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ルドルフ・ローレン・ドートリシュといえば、エルメイア皇国一の切れ者宰相として有名な人物だ。だが、一見して彼がそうだと分かる者はいないだろう。
初対面の人は、全員が全員、あんな穏やかで頼りなさそうな人が――と言うに違いない。
「ああ、アイリーン。よくきたね。朝早くからごめんね、今しか時間がなくて」
書斎に入るなり、にこにこ父親が手招きする。黒檀の執務机の前にある応接ソファに、アイリーンは腰を下ろして、父親が向かいに座るのを待った。
「セドリック様の件は残念だったね」
「申し訳ございません、お父様」
セドリックとの婚約は政略結婚――政治的駆け引きに関わることだった。ドートリシュ公爵家をより盤石にするための大事な一手だったはずだ。しかも婚約破棄に関する醜聞は、宰相である父親の周囲にも影響が出ているだろう。
――この父親に影響があるかどうかはさておき。
「仕方がないよね。お前は明らかにセドリック様の好みからはずれていっていたから」
悲しそうに告げられて、アイリーンは真顔になる。そしてもう一度謝った。
「……本当に申し訳御座いませんでした」
「それでも、ドートリシュの名前があればもつかもと思っていたんだけれどもね。いやはや若者の愛は強い。お前も『セドリック様が分かってくれるからいいの』が口癖で」
「本当に本当に申し訳御座いませんでした」
「さすがに落ち込んでいるのかと思っていたんだけどね。引きこもっていると聞いたし」
ふう、と父親はそこでため息を吐いた。
「なのに思ったよりお前が元気で、父様はがっかりだ……」
心底残念そうに言われて、アイリーンは頬を引きつらせた。
(相変わらずのドS! 娘が婚約破棄されたっていうのに!)
優しい父親は他人の不幸を見るのが大好きという、非常に厄介な性格の持ち主である。それは家族でも例外ではない。むしろ家族の方が、愛をもって隠さない分、ひどい。
分からない問題があると言えば喜んで横で観察され、何かに負けて悔しがっていれば楽しげに敗因を分析される。おかげでアイリーンは並大抵の中傷と挫折に膝を突かないたくましさを手に入れたが、泣くよりも解決策を提示し、落ち込むよりも戦うことを選ぶかわいげのない性格に育ってしまった。
そう考えると、セドリックにふられた原因はこの父親にあるような気がしないでもない。
「父様はもう、いつお前がフラれるかと毎日毎日楽しみにしていたのに」
「……わたくしがフラれると毎日毎日確信を得てらしたんですね」
「これ以上はあまりないなっていうくらい、みじめなフラれ方をしたのに……ああ、なんて可哀想なんだ、アイリーン……泣き濡れるお前はきっと世界一可愛かっただろうに……!」
「そういう妄想をして楽しんでらしたんですね?」
「なのにお前ときたら、すっかり元気そうで。使用人達が止めるから諦めたんだけど……やっぱり部屋に突撃すればよかった」
優秀な使用人達に感謝しながら、アイリーンはできるだけ平常心をもって答える。
「わたくし、すっぱりセドリック様のことは忘れることに致しましたから」
「そうかい。まあ、それがいいね。まさかあそこまで愚かだとは思わなかった」
薄い笑みを浮かべて、ルドルフがあっさり切り捨てた。
その躊躇のなさに、娘でありながらぞっとする。
「でもアイリーン。かといってお前の立場が正当化されるわけでも、家の名誉が回復するわけでもないんだよ」
「……分かっております。ドートリシュ公爵家に恥をかかせたことは、反省しています」
「じゃあ、本題に入ろう」
にこやかに父親が指を組んだ。楽しそうだ。
つまり、アイリーンにとって面白くない話が今から始まる。背筋を正した。
「お前、事業を立ち上げようとしていたね。薬の開発と販売、あと販路のための運送業、道路の整備のための土木業」
「? はい。ドートリシュ公爵領を産地とすることで原材料をおさえ、流通を工夫し利益を上げる形にすればいいと、お兄様に教えていただいて……」
ドートリシュ公爵領は広く豊かだ。だがその豊かさは平均値であり、土地が広い分の地方に格差が生じている。そのため、豊かではない地域――要は土地があるだけのだだっ広い田舎だ――を豊かにすべく、兄達はその土地に生息する植物の活用方法を考えたり、特産物を作ることで領民の生活水準を上げるべく奮闘している。そこへアイリーンも一枚噛ませてもらった。
公爵令嬢、しかも皇太子の婚約者が商売だ。当然、批判は出た。だが薬の開発は公共性が高いという理屈で周囲を黙らせた。扱いの難しい薬品より先に、石鹸や軟膏、消毒液といった気軽に使える安いものを市民に普及させることで利益も見こめた。
実はエルメイア皇室の財政は見た目ほど豊かではない。だからせめて自分が嫁ぐ際に莫大な持参金を持てるよう、セドリックのために――とそこまで思い出して頭を切り替えた。
「お父様にも了解いただけたはずですが、それがどうかなさいましたか」
「それらはすべてセドリック様に引き継がれることになった。公共事業になったと言い換えてもいい」
「は……?」
ぽかんとしたアイリーンに、皮肉な笑みを浮かべて、ルドルフが告げた。
「お前、事業のために設立した商会をセドリック様との共同名義にしていたね。薬というのは毒物でもある。国の管轄におくのが妥当だと言われたら反論できないだろう?」
流通の確保、販売路から薬の処方箋まで準備し、試薬の評判は上々だった。つまり。
「売上げだけ横取りですか!?」
愕然としたアイリーンの声に、ルドルフは楽しそうに笑った。
「リリア嬢がお前に任せっぱなしではいけないと進言なさったらしくてね。セドリック様がやる気になられたそうだ。セドリック様も商売をすることで庶民目線や金銭感覚を学べるかもしれないし、ま、よいことだよね」
「いえいえいえいえ、横取りですよね!? いいところだけとっていったってお話では!?」
「これはお前の落ち度だよ、アイリーン」
柔らかく言われて、はっとアイリーンは口をつぐんだ。
父親の目が笑っていない。
「本来なら一方的な婚約破棄というのは、王族相手でも批判の口実になるんだよ? なのに婚約破棄されて当然という空気を作られたせいで、うちは慰謝料どころか、事業への投資を回収する前に持っていかれたじゃないか」
「い、いたらなくてすみません……!」
「本当にお前は母様そっくりで男を見る目がないうえに、可愛いのに媚の一つや二つ売れないなんて」
非難の響きがまったくない、ただの事実の指摘にぐうの音も出ない。
苦悶しているアイリーンに、ルドルフは嬉しそうに眼を細めている。それが愛だとわかっているがもう少し自粛してほしい。
「しかもね」
「まだあるんですか」
「あるんだよそれが」
半ば睨み返すように父親を見ていると、ルドルフは文鎮の下に重ねてあった封書の束から一つだけ、すでに開封されているものを差し出した。
「招待状を昨日、頂いたんだよ。二ヶ月後に夜会がある」




