。
弩砲の傍、視界に入る程度の位置に身を寄せつつ身体を潜める。『エンフィーロ』は、一人もいない。
念のため『影の軍』の一部を送り、弩砲を組み立て、矢を作っているスキン子爵家の人員も確認した。『エンフィーロ』は、そういった末端の兵士の間にするりと入り込み、裏工作をすることもあると聞いている。
だが、不自然に顔を隠すものは誰もいない。見知らぬ顔の者もいない。『影の軍』はそれなりに整形の技術も持っている、誰一人として顔を偽装している気配もない。
即ち『エンフィーロ』は、弩砲の周囲には、いない。
当然である。『影の軍』は『エンフィーロ』の諜報能力を高く見積もりすぎている。
まだ『エンフィーロ』は、弩砲の着工場所をおおよそ予想出来ていても、その場所を見たわけでも聞いたわけでもない。確認する前に、『影の軍』に阻まれてきた。だから、『影の軍』のあとを追わせたのだ。
アルディエトは朝一番にスキン子爵家の周囲を部下に任せ、一人本陣へ駆ける。そこでようやく、『エンフィーロ』の暗躍を彼は知った。
「やはり、か。」
「すまん、クシュル。」
うっすらとわかっていたかのような態度をとる元帥に対し、ただただ頭を下げる。己の失態を理解している。このままではクシュルの名前に傷がつく。それは、今は、拙い。
「構わぬ。『エンフィーロ』は代々、『神定遊戯』における全ての影を担ってきた者共也。たかだか10年の『影』に敵う筈無し。行動を制限するのみでも有用である。」
はっきりと断言する。『エンフィーロ』の暗躍がもっと大きくなっていれば、クシュルたちはもっと大きく後退していた。それに、間違いはない。
とはいえ。『エンフィーロ』にしてやられたのは事実である。
立て直しておいて、敵に負けた原因が内部崩壊など、クシュルの何もプライドにも傷がついてしまう。
「どうするのですか?」
ベネットが隣で尋ねる。全ての報告を、彼とパーシウスだけは聞いていた。現状、クシュルたちの状況は詰みに近い。どうしようもないほど追い詰められている。
「決まっている。ベネット、今すぐにスキン子爵家に伝えろ。明日の朝、前線を崩す。撤退が始まるだろうから用意しろ、と。」
「承知いたしました。」
肝心要の、どうやって敗走するかについては何も語らない。自軍被害を大きくして、『帝国化』を防ぐという目的は、現状ほとんど果たせないといってもいい。
クシュルは今、戦略目標を、敵を一人でも多く削るという真っ当な戦争方向にシフトしていた。
「行け。」
敗走するだけなら、実のところクシュルには容易い。問題は、その後、どうやって立て直すかの方であった。
他方、ムルクスはといえば。エルフィールに会っていた。
「なるほど。敵の不信を煽ったか。……いい手とは言えないが、よくやった。」
そういう彼女の顔は悩まし気だ。本当に絵になる。しかし、いい手とは言えない、とはいかなる意味か。
「この場でジリジリ睨みあっているのは、俺も奴も手がないからだ。後方で砦でも立てているのか、陣地でも立てているのか。向こうの備えがわからぬ以上、こちらも動くのは難しい。」
「弩砲です、エルフィール様。スキン子爵家が出てきています。」
「そうか。なるほど、本格的に攻めるのは愚だな。ムルクス、今夜中に出来るか?」
何を、とは言わなかった。弩砲だ、という言葉を口に出した時点で、ムルクスは己の任務が何かを悟っている。
「やってやりましょう。」
「頼む。」
ムルクスが場を離れる。敵が一致団結してくれている方が、まだ敵を後退させるという点においては、ありがたかったのだが。
とはいえ、弩砲だ。堅陣を組んでいるとか、新たに砦を立てている、の方が楽だったのに、と彼女は思う。
「マリア。」
「はい。」
「貴族たちを呼ぶように伝えろ。『像』はいらない。ただ、メリナだけは呼ぶように。」
