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209.影の戦い

 睨みあうような硬直だった。

 敵に被害を極力与えず後退させたのは、エルフィールにとって快挙と呼べるものだ。今は農夫一人の命すら重い……普通では考えられないほどに。

 もちろん、兵士たちにとっては常に命は重いものだ。しかし、50年近くにわたる国の荒廃がなければエルフィールは兵の命をぼろ屑か何かの様に使い潰せたのも確かである。


 だが、今は人の命をむやみに消費できない。今後のことを考えれば、命は消耗品ではないものの一つである。殺すことの重みが、金一封よりも大きい。

「とはいえ。これは……嬉しくない誤算だな。」

じっと見つめる先、クシュルの陣。彼らの士気は、高い。


 負けているはずである。敵は後退している。反撃の機はない。許すような油断を、エルフィールは見せていない。のに。

「なぜ、それほど士気が高い?」

問う言葉に答えはない。それはそうだ。敵の士気が低い前提で、どうやって兵を殺さず撤退させるかを考えていたエルフィールにとって、敵の士気が高い理由など知りようがない。最も優れた彼女ですらそうなのだ。他の貴族・将校に知る術などどこにもなかった。


 だが。もう睨み合いから一月が過ぎようとしている。ちょっかいをかけこそしたが、うまくあしらわれ続けている。敵は、あの場にしばらく留まる心づもりだ。

「後方で兵器が出来るまで、か。」

バリスタや落とし罠の類だろう。進撃を遅らせるには、固定砲台でも用意してそこに陣取り、被害を大きくするのが正解である。

 まして、兵の損耗を避けたがるエルフィールとしては、矢が尽きるまで突撃を繰り返す、などと言うことが出来ない。

「用意が整うまでに何とかせねば。」

焦りを滲ませながら呟く。切り札は、ある。だが、今はまだ切りたくはない。

 彼女が持つ、敵に使っていない手札は残り四枚。勝てるなら使い切ってもいいと思っているが。

 それでも、勝てる自信が湧いてからしか使いたくはなかった。




 一方で。エルフィールが勘定に入れていない影札が一枚。クシュルの裏で、彼らの陣地を崩そうと蠢いている一団があった。

 そのリーダーはムルクス=アニマス=エンフィーロ。アシャトに仕える表舞台に立たない一族『エンフィーロ』の次期当主であり、『跳躍兵像』の権能を預かった者である。

「なぜここが!」

「影に潜むならわかるだろう?俺とお前は同種だ!」

閃くは四条の剣閃。響く音の力強さはほぼ互角。互いに鍔迫り合いを嫌い、後方へ大きく跳躍した。

「……くそが。」

「フフフ、見回りの隙を見出す慧眼、恐れ入った。だが、そっちに『エンフィーロ』がいるとわかっていれば、隙を放置するはずもなし。」

蛇の道は蛇である。密偵の道は、密偵がよく知っている。


 ムルクスと戦う男の名は、アルディエト。ペガシャール王国、『影の軍』だ。

「まさか、『エンフィーロ』以外にそれを為すものがいたとは。」

「フフフ、アグーリオ陛下の趣味だとも。裏切り者、国に不利益をもたらすものを処断するため、証拠集めを行う一団!陛下の独裁を推し進めるための刃だ!」

再び、両者疾走。斬り結び、蹴りを放ち、暗器を投げ、時に互いを投げ合いながら戦っている。

 彼らだけではない。彼らの周りでは、金属音と肉打音が鳴り響き続けている。

「数の上では我らが有利だな、『エンフィーロ』!」

振り下ろされる一閃。月が反射する刃に対し、それよりも素早い突きでもってムルクスは応答する。

 再び、両者の間が開く。ムルクスは何も言わない。刺客に語る言葉はなし。そう言うかのように、身体にぴったりと纏った黒い服で手を拭う。


 数の上では敵が上。それは事実だった。『エンフィーロ』はその性質上、人数が500から増えることはない。半数以上は国と山に残って、諜報含めた多くの仕事をこなしている。

 実際、この戦場に駆り出されている『エンフィーロ』は200名を下回る。対する『影の軍』は、この場にいるだけでも500は超えていた。

「だが……質は、そちらの方が上のようだな?」

転がる死体を眺めながら、アルディエトは言う。地面に転がる刃、アルディエトの握る刃の光が月に照らされて大地を魅せる。そこには一つとして『エンフィーロ』の死体はない。全てが『影の軍』の死体である。

