162.雪積もる山中で
寒さで兵士たちの身が固まっていた。
山の上。雪が降り積もる中で陣取り続けるのは、正しい戦略とは言えない。
下がるわけにもいかない、というのがヒリャンの諦めに似た本音だった。下がればそれだけ、クシュルは追ってくる。反乱軍に対して行う『護国』の性分を、他でもない『護国』の一族だからこそ一番恐れている。
「敵を下げても、ここから動けない。」
春になって再びこの山に陣取る?そんなことをしようものなら、先にクシュルの部隊はここを陣取っているだろう。既に攻め込まれている状況で、高所の利まで奪われる。それではただでさえ少ない勝機が絶無になってしまう。それがわからぬなら、ヒリャンは総大将など出来てはいない。
「樹には困らない。火にも困らない。だが、いくら暖を取ろうと、雪積もる山中で生活するなら意味はない。」
その通りだった。どれだけ火を熾そうと、その周りに集まろうと、寒いことに変わりはない。一時の気晴らしにはなろうが……時が経てば、寒いという事実に直面するだけだ。兵士たちの士気は、目に見えて落ちてきていた。
とはいえ、打開策はない。敵もまた、攻めてくる気もないようだった。動かずとも寒さで自壊するとでも言いたげな泰然とした振舞に、尊敬の念すら沸き起こる。何もしなくても勝てる、とわかっていても、人は動きたくなる生き物だ。その全てを押さえつけ、言い聞かせ、微塵も動かないクシュルの軍容は、ヒリャンをして圧倒されそうになる。
「やはり、動かなければ、いけない。」
動くのは悪手だ。だが、動かねば兵たちが戦を忘れて寒さに浸る。寒くて動けない、雪が積もって動けない……そう言いながら過ごした先には、戦の出来ない木偶人形が出来上がる。
見張りの時以外は天幕の中で寒さをしのぐ。冬場はそれでいいかもしれない。だが、春になれば兵士として機能していない可能性すらある。
「動くしか、ないか。」
ヒリャンは己が天幕に戻り、床几に広げた紙を見下ろしながら……一手、打つべく、用意を始めた。
獣の毛皮で作られた外套が2万。その注文依頼書がレッドから渡されるに至って、ビリーはようやく戦況の動きを察知した。
とはいえ、動いていない。その注文依頼を果たしてからが動き時だ、とわかっている。
「一週間以内に、出来るか?」
「それでは遅いと存じます。幸い、準備はございます。棚卸に時間がかかるため、ここに届けるのは五日後になるかと。」
「いいや、ここに持ってくるのではなく、最前線に送ってほしい。」
「……直接、ですか?」
「あぁ。フェリス=コモドゥス伯爵が傭兵を送ってきた。彼らを護衛に、一週間以内に外套を前線を届けよ。」
これは、切羽詰まっている。そうビリーは察する。とはいえ、切羽詰まっているから、レッド派の旗頭が直々に命令を下すのは予想外であったが。
だが、命令は命令だ、と言い聞かせた。望まれるなら依頼は果たすのが商人の務め。さらに顔を深く落とし、敬服の態度を示しながら言葉を綴る。
「承知いたしました。アネストリ商団の名に懸けて、必ずやレッド様のご期待に応えましょう。」
問いかけも何もしない。ただただ上の命令に従うのみ。それが、一商人としてビリーに出来る唯一のことで。
「……もう一つ、依頼がある。」
「……依頼、ですか?」
「うむ。依頼だ。」
不思議な言葉を使うものだと、思わず顔を上げそうになった。よく耐えた、と胸の内で自賛しながら、ビリーは貴族の言葉を待つ。
「ペガシャール帝国派閥の動きを探ってほしい。具体的には、どこに向けて攻撃するつもりか、をだ。」
「商人に、ですか。」
「あぁ。御用商人ではなく、しかし我が派閥の物資運用に大きく食い込み、ペガシャール中に根を持つ大商人であるお前に、だ。」
