132.撤退戦開始
空を眺めていた。
撤退戦。後方の陣は完成した。あとは、いつ撤退を開始するのかという問題だけである。しかし、それこそが最も重大な問題であった。
撤退するタイミングを読まれれば、追撃によって軍が壊滅にまで追い込まれる可能性がある。あの兄を相手だ、下手な読みあいは難しいだろう。
となれば、方法は二つしかない。全滅前提の殿の設置か、天を味方につけるかである。
「やっとか。」
雲の形。今の風向き。そして、冬に差し掛かりかけているこの季節。それらが、今日の夕方から明日の朝にかけて、強風と豪雨をもたらすことを告げている。
「食糧を後方へ移動させ始めろ。今晩と明日の朝の分だけ確保して、それ以外はフェリス=コモドゥス伯が立てた陣地の中へ運び込め!」
一日かけても、全て運び出すのは無理だろうと思う。だが、撤退する道には、ところどころに小屋がある。そちらに移動させて、後で出せばよい。とにかく重要なのは、この陣地に食糧を置いたままにして利敵行為にしないことである。
「とはいえ、多少は仕方がないな……。」
敵に食糧を取られるくらいなら燃やすか、と思う。しかし、民たちが日々飢えと戦っている状況で、10万の人間が2ヵ月以上生存できるだけの食糧を燃やすのには、些か抵抗があった。
「では、私の方でお預かりいたしましょうか?」
「……。アネストリ殿か。戦場に足を運ばれるとは、命知らずなので?」
「いいえ、閣下。私は命を大事にしておりますよ。しかし、こればかりは私が動くべきだと思ったのです。間に合ってよかった。」
「間に合って?」
「私とて、従業員の者たちから話を聞くくらいは致します。そろそろ撤退と聞きましたが、食糧の出荷量も、運ぶ場所も変わりませんでしたから。このままでは、拙いのではないか、と。」
この男は賢い。商人の分は超えているが、確かにこのままではまずかった。
「今日撤退を開始するが、大丈夫なのか?」
「問題ありません。閣下たちは南下するでしょう?私たちの商団が保有する倉庫は、西にあるのです。」
今日の昼から辺りに移動させ始められるなら、物資が奪われる心配はない。そう言い切った商人の男に、わずかに逡巡する。
「では、任せよう。落ち着いたら後方、グリュール山脈フェーティス山へと運んでくれ。」
「承知いたしました、閣下。閣下の無事をお祈りしております。」
「任せよ。」
“外交魔商”ビリー=アネストリが去って行く。本当に信用していいのか、という言葉が頭をよぎった。
「問題ない。裏切れば、斬る。」
その自信がある。それに、裏切るとしても、今ではない。
「本日夕刻を以て、エドラ=ラビット公爵軍は撤退を始める也。」
その一言で、軍議の場が湧いた。敵が下がるタイミングを読めた、それは普通に考えて、嬉しい兆候である。
なぜなら、追撃をかけるのが容易になるため。勝ったも同然、という雰囲気が、アダット派の将校の中に蔓延し始める。
「並びに、本日夕刻を以て、この地を豪雨と暴風が参る。さすれば、我が軍は雨風に阻まれ容易に追撃戦は出来ぬものと心得よ。」
一気に、落とす。クシュルは一言で、戦勝ムードの貴族たちを黙らせた。
「なぜ、雨風ごときで追撃戦が厳しいと?」
「問うまでもありません。視界が悪い。ただでさえ夕刻から夜という、明かりがなければ指先すら見えにくい環境で、雨と風にさらされる。同士討ちをしろと言うような環境です。」
ベネットが断言する。その通り、このまま普通に戦えば、エドラ=ラビット公爵家軍には確実に撤退されてしまう。
「『護国の槍』殿は、何か策がおありですかな?」
アルス=ペガサス公爵の代理として軍を率いる私属貴族が問いかける。その言葉に、クシュルは実にあっさりと頷いた。
「敵軍は撤退の準備を進めている。即ち、今急襲をかけることが叶えば、敵戦力の減衰は可能。」
端的な説明。それに、多くの貴族たちが納得したような声を上げる。