 即ち……倍以上の兵力で臨んで、『影の軍』は一人として敵を殺すことが出来てはいないのだ。

 唯一、『エンフィーロ』を屠る能力のあるアルディエトは、ムルクスに完全に抑え込まれている。ムルクスは『エンフィーロ』内でも比する者が少ない密偵である。食らいつけているアルディエトの方が、おかしいのだ。


 嗤いながらそこまで考えて……アルディエトは敵を見据えた。

 驚愕の一瞬を除いて、完全にだんまりを決め込んでいる若い刺客。言葉が返ってこないのは、イライラする。

「何か言えよ。」

「……。」

ムルクスの周りに、密偵たちが下がり始める。応じるように、『影の軍』もまたアルディエトの周りに集まり始めた。

 全面戦争だ。そう言いたげにアルディエトの口元が深く歪む。どちらの方がすぐれた影か決めようぜ、とでも言わんばかりに。

 どうでもよさそうに、ムルクスが一瞬、空を見る。辛うじて大地を照らす下弦の三日月が、雲にわずかに隠れ始める。


 アルディエトの抜き身の刃の光が、消えて。

「未熟だな、『影の軍』。」

何か投げられた。反応できたのは、警戒を怠っていなかったが故。影の中で蠢く軍を名乗るならば、影の中での攻撃くらいは警戒して当然であり。

 その投げられた小さな玉が煙を発すると予想できなかったのが、『影の軍』の運の尽き……いや、情報量の限界だった。

 煙が晴れる。そこには既に『エンフィーロ』の姿はなく。

「全員!今すぐ後方に走れ!奴らの狙いは、弩砲だ!」

慌てて叫ぶ。走り始めた『影の軍』は、流石というべきか、一番自軍の取られたくないものを理解していた。




 上には上がいるものだ。

 刺客の、諜報員の、密偵の能力が極めて高く、次期当主と目されている僕でも、単純な武や敵の脇をすり抜ける術では対等になりうる者がいる。

 僕としては、驚きだった。


 アグーリオ陛下が『エンフィーロ』なき王国の為に『影の軍』を編成したことを、僕らは最初から知っていた。存在そのものを隠蔽するために500人しか用意しない僕たちと違って、国が全力で匿っているからこその万近い兵数を持っていることも、まあ、知っていた。

 『エンフィーロ』は『王像の王』にしか力を貸さない。『エンフィーロ』生誕当初からあるこのルールは、ペガシャール植物園『ニルア』あってのものだ。正確には、『ニルア』があって初めて、『エンフィーロ』は真価を発揮できる。

 だからこそ。薬ひとつ持たず、あのレベルまで育ちあがった彼らの強さが際立つというものだ。


 走りゆく彼らの背を眺めながら、僕は思う。

 僕らは少し『影の軍』から離れただけで、身動きなどしていなかった。雲に月が隠れた瞬間を狙い煙幕を放ち、わずかに敵の脇を通り過ぎるように足音を鳴らした後、気配と足音を消して後方へ駆けた。

 煙幕には二つの効果を込めている。一つは単純に、黒い煙を出す効果。そしてもう一つは、煙を吸うことで視神経に干渉し、ほんのわずかに視力を下げる効果。

 煙から晴れて周囲を見回せたところで、煙幕を放たせた時点で向こうの詰みだった。


 煙は視界を奪い取った。煙が完全に晴れたところで、月明かりと星明りだけが照らす暗闇な中に紛れた黒ずくめの、気配を消した『エンフィーロ』の存在を感知することは至難の業である。

 まして、僕らが彼らを通り過ぎて行ったと勘違いさせている状況で、視力も奪って、僕たちが「動いていない」ことに気付けるとは思えない。

「後を追え。兵器の位置を割り出すのだ。」

『エンフィーロ』が三人駆ける。死ぬなよ、とは言わなかった。ただ、死ぬのなら、誰にも見つからないところで死ね。それだけを念じる。

「重傷者は?」

「一人。」

「治療できそうか?」

「無理です。一生、後遺症が残るでしょう。」

それは、困る。『エンフィーロ』は存在しない一族だ。そうでなければならない。つまり、重病人をニルア近辺の山に連れ帰るために、エルフィール様たちの軍の手を借りるわけにはいかない。