ほう、と感心する。自派閥に関与しているが自派閥ではない、という事実に目をつけ、傭兵として商人を使おうとするその姿勢は、ビリーにとっては好ましい。主を決める前であれば、彼に未来を託してもよかったのかもしれない。
「承知いたしました、請け負いましょう。しかし、なぜ場所なのです?時期ではないのですか?」
「ビリーよ。兵力に劣り、名声に劣り、富に劣り、何より糧食に劣る勢力の狙いを予想出来ぬほど、余は阿呆ではないつもりだ。」
勢力が落ちるまで。互いが互いを削りあうまで待ち、漁夫の利を得る。そのアシャトの狙いを理解できないはずがない。
それもそうか、と思う。いくらなんでもその動きはセオリーにすぎるだろう。
「ゆえに、奴らはアダットの軍がホーネリスの足元に刃を突きつけるまで、動かぬ。」
「喉元ではなく、ですか。」
「喉元に来るまで放置すれば、余らは完全に墜とされよう。そこまで放置するほど、奴らは愚かではない。」
そうなのだろうか、と首を傾げたくなったが……いや、確かに。ディマルスからの移動時間も含めて考えれば、レッド派の首都が包囲されれば、双方の力の減衰と両方を帝国派が斃すという望みには届かない。手遅れになる。確かに、ホーネリスに至る前……ラビット公爵領境界都市エネディクト。あの辺りで動くのが最適解だと、聞き知っている。
「なるほど。では、敵がどこから攻めて来るのか、それを知ることに終始いたします。」
「うむ、よろしく頼む。」
彼の前を辞す。廊下を歩きながら……ビリーは冷や汗が噴き出るのを感じていた。
(どこまで、悟られている?それとも、素か?)
ビリーと、傭兵の組み合わせ。依頼内容が、アシャト派の偵察。それを聞けば、ビリーの立場としては心当たりが多すぎる。
“外交魔商”という二つ名で知られている。人の心を、望みを知り、商談に反映させるのがビリーの強みだ。
だが、戦争……いいや、政争の最中、関与者ではなく中心者として動くのは初めてで……
(どちらにせよ、これでは陛下に利するための工作もままならない。正しく品を納品せねば……)
それ以上でもそれ以下でもなく。レッドが己を疑っているのかもしれない、という意識をしたうえで仕事をする。アシャトに利するのは、最後の瞬間まで待たねばならないかも……とすら、ビリーは思う。
レッドの依頼は、ビリーの派閥がバレていようといまいと、行動に枷をつけるものとなった。
獣の皮が運ばれてくる。布製の外套と獣の皮製の外套の大きな違いは、その通気性の差にある。
ヒリャンは安堵した。これさえあれば、この寒気の中、吹き荒れる雪の中にいても寒さを凌ぐには十分だ、と。
「動くための用意は整った。」
アダット派は未だ動かず。しかし、こちらが動くことも予想しているだろうとヒリャンは確信している。だが、それでも。
「あなたはとても優秀だろう、兄上。天才だろう、負ける気など微塵もないだろう。」
だが、ヒリャンにだって意地があった。一度くらい、兄を超えてもいいだろう、というくだらない意地が。
「主導権はこちらにあるのだ、兄上。防衛側である方が、戦の主導権は握りやすいのだ兄上。……全軍を起こせ!鍛錬を始めさせよ。この戦で勝てば、宴をしてやると触れを出せ!」
宴と言われれば兵士たちの士気もわずかに上がる。配給制の食糧ではなく、ただ好きに飲み食いできるという報酬は、戦時下にあっては最高の娯楽となる。
怠惰に生きていたとしても、同じものばかり食べ続ける退屈には耐えがたい。……まして兵士は基本的に平民だ。滅多にない贅沢の機会ともなれば、そして上のお墨付きともなれば、喜ばないはずがない。
「意地でも、勝つ。」
雪が降り積もる山の中で、ヒリャンはそう断言した。




