115.雷馬将の友人
1年と、11ヵ月。私はひたすらに武術の基礎に勤しんだ。
時にヴェーダと模擬戦をすることもあった。師が言うには、「武術なんてもっぱら人殺しの技術なんだ。机上の空論で人が殺せるか」らしい。友の動きを見て、人の動きを覚えろ。そういう意味だった。
槍を振る。空気が鳴る。突き出す。風が切れた。
ただただ基礎を行うだけの日々。数学に、軍学。魔術に、武術。最近は馬術も習い始めた。
「よく耐えられますね、殿下は。」
毎日毎日勉強ばかり、と言いたかったのだろう。まぁ、正直なところ。あの頃の私は、相当しんどかったことを覚えている。
「お前もやっているからなぁ。」
一人だったら折れていた。ただまぁ、道連れがいたのだ。しんどいことでも、分け合えば何とかなる。
「かなり外道な発言されている自覚ありますか?」
「問題ないだろう?お前は私の近衛じゃないか。」
「近衛は殿下のいうことをはいはい聞くのが仕事だと思っていません?」
「違うのか?」
「……もう、わかりましたよ、聞けばいいんでしょう聞けば!」
こういうところが、いいやつだと思う。なんだかんだ言って、彼が私のいうことを無視したことはない。
「第一、私に付き合わずにいて怒られるのはお前だろう、ヴェーダ。……クビか?」
「殿下も共に抜け出されたらよろしい。というより、殿下が遊ばなさすぎることが問題だと私は愚考いたしますが。」
「そのようなことはない。」
遊ぶ暇などない。というより、遊ぶということを考えたことがない気がする。
「殿下は寂しすぎますね。私は殿下と共に遊びたいのですが。」
何をして、と思った。よくよく考えれば。私は誰かと遊んだ記憶がないな、とも。
兄上とはよく遊んだ。かけっこしたり、一緒に勉強したり、お茶したり。一緒に鍛錬したことだけはなかったが、楽しく過ごしてきたように思う。
「街に出たことは?買い物をしたことは?下らない話に興じたことは?……失礼、最後の一つはいつもでしたね。」
「そうだな、最後の一つを聞かれるのは少し意外だった。」
こうしてほとんど意味のない会話に興じているじゃないか。毎日のように。それではダメなのか、と私はいい、ヴェーダは楽しいが、面白くないと答えた。
楽しいが、面白くない。私には意味が分からなかった。
今なら多少の意味は分かる。楽しいが、面白くなかっただろう。何の変化もない、ただただ漫然とした楽しい日々に、普通は飽きる。
ただ、私は、飽きなかった。それ以外を知らなかったから、と言えば聞こえが悪い。……それ以外に興味がなかったから、だ。
「全く……付き合わされるこっちの身にもなってくださいよ。」
「諦めろ、私の近衛である以上、この運命は変わらんさ。」
「ですよねぇ。」
軽い、口調だった。だが、そこに幾ばくかの本気が混じっていることに、私は気づいていた。
気づいたうえで、見て見ぬ振りをした。私がそうしたことを、ヴェーダも気が付いたうえで……あえて何も言わなかった。
次の日。ヴェーダは、武術の訓練にも、勉強の時間にも、私の僅かな自由時間にも、出てくることがなかった。彼は一日、近衛の仕事を、サボった。
どうせ、日が明けたら彼は来るだろう。慢心していた。
槍を振っている間、勉強に取り組んでいる間、馬を乗り回している間、寝るその瞬間ですらヴェーダのことが頭を離れることはなく……しかし、彼は必ず来るだろう、という信頼をしていた。
次の日、また次の日……四日目になるにあたって、ようやく私は、この状況がおかしいことに気が付いた。
私の行くところ行くところに、必ず誰かしら近衛がいる。必ず誰かしらの見張りがいる。
ヴェーダがいるときは、もっとさりげなく、遠くに配備されていたはずの私の警護が、かなり露骨に、そうとわかるように近づいてきていた。
じろりと睨む。睨んでも、近衛たちはどこ吹く風だ。
「父上か。」
近衛たちが、近くにいたメイドたちが、執事たちが。ビクリと反応した。特に近衛の反応が一番露骨で、誰も私と目を合わせようとしなかった。
「呆れた。ヴェーダがいない分、人手を増やして私を見守ろう、ってか。」
それ以上何を言う気にもならなかった。何かを言う気はなかった。ただ、ヴェーダがどっちなのかだけが、気になっていた。
五日が経った。勉強に身が入らない。槍を振るう手が止まる。
「虚しい。」
虚しい、そう。大切な何かが、欠落しているような気がした。
何か。言うまでもないと思う。ヴェーダがいない。ここ二年、毎日のように共に過ごしたヴェーダが、傍にいない。
「……。」
はしたない、とは思った。あまり気が乗らないな、とも思った。
だが、先日の会話と今の結果を考えると、それしかない。
「抜けだすか。」
ヴェーダは誘っているのだ、と思う。いいや、実のところ、監視の目が増えたところで、確信していた。ヴェーダは、私を遊ばせたいのだ。……そのためだけに、彼は五日も、近衛の仕事をさぼっている。
決行は朝日が昇る前。登庁が始まって、しかしそれほど集まっておらず、なんだかんだとヒトの入れ替わりが激しい時。
私への警戒は厳重だ。それはもう、猫の一匹も通さんと言わんばかりに厳重だ。