「なら、そいつは既定の通りに隠しておけ。」

「は。」

一人、去る。その背中を追うこともせず、僕は何人かに敵本陣を探るように伝えた。


「テッドの密偵の位置は割り出しておけ。暗殺は要らん。香を焚いて食糧を移せ。」

簡潔に指示を出す。『影の軍』は弩砲のところに向かった。なら、今敵陣に『影の軍』はいない。

 既に何度か『エンフィーロ』の所在が割れかけ、姿が見られる前に逃げる、ということを繰り返していた。今は恐らく、その心配だけはない。

「外から崩せんならば内から崩す。『エンフィーロ』の戦いを始めよう。」

レッド派の時の様に、事前から仕込んでいる裏切り者はいない。そんなものいなくとも、『エンフィーロ』は外から彼らと同じことをやってのけられる。

 エルフィールが望むのは、高い士気をわずかに揺らがせるような何かである。それを、彼は知っていた。




 クシュルは天幕の内で頬杖をついていた。朝聞いた報告に、呻きを上げていたのだ。

 アダット派の陣営では、食糧をバイク=ミデウス侯爵軍が一括管理している。後方、王都ディアエドラから直接ここに運び込まれ、食事の時間が近くなると各貴族の天幕に必要量の食糧が運び出される、という仕組みである。

 だが、昨夜、一部の兵士がその食糧を運び出そうとしたという。深夜のことだ。

 見張りは当然立っていたが、彼らがほんの一瞬船を漕いだ瞬間を狙われたのだ、という。

「幸いにして、彼らの目論見は失敗した。眠りかけた兵がふと顔を上げると、そこには兵が五名ほどいたという。声をかけると慌てて逃げ、追いつくことには失敗した、と報告にあった!」

隣でベネットが将校に向けて話す内容を聞き流す。彼らは左翼後方に向かった。つまり、食糧が足りないという不満を持つ者が、左翼後方にいるということを示す。


 ベネットが語る内容は、朝クシュルが報告を聞いて一番に感じたことだが、それではおかしい。

 クシュルは自軍の兵士の数をしっかりと把握している。数も、質もだ。ゆえに、送り出す食糧の数は、ほとんど毎日、クシュルが口頭とはいえ指示を出している。

 兵士一人一人に十分行きわたる数を出しているはずだった。もし不満が噴出するような事態になっているとすれば、それはクシュルの計算が間違っているか、あるいは……どこかでクシュルの指示が行き届いていないか。

 食糧不足の可能性だけは考えなくてもいいのがありがたかった。その辺りは、忌々しいことにゲリュンが上手くやってのけている。

「ふむ……?」

自分が指示を出している兵が、数を間違って伝えたのか。それとも、数を聞いて卸す者が量を誤魔化しているのか。あるいは、食糧を受け取った者がくすねているのか。どうにも、違和感がぬぐえない。

 それよりも、この状況だった。このままでは、貴族たちが互いにいがみ合って、不信を抱きかねない。


 実のところ。パーシウスが施したアダット派の士気の高さ、連携の地力は、根本的に『護国の槍』への信頼に寄り掛かったものである。

 上が『護国の槍』クシュルであるからこそ、彼らは信じて戦えているのだ。上下関係の徹底ゆえに士気が高いが、同時に横のつながりは絶望的なまでに存在しない。

 混乱の発生、士気の低下。それら自体は、クシュルの望むところである。否定はしない。だが、今混乱からの撤退はある意味不味い。


 クシュルが「多くを生かすための戦い」を謳った。それが彼の望みではないとしても、出来るなら自陣の多くを殺したいというのが本音だとしても、一度語ったことは覆せない。


 クシュル=バイク=ミデウスは、この戦にて、己が言ったことを翻すことは許されていない。一人でも多く生かせるよう、全力を尽くさねばならない。

 『護国の槍』の看板は、重い。

「静まれ。」

一言。たった一言で、憤激する貴族たち、糾弾する貴族たちの騒動を収める。

「ここで互いにいがみ合うは、敵が思う壺也。かくも死に急ぎたいと申すか。」

お前たちの喧嘩は一利とてない。そう口にして、続ける。

「この一件は我が預かる。一人足りとて、口を挟むな。」

朝から兵士が騒ぎ立てる愚行がなければ、クシュルは緘口令を敷いただろう。


 それが全て『エンフィーロ』の手によるものであると、クシュルはまだ、気付いていない。


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