今『像』を投入すると過剰戦力になる。ただ勝つだけではダメなのだ、勝ち方まで調整しなければ、今この瞬間は問題なくとも、二年後、三年後に影響が出てくる。
戦争とは、政治とは、基本的に目先の利益のみに手を出してはならない。次のことを考えなければ、エルフィールに、『帝国』に未来はない。
「何としても、圧勝してはならない。」
敵の誰かが作ってくれた、敵の団結という利益を、失ってはならない。
“長距離転移”を使ってスキン子爵家の近くまで跳躍する。スキン子爵家が弩砲を作っているのは、スキン子爵家が天幕を這っている領域の200ほど前方である。
なぜこれほど離れた場所で寝泊まりをしているかといえば、移動の都合であった。
弩砲は、敵に狙いをつける視界の都合上、見晴らしのいい場所に作らなければならない。だが、それらを作る部材は、木材やねじ、矢を引き絞るための機構だけは持ち出しでなければならなかったが……それに限っては数を持ってきていた。
ゆえに、敵は弩砲陣の後方に陣を置き、さらに後方にある森林まで木材を取りに行かなければならなかったのだ。
「言い換えれば。弩砲を作る人間以外は、狙い放題というわけだ。」
『エンフィーロ』の中でも選りすぐりの、矢が得意な者がキリキリと矢を引いた。距離は50。六段階格の弓術師は、『届かせることが出来る』飛距離。
彼は、何もしていなければ底までの飛距離を射れるほどの弓巧者ではない。だが、『エンフィーロ』の誇る薬剤の中に、視力の爆発的な向上が見込めるものがある。
魔術は個人の技量に左右されるが、薬は魔術の技量は必要ない。魔力の使用を悟られることもない。ただ、個人の神経系に働きかけて、超人じみた身体に変わるだけである。
ヒュっと、音が鳴った。一人目の躰が崩れ落ちる。
急に一人死んだのを見て、木材を運ぶ兵士たちが動揺する。笑むことなく、『エンフィーロ』は次の矢を。
「暴火薬。」
指示に従い、別な一人が投石投げに使うような道具の先に薬を入れて放り投げる。綺麗な円を描いて、薬は兵士たちの数メートル前に着弾する。
その間に、敵の兵士は三人死んだ。残りは七人。あれなら、やり切れるはずだ。
「火矢。」
紡ぐ言葉は端的に。風で薬が散りきる前に、兵士の足を止めなければならない。
矢を番える『エンフィーロ』の鏃に火をつけ、隠れていた岩陰から飛び出す。着ている衣服は緑色。木々を思わせる色だが……おそらく、駆けているうちに、バレる。バレるまでにどれだけの距離まで近づけるか。
「敵襲!」
10メートルほど駆けたタイミングで、死者三人を出して唖然としていた敵たちが反応した。足音は出していない。単純に、視界に映ったのだろう。兵士たちが慌てて荷物を抱えなおし、陣地に帰ろうと駆け始めるが。
火矢が、『エンフィーロ』たちの頭上を越える。敵兵たちが逃げようとする先には、「暴火薬」……火が空気中で派手に燃える空気を散布する薬をまいた領域。
薬が放たれてから、火矢が放たれるまでの時間は約15秒。薬が着弾してから、火矢がたどり着くまでの時間は、わずか12秒。
しかし、その12秒はあまりに長い。もし風の強い日であれば、「暴火薬」は遥か遠くへ散っていた。……今日は風が少ない日だ。ド派手に燃えなくとも、目の前でわずかに火が大きくなればいい。
「うわ!」
唐突な発火に驚いて、兵士たちが手元の装備品を大事に抱える。木製の武器の材料は、火に弱い。一日必死に働いて作った兵器の為の資材を、わざわざ燃やしたくはないだろう。
だが、その兵士たちの一瞬があれば、『エンフィーロ』は二歩走れる。恐ろしいことに、人は二歩あれば、二メートルは進めてしまう。
敵兵との相対距離は、気付けば20メートルを切っていた。敵を殺せばいいがゆえに鎧兜も多くの武器も持たない『エンフィーロ』に対し、武器を作り為の兵士たちは、その武器の資材を持っている。鬼ごっこではどうやっても逃げようがない。
