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むせかえるような甘い匂いに、ウォルトが切迫した声を上げた。
「全員、会場から出ろ! これは毒だ!」
悲鳴が上がった。一斉に出口に学生達が詰めかけその場が大混乱に陥ったが、大事なのは一刻も早くこの場所から離すことだ。吸い込んだ量が少量なら、中毒性もないし人体への影響も少ない。カイルも大声を張り上げてあおる。
「速く逃げろ、吸い込むな! 死ぬぞ!」
「ゼームス会長っ……!」
人の波に押されよろけたゼームスをアイリーンは慌てて支える。
その体に手が触れた瞬間、魔物を斃すために身の内の聖剣が反応したのが分かった。
濃厚な魔香の煙がまるでゼームスを標的にしたかのように向かってくる。
その胸に手を当ててアイリーンは叫んだ。
「ゼームス会長、しっかりしてくださ――」
瞳の焦点が合っていないゼームスの体から、ひびわれたような音がした。
角が、翼が、生えてくる。内側から食い破るように。
皮膚が変色し、爪がおよそ人ではありえない形に変わっていく。
助けを拒むように、ばちりとアイリーンの手が弾き飛ばされる。
(浄化っ――だめ、間に合わない!)
魔物になる。
弾き飛ばされた手を、アイリーンは握りしめた。
アイリーンの体の中から、外へ出せと聖剣が訴えかける。
魔物を斃せと。
「あなただったの、ゼームス会長」
歓喜の声が、学生達が逃げ出したあとの舞踏会場に響いた。
ぎりとアイリーンは唇を噛む。セレナの横にいるオーギュストが、震えた声を上げた。
「……ゼームス……おまえ、それ……」
そのか細い声は、やけに大きく響いた。
びくりとゼームスの体が動く。おびえるように。
同時にアイリーンの耳が銃をかまえた音をとらえる。背後にいるウォルトとカイルだ。
「やめてください、ウォルト先輩、カイル先輩!」
両腕をひろがげてゼームスの前に立ちはだかったアイリーンに、ウォルトもカイルも、機械的に答えた。
「魔物は殺す」
「それが俺達の仕事だ、アイリちゃん」
――たとえ友達だったとしても。
その小さなつぶやきを、セレナの嘲笑がかきけした。
「そうですよね! 大丈夫、オーギュスト。カイル先輩もウォルト先輩も味方よ。あの人達は魔物をたおすためにいるんだから」
「え……?」
事態がまだ把握し切れていないのか、呆然としているオーギュストに、セレナは得意げにいった。
「あの人達は最初から、魔物を斃すために学園に入ったの。ずーっと機会をうかがってたのよ」
ウォルトとカイルが振り向いた。そして同時に苦い何かを飲み下すように口を閉ざす。
一人、セレナがはしゃいだ声を上げる――さながら、天啓を受けた信者のように。
「さあ、早く魔物を斃してオーギュスト! そしてあなたは聖騎士になるのよ。私も手伝うから、みんなで魔物をやっつけるの。そのために色々頑張ってきたんだもの!」
敵を前にしているのに、誰一人として動かない。
その中で、ふらりとゼームスが立ち上がった。
「そうか、私は」
ゼームスが一瞬だけアイリーンを見た。
その瞳に、自嘲のような、絶望に似た何かが宿る。
「私は、お前に――お前達に、だまされたのか」
「ちがっ……」
笑い声のような咆吼が爆風を起こし、会場を粉々に吹き飛ばした。
アイリーンも吹き飛ばされてしまい、がれきになった壁にぶつかって息を詰める。
その間に銃声が響いた。外へ逃げ出した学生達の悲鳴も混じる。ゼームスとウォルト、カイルが戦い出したのだ。
「ちょっ――待……っ!」
「アイリ、大丈夫か」
駆け寄ったオーギュストが助け起こしてくれる。遠くでセレナが叫んだ。
「なんなの、もう最悪! オーギュスト、早く聖剣を出して斃して」
「おっ……前、おかしいぞ! 聖剣とかわけがわかんないっつーの!」
「大丈夫、オーギュストならできるから」
にこにこしているセレナは信じ切っている。それがゲームの知識だとしてもおかしい。
(聖剣はリリアがオーギュストに貸すだけで、オーギュストが持ってるものじゃないのに……)
それよりゼームスだ。
魔香はさっきの一撃で消し飛んだように見えた。
ならまだ浄化の見込みはある――ゼームスがまだ正気でさえいてくれれば!