撤退しようとしていて、撤退している尻尾を叩けないなら、脇を見せた瞬間を叩けばいい。
「クジャタ伯爵軍、及びライオネス子爵軍。貴殿らは騎馬による部隊を率い、敵を襲撃せよ。ただし、深追いは許さぬ。敵を浮足立たせるだけにせよ。」
「なぜです?」
「追い詰めれば、敵陣は火に包まれよう。一度の攻撃で手は緩めぬ。されど、火の中を攻めよとは言えぬ。」
誰も行かないから、というクシュルの本音は隠される。だが、その言葉を、比較的理解ある両貴族軍の将は理解した。
「承知いたしました。すぐに、でしょうか?」
「時刻は30分後。大勢である必要はない。」
少数でいいから早く、確実に打撃を与えろ。そういう命令。
「承知いたしました。」
両伯爵軍の代表が答える。それを尻目に、クシュルは第二陣、第三陣の指揮官を定め、時間を決め始めた。
ケルピー=ライオネス子爵。現代当主の名は、フウオ。彼は決死の覚悟で馬を走らせていた。
率いる兵士は1500。全員を騎馬にするにあたって、彼は己の家にいたすべての馬を動員した。
「手を抜くわけには、行かぬ。」
撤退間近での襲撃。撤退中の襲撃が叶わないことがほとんど確定的である以上、それは確かに利に適った襲撃手段である。
ただし、それは敵が何の対処もしていない場合に限られる。当代の『護国の槍』、クシュル=バイク=ミデウスを相手にあの次元での拮抗をしてのけた敵将が、このタイミングでの襲撃を読んでいないとは、フウオは思っていなかった。
「弓隊、構え!!」
響き渡る声。
「魔術部隊、用意!!」
それは、敵陣から発されている。普通は聞こえないかもしれない。だが、“集音魔術”を用いて敵の動きを聞いているフウオには、実によく……真隣で聞いているがごとくよく聞こえた。
「魔術部隊!抗魔結界用意!!」
1500の内300。それが、ライオネス子爵軍から率いてきている魔術師の数だ。その全てを以て、魔術を阻む魔術を展開する。同時に、盾を掲げた。矢であれば、盾で防げる。
「放て!!」
問題は。ここにいる魔術部隊がコリント伯爵家の部隊であり、弓兵部隊がニネート子爵の部隊であること。
つまり、ペガシャールにおける魔術と弓の最精鋭。それを相手に、たった200人で展開する魔術結界と盾では、足りな過ぎたということで。
「すぅ。“両阻結界”。」
フウオが息を大きく吸って、魔術を起動させた。“抗魔結界”の後方に、それなりに広い強固な結界が形成される。
それを使える魔術師はそういない。八段階格に匹敵する難易度の魔術を、こうもあっさり決められる魔術師は、ペガシャール国中を探しても10人はいない。
そのうち一人が、フウオ=ケルピー=ライオネス。後世において“白馬騎士”と呼ばれた“四勇将”の一人、アレス=ケルピー=ライオネスの父。
彼が、精鋭たちの魔術と矢を全て弾き飛ばし、そしてなお直進する。
「ライオネス子爵がいるのか。次波用意!奴は魔力量がそこまで多くはない!魔力切れを起こさせる!」
トージの叫びが、フウオの耳に聞こえた。魔力量を把握されている。ふざけるな、と悪態をつきたくなった。
確かに、残り二度しか受けられない。だが……残り二度。三度目が発動するまでに、敵陣にたどり着けば、フウオの勝ちだ。あとは、接近戦で蹂躙すればいいのだから。
「近づけ近づけ!!」
馬に鞭を打つ。ぐん、と速度が上がった。
「魔術陣!」
隣を駆ける側近に、“両阻結界”魔術の魔術陣を要求する。それが手渡されると、続いてまっ術師たちに魔術結界の展開を指示した。
一人ですべてを防ぐのは、フウオには厳しかった。魔術の名家が誇る魔術師集団も、弓の名家が率いる弓兵団も、他の貴族たちのものと比べれば練度が違う。威力が違う。射程が違う。並の兵士を相手にするのと意味が違うのだ。
「“両阻結界”!」
二度目の、激突。彼我の差は残り100メートル。このままでは、少々間に合わない。
「ヤクト殿!」
「合点承知!魔術部隊、放て!」