「敵は8人。数は多いが装備が貧相だ、あれなら迎撃できる!」
指揮官らしき男……ではない、一番年を食ってそうな男が叫んだ。指揮官は首を真横に射られて真っ先に死んだ。しかし、あの男はあの男で、年の功だろう、いい判断を下す。
「俺たちが相手でなければ、だな。」
懐から出すのは小さな玉。金属屑のような、本当に爪ほどのサイズしかないそれを投擲する。
それは、ほんの10メートル以内の距離という範囲ではあるが、非常に強力な武器である。
誰でも使えるような武器ではなく、特殊な訓練を受けていなければどうやってもただの鉄くずにしかならない武器である。
だが、『エンフィーロ』は。爪ほどの大きさしかない極小の鉄くずですら、人を殺すための武器に変える。
八人の達人以上の密偵に対して、素人に毛が生えた程度の七人の兵士。
結果は、悲惨としか言いようがない。
幸いだったのは、彼らの肉体に容赦なく突き刺さった大量の鉄くずは、そのほとんどが急所を的確に抉っていたことだ。
頭蓋、眼窩、喉仏、左胸、肘、手首、脇腹、腿、そして膝下。鎧で微妙に覆われていない部分、木製鎧でしかない部分が、見事にきれいに穴をあけられて、絶命していた。きっと、何をされたか、悟る事すら難しかっただろう。
だが、『エンフィーロ』はそこで攻め手を止めることはなかった。容赦なく、躊躇なく、彼らはその喉に、心臓に、短剣を突き刺して大きな傷をつける。
「暗器の回収は終わったな?」
回収できるところにある鉄くずは全て彼らの手の中に握り込まれ、肉体の中に埋もれて出てこれない鉄くずは、むしろ解剖しなければ取り出すことは出来ない。
「は。」
『エンフィーロ』が答える。己らの存在の証拠を、どう考えても襲われたのがわかる派手な傷と、証拠の残さない武器薬剤で消してしまう。
放たれた矢ですら、変えた。『エンフィーロ』が使う矢ではなく、帝国軍が正式採用している矢にものを変える。
「死体はここに残す。このまま近くに潜むぞ。」
『影の軍』が弩砲の近くで待ち伏せているのを、ムルクスは知っていた。クシュルが被害を最小限にして、自分の名声を損なわず撤退するためには、弩砲が綺麗に残っている必要がある事を、ムルクスは知っている。きっと、アルディエトもわかっている。
だからこそ、スキン子爵の兵隊たちを、ムルクスは狙う。
約一時間の後、スキン子爵家を束ねる男はようやく異常に気が付いた。
「今日は随分と数が少ないな。どうなっている?」
夕食前の時間、炊事によって出る煙の数と比べて、鍋に近づく兵士の数があまりにも少ない。
スキン子爵家は基本的に、見張り以外の全ての兵は、弩砲を組み立てる担当であれ弩砲の材料を集める担当であれ、同じ時間に食事をすることになっている。
スキン子爵家に限った話ではない。アダット派の軍は、貴族ごとに割り振られた時間が違えど、一門ごとに同じ時間に食事を摂るように命じられている。
「は。森に向かった者たちが帰ってきておりません。その数、500。」
ギョッと目を見開く。あり得ぬという言葉が喉元まで出かかった。実際に帰ってきていない以上、あり得ぬと断言するわけにもいかない。
「……今動ける兵士は何人だ!」
「同じく、500ほどです!」
公属貴族エマリア=スキン子爵家を、子爵の代わりに指揮するのは、私属貴族クルタス=スキン男爵だ。その実態は、エマリア=スキン現当主の従弟である。彼の重用する副官が返した言葉に、軽く男爵は満足した。
「森へ向かう。隊列を組め!」
問題があるなら、解決する。それは、男爵の決断の速さを示すものであり……同時に、思慮のなさをも示すもの。
もしもクシュルがここにいたなら、決して部隊は動かなかった。500の兵を失ったことに泣き寝入りし、早々に陣を纏めて弩砲の傍に寄っていただろう。