「ウォルト先輩、カイル先輩、ゼームス会長! 三人とも、やめてください!」
ゼームスが赤い瞳をこちらに向けた。そのまま一直線に向かってくる。
その瞳に感情はない。
鋭く長く尖る爪が迫ってくるのを見て、アイリーンはオーギュストを突き飛ばした。
「アイリ!」
「ゼームス、お前……っ!」
「駄目だウォルト撃つな、アイリに当たる――!」
胸の上を、斜めに熱が走っていった。
制服の上と巻き付けた布がさけ、それを見たゼームスの表情が戻る。
「おん、な……!?」
動きが止まった一瞬に手首をつかむ。叫んだ。
「元に戻りなさい、ゼームス!」
聖剣をにぎるはずの手から光が爆発した。ゼームスが獣のように咆吼する。
暴風の中心で衣服をはためかせながら、アイリーンは踏ん張った。おざなりだったかつらが吹き飛び、輝く金の髪がうしろに流れていく。
「離せ、はなせはなせはなせえぇぇっ!!」
ゼームスが絶叫して暴れ出した。
つながった手から浄化を拒む反発と一緒に、感情が流れ込んでくる。
追われ、泥水をすすり、死におびえて眠れぬ夜。このまま死んでなるものかと彼は膝をかかえてうずくまる。どうして自分が殺されなければならないのか。どこかに、どこかにきっと居場所がある。誇らしく生きろ。両親はそのために死んだのだから。
でも知っている。魔物にも人間にもなれない自分は、きっとどこにも居場所がない。
(だめ、殺してはだめ――聖剣!)
魔物を斃すための聖剣がアイリーンの意志に反して顕現したがっている。
だが駄目だ。聖剣に触れれば魔王さえ一瞬で消し飛ぶ。ゼームスなど塵も残らない。
「離せ、どうして、私が殺されなければならない!」
「あなたはわたくしが守ると言ったでしょう! 信じなさい!」
ゼームスが両眼を見開いた。
その瞳に映り込んで、アイリーンは告げる。
「許さないわよ、ここでただの魔物になって殺されるなんて! 居場所がないですって? なら、わたくしのそばにいなさい!」
自分は魔王の妻になる女だ。聖剣などには負けてはならない――決して!
「信じてわたくしを受け入れなさい、ゼームス!!」
目のくらむような光が、ゼームスの体の中に飲み込まれていく。
その背中にある黒い翼が、光の粒になってはじけ飛んだ。
はっと息を吐き出すと同時に、手が離れた。
「……アイリ!」
うしろに倒れたアイリーンを迷いなくオーギュストが支えた。
うっすら目を開けたアイリーンは、逆方向に倒れ込んだゼームスの姿を確認した。頭の角はなくなり、翼も消えている。どうやら戻ったらしい。
(よかった……竜になったクロード様よりも手がかかるなんて……)
体の差だろう。クロードは完全に人間だが、ゼームスは体も半分魔物で、魔物になりやすいのだ。――さすがは2のラスボスとでもいうべきだろうか。
「……大丈夫。わたくしよりゼームスの方を……」
「アイリちゃん……君は、一体――」
「何をしたんだ。……それに、その姿は」
ウォルトとカイルが困惑顔でこちらを見ている。目をやると、金色の髪がさらりと流れた。
そこでアイリーンは初めて自分の格好が元に戻っていることに気づく。
これは誤魔化すべきか否か。そもそも誤魔化せるのだろうか。
だがその決断を出す前に、叫び声が上がった。
「何……よ、これ。何なの!?」
金切り声に、その場の全員が視線をセレナに向けた。