クジャタ伯爵家の部隊。ゲリュンの従弟に当たる私属貴族、ヤクト=プティット=クジャタが率いる騎馬隊は1000。そのうち500が、魔術師部隊である。
彼らが、“火球魔術・連打”を展開する。400の火球が、敵の陣へと殺到し……
「結界魔術発動。第三波は矢のみです!」
「物理結界を張れ!」
即座に、抗魔結界から物理結界へと結界が張りなおされる。それによって、矢は全て阻まれ……フウオの魔力が、節約される。
「こちらの魔術の射程に入った。」
火球魔術が、敵陣に着弾した。それが、ようやく両者の攻撃射程が一致したことを物語る。
フウオたちの射程は短い。魔術、弓共に本分ではないのだ。対し、敵の方が射程は相当広い。結界を用いて魔術と矢の対応をするしかなかった。それが覆された先にあるのは、徹底的な魔術の撃ち合いと……接近戦への対応。
「全軍、突撃!!」
彼我の差は、50メートル。勢いのついた騎馬隊にとって、5秒とかけずに辿り着く距離。
彼らに浴びせられたのは、最後と言わんばかりの、至近距離からの“炎弾魔術”と射程を殺して威力を上げた矢の掃射。
フウオたちの部隊で用意した結界では阻めない、高威力の攻撃だった。
死兵の恐ろしさを、身を以て味わっている。カンキは呆れたようにため息をついた。
「ガァァァァ!」
剣が光り輝いて、兵士たちが五人、同時に胴から両断される。これが、ケルピー=ライオネスかと思った。
敵が来るのはわかっていた。だから、迎撃部隊に最も攻撃力と射程の長いコリント伯爵軍、ニネート子爵軍を配置した。また、突撃された瞬間に嵌るように落とし穴を用意し、しかもさらに遠間距離からの攻撃が出来るよう、後方にも一つ柵を立てていた。
敵が突撃してくる。落とし穴に嵌る。その隙に、落とし穴の後ろで攻撃をしていた射撃部隊と魔術部隊が下がる。そして、彼らを守るようにさらに後方の部隊が攻撃する。
一連の流れは淀みなく実行された。不利を悟ったケルピー=ライオネスの軍とプティット=クジャタの軍は即座に撤退を決断した。
だが、部下を生かすために、フウオ=ケルピー=ライオネスはただ一人、殿としてその場に残って突撃をしてきたのである。
「伊達に最も多くの『英雄像』を輩出してきた家系ではない。」
これぞ、英雄。落とし穴の先にあった、200メートルの距離。それを、矢と魔術の雨の中、悉く回避して突貫してきた男の活躍に、カンキは、ヒャンゾンは、そしてトージは感嘆と恐怖の念を抱く。
矢が弾かれる。回避される。魔術は別の魔術と相殺され、フウオに触れることすら許されない。
それでも、フウオの限界も明らかだった。息は切れ、ところどころ裂けきれなかった魔術の、矢の傷が生じている。
「もう、止めろよ。」
カンキの言葉は、フウオの耳に届くことはない。彼は極度の集中状態にあった。人を、敵を討つ。それだけに集中した武人。もはや人の言葉はわからない。
これを、悪魔と言わずして何というか。
「頼むぞ、“縁断ち”。」
魔剣と策謀のテッド子爵家。その名が冠する通り、カンキが扱うのは策略と、そして魔剣。
「グルラァァァ!!」
振りかぶられた剣。そこには、さっきまでの光ではなく、溢れんばかりの、水。
「まさか。」
カンキの首に、頭に、水球がまとわりついた。剣で斬られてなどいない。それでも、これはマズいと一歩下がる。
水は、下がろうとも駆けようとも、一時たりとも離れずについてきた。
(溺死は、断る!)
水に魔剣“縁断ち”を当てる。その効果は、“継続魔術解除”。身体強化魔術を解除することを主目的とした魔剣である。
水が弾き飛ばされ、喘ぐ。息が苦しい。だが、今は現状把握に努めようと、カンキが目を向けた先。
トージが九段階魔術“溺撃魔術”を発動させ、ヒャンゾンが十の矢を同時に番えて放つのを視認して。
口元から水をまき散らしながら、両脚に十の矢を突き立てられ倒れるフウオの姿を見た。