炊事を務める兵士たち。そのうち一人が、火に草を五本ほど放り投げる。
火の煙の大きさが変わる。細く長い、白色の煙から、太く広がるような黒の煙へ。燃え盛る炎は『エンフィーロ』への合図の一つ。『影の軍』が弩砲を守っている隙をついて狙われた、スキン子爵家への攻撃。
如何に強力な兵器といえど、使い慣れた兵士がいないのであれば、それはただの……がらくたに過ぎず。
スキン子爵家の帰る陣地が、少しずつ赤に染まる。
森へ向かって5分。ところどころに味方の死体と抱えた弩砲の材料を確認し回収しながら、スキン男爵は森へ向かって進軍した。
いや、森までの距離はわずか400もない程度である。いくら軍勢とはいえ、5分あればそれくらいは進む。
だが、森までの道で、子爵家の兵士が何人も死んでいるのを確認した。これは、拙い。そう勘付いた男爵の本能は、幾分鋭いのだろう。
兵士の死体と、斬られた首筋や貫かれた心臓を見て敵がいることを悟った男爵は、即座に周囲に向けて斥候を出した。
「誰だ、私たちの邪魔をするのは!」
男爵が不快になったのも当然である。彼は自分の仕事を果たしていた。彼が確認しただけでも、死体は50を超える。森に漂う血の匂いから、おそらく500、全てが死んだだろうと確信していた。
「……これは、血の匂いか?」
だが。仮にも兵器を扱う一門である。凡才しかないだろう男爵も、普段嗅ぎなれた匂いならばある程度察知できる。
あまりにも濃い、血の匂い。一時間、空気の通りが悪い森の中で放ち続けられた血は、鼻が曲がりそうなほどの悪臭を放っていて……その中に、わずかに異臭が一つ。
「全軍!森から、出ろぉ!」
気付けたのは、彼がよく油のにおいを嗅いでいたからだった。多くの兵器は、たとえ外側の木であろうとも、防腐を目的に油を塗ることがままある。鉄で作り上げられる機構とかならなおのこと。
ゆえに、血の匂いに混じっている油のにおいに気が付いた。
「が、遅いよ、スキン男爵。」
森の中、木の上。影が多い環境は、『エンフィーロ』の領域である。
スッと、あっけなく男爵の首が落ちる。斬る音すらなく、大地を踏みしめる音すら立てず、ムルクスは存在感すら匂わせずに消える。
「え、あ。」
その死んだ頭を慌てて拾ったのは、副官の男。何が起きたかわからないという顔で、その頭をそっと頸の上に戻そうとして……
「あ、うわぁぁぁぁ!」
放り投げて腰を抜かす。彼の目にムルクスの動きは見えていない、認識すら出来ていない。血と油のにおいに混じって『エンフィーロ』が撒いた、色覚不調を引き起こす香の存在に気づいていない。
ただ、彼の目には、なぜか唐突に落ちた己が主の死骸だけがある。
同時に、森の入り口側から火が上がった。『エンフィーロ』は火を放った。
既に染み込ませた油がある。大地に流れた血がそれを覆い隠していたとしても、撒いた油はまず間違いなく火を拡げ、木々をさらに燃やし始める。
「兵器は壊せない。なら、使い手を壊せばいい。」
スキン子爵家の陣地が燃えている。あまりに派手に、燃えている。
夕焼けに焦げる大地に、火の色はわかりにくい。だが、空気の揺らぎが、空に上がる黒が、敵陣の炎上を派手に見せている。
「役目は果たした。各々、解散!」
四方八方に散る『エンフィーロ』。『影の軍』に捕まらないよう、遠回りをして去って行く。
彼らが燃やした森には、約1000近い兵。
そして、陣地には、炊事を担当していた200の兵と、弩砲の矢。
『エンフィーロ』は、弩砲は狙わなかった。
ただ、弩砲を使う練度が高い兵を一掃し、弩砲の矢の半分ほどを焼き払っただけであり。
それは、クシュルとアダット派の貴族たちが二ヵ月近くもエルフィールたちと戦い、その場に留まり続けた意地と誇りを焼き払うのと、何ひとつ変わらない。