だが、実のところを言ってしまえば、もうダレ始めているのも知っていた。
厠に立つ。この時、基本的に扉の近くに執事が一人。そしてわずかに離れて近衛が一人。だが、わざわざ厠を覗きに来るような者はいない。
そこまで私についてくるのは、家族か、ヴェーダか、どちらかしかいない。
スッと息を吸う。この厠は、一応王族専用の厠であるから(規定ではない。公然の取り決めという奴だ)誰も入ってこないが、だからといって王族誘拐の対策一つも取っていないわけではない。
窓。私の正面にある、窓。扉とは違い、換気を主な目的として設置された、子供一人が辛うじて通れそうな窓は……開けると、軋むような音が鳴る。そして、窓枠に乗ると、それが伝わるような、軽快で大きな音が鳴る。
だから、ここを通るなら、抜け出しがすぐにバレる覚悟をしなければならない。同時に、ここを出れば、街はもう目前だ。
「行くんだな。」
「はい、兄上。……兄上?」
振り返った。ほとんど反射的に返事をしてから、おかしいことに気が付いた。
どうして兄が、ここにいるのか。
「ヴェーダから聞いていた。こんな窮屈な生活はよくない、と。協力してくれないかと頼まれた。」
ヴェーダはまだ、近衛をクビになっていない。クビになれば、新しい近衛が私にあてがわれていたはずだ。だから、何かがあるのだとは思っていた。
「兄上も、よくないと思われますか?」
「いいや。だが、よいとも思わない。」
正直に、言おう。この発言が出た瞬間、私はそれを無関心という意味ではないかと思った。
外に出ないこと。遊びを知らないこと。それを危惧して、ヴェーダがこうして強引な手段を取ったこと。それらすべてを含めて、兄はよいともよくないとも明言しなかったのだ。
「勘違いするな、どうでもいいわけではない。……が、私が心配する必要もないと思うだけだ。」
「なぜです?」
兄上は私の目をじっと見て、にこりと笑みを浮かべて言った。
「だって、お前には心配してくれて、身を挺して改善させようとしてくれる友人がいるのだろう?なら、私がやるべきことは、お前と友人が共にいられる環境を整えることじゃないか。」
何か、こみあがるものを感じた。無関心ではない。関心があった上で、私にとって一番大事なことをしようとしてくれている、ただそれだけのことだと気が付いた。
「ありがとうございます、兄上。」
「ああ。行ってきなさい。帰ってきたら、冒険譚を聞かせてくれ。」
「はい!」
私は、滑るように、踊るように。音が鳴るのも気にせずに、窓から外へと飛び出した。
近衛が、執事が入ってくる。彼らの目は一様に、「後を追います」と雄弁に語ってくる。
「行かなくていい。」
「しかし、ギデオン様。」
「よほどの凄腕でなければヴェーダには勝てませんよ。」
それに、情報統制はかなり厳しく行った。他の貴族たちの耳に、グリッチが城外に出るという知らせが行くことはない。
心配する必要がなかった。しなくても十分なように、私と父上はかなり厳重に手配した。
グリッチのあまりにもの子供らしさのなさに、一番心配していたのは父上だ。貴族らしくなく家族の繋がりが深い我が家を築きあげた父だからこそ、人として何かを失っていそうなグリッチのことを殊更心配していた。
冷酷になるかもしれない。感情の起伏がない子になるかもしれない。それでも愛せばいいじゃないかと言い切ったのは、私だった。だが、よく考えてみればだ。精巧なゴーレムのようになった弟を愛せたかというと、私は自信がない。だから、ヴェーダの提案は助かったと、今でこそ思っている。
「何にしろ。いい友を持ったじゃないか、グリッチ。」
心配してくれる友がいる。金言を授けてくれる近衛がいる。
その重要性は、きっと。
今ではない、いつかに気が付くだろう。
城門、と言っても本殿の門、という意味だが……の前に、ヴェーダは待っていた。
「遅かったじゃないか。もう五日だぜ?」
「その気がなかったものでな。」
「……そうかい。じゃあなんで来たんだ?」
「お前がいないと、楽しくないからさ。」
一瞬、ヴェーダはゲ、というか、ギョッとしたような、そんな表情を見せた。
「うわぁ。」
「そんな気持ち悪いものを見る目で見るなよ……。お前がいないから休み時間に軽口を叩く相手すらいないんだぞ。」
「まじめに生きすぎているからですよ。たまには息抜きの一つもしなきゃ、人っていうのは疲れるものです。」
「疲れたのはお前だろう?私は今の日々でも問題ないんだ。」
言い切る。それを聞くと、ヴェーダはお手上げだというように頭を抱えた。
「でもまぁ、お前が疲れたというのなら、たまには遊びに付き合ってやってもいい。」
「なんですかそれは。……うわこれ本気だぁ。」
呆れたような一言。だが、その感覚、その軽口ですら、懐かしい気がした。
「友人の気晴らしに付き合うのも、いいだろ?」
「……いいでしょう、逆に殿下が街へ連れ出せというまで楽しませて見せますよ!」
「出来るものならやってみろ。」
それから、何度か街へ抜け出すことがあったが。
楽しかったことは、言うまでもない。




