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その日も、朝から忙しかった。
真顔でクロードはつぶやく。
「アイリーンを抱き枕にする方法はないだろうか」
「我が主は疲れると色ぼけるんですね」
「昨日の香水のにおいがまだとれない気がするんだ……」
「それでアイリーン様が余計恋しいわけですか。百合ってあんなだっけと思う迫力のご婦人たちでしたね……でもさすがですよ、クロード様。一瞬で勝ちましたね」
キースが新しい決裁の書類をクロードの執務机に積んだ。深いため息を吐きながら、クロードはその一枚を手に取る。
「ただの面談に勝ちも負けもないだろう」
「何を仰るやら、顔で圧勝してましたよ。説得力ありすぎましたね。その顔で『女生徒を襲う理由も必要もない』って言われるとそうですよねとしか返せない……うわ、腹立つ」
「婚約者がいるのにそんな真似するわけがないだろう。何が不服だ」
「部屋に入った瞬間に勝負がついた我が主の顔です。百合の貴婦人たち、完全に乙女になってましたからね! ま、痛くもない腹を探られるよりましです。何も解決はしてませんが」
「ミーシャ学園か。時期から言って、アシュタルトの騒ぎに便乗した愉快犯だと思うが」
「アシュタルトさん本人なら喜んでつかまえにいきましょうね! 今の今まで見つからないうえに何にも起こらないんですもん」
それもクロードを悩ませる大きな問題だった。
「何も起こらないのはいいことなんだがな。襲撃予告も狂言だろうと周囲の緊張が緩み始めている。だが僕が離れた途端に行動を起こす気だとすると、僕は皇都に帰れない」
「そう考えると、実は皇太子争いの一環なんじゃないかとも思えますね」
「このままだとアイリーンに会えない。ゆゆしき事態だと思わないか」
「分裂したらどうです? 単細胞ならできるってリュックさんが言ってましたよ!」
「……。さっきからお前の言葉の端々に悪意を感じるんだが」
「私めも疲れてるのでね。いい加減、一息入れて朝食にしましょうか」
すでに太陽は真上にのぼり、正午の鐘も鳴り終わっている。だが、朝食ではなく昼食だろうとつっこむ気力もわかず、用意をしますと言うキースの退室を見送った。
きちんと食事をとらなければアイリーンに怒られる。疲れているせいか、ぼんやりそんなことを思って苦笑したそのとき、扉を叩く音が聞こえた。
「入れ」
訪問客の予定を瞬間に頭の奥から引っ張り出す。
確か、ミーシャ学園の生徒が――とそこまで考えて、思考停止した。
扉から入ってきたのが、二本の足が生えた巨大なアヒルだったからである。
「……」
大きくふくらんだ尻の部分で扉につかえたアヒルは、ばたばたと羽根を動かしながら抜け出し、よたよたと机の前までやってきた。
そして脇にかかえていたものをさっと机に出す。
そして一緒に持っていた、紙芝居のように何枚も束ねた分厚い用紙をこちらへ向けた。そこにはわざわざ新聞記事や本の切り抜き文字で作ったらしい、文章が並んでいる。
『サインとはんこをください』
――その文字を読んで、クロードは無言で目を落とす。
差し出された書類には、ミーシャ学園の生徒会長のサインと判があった。一番下に、学園長の承認印を押す欄がある。
(……ここにサインと、判を押せばいいんだな)
妙に冷静な思考がそう処理し、羽根ペンを動かす。
それを、巨大なアヒルがじっと見守っていた。
「……」
「……」
「……。君は何故、アヒルなんだ?」
わけがわからなすぎて、そう尋ねていた。
するとアヒルは何枚も束ねた紙を器用にささっとまくり、一枚をばっとこちらへ向ける。どうやら返事を用意しているらしい。
『学園祭の準備を抜け出してきたので』
「……中は生徒なんだな?」
確認すると、妙に焦ったアヒルがまたも何枚も紙をめくり、回答を見せた。
『いいえぼくはただのアヒルです』
「……そうか。だがいくらなんでも、ただのアヒルに書類をわたすのはどうかと」
『アヒルはミーシャ学園の使者です』
「……ミーシャ学園の象徴はアヒルではなく、聖剣の乙女を象徴する百合だろう」
「クロード様! アイリーン、返事、預カッタ!」
窓の外から聞こえた声に、クロードは振り向く。
首に蝶ネクタイをつけたカラスの魔物――アーモンドだ。
腰を上げる前に、急いで書類に判を押す。ただ最後に確認はした。
「君にわたしていいんだな?」
こくこくとアヒルが何度も頷く。中にいる人間は暑そうだとずれた心配をしながら、クロードは書類を返した。持ってきたのはアヒルなのだから、アヒルにまかせていいのだろう。
「警備隊の設立で調査と抑止を兼ねるのは良案だと思う。がんばってくれ」
『ありがとうございます』
最後まで用意していた用紙で会話をすませ、アヒルがよたよたと出て行く。
すぐさま視線を窓に視線を向けると、ひとりでに鍵が開き、アーモンドが入ってきた。
「アイリーンからか。いい子だ、アーモンド」
「言ワレタ時間通リ! 俺様、デキル魔物! 魔王様、喜ブ!」
微笑み、アーモンドの頭をなでてやってから胴体にくくりつけられた手紙を取る。乱雑に扱うことはできず、もどかしくペーパーナイフで封を開けた。
その瞬間に広がった、品のある香水の香りが、彼女を脳裏によみがえらせる。
(……確かにこれは、恋人たちの試練だな。遠距離恋愛、というのか)
この香りにもっと浸っていたいような、早く中を読みたいような、真反対の衝動に板挟みにされながら、クロードはそっと手紙を開いた。
『親愛なるクロード様。
わたくしは元気です。お仕事頑張ってください。
アイリーン・ローレン・ドートリシュ』
「アヒルの着ぐるみで動揺させ、わたくしの手紙を餌に注意力を散漫にする――我ながら完璧な作戦だわ」
ふうと一息ついて汗をぬぐったところで、雨がものすごい勢いで降ってきた。
建物の陰で着ぐるみを袋につめたアイリーンは、激しくなっていく雨に顔をしかめる。
「さすがにあの返事はまずかったかしら……でも判はもらえたし、いいわよね」
これで警備隊が設立できる。そうすれば立ち回りも大きく変わる。一歩前進だ。
――などと脳天気に考えていたアイリーンだが、雨は三日三晩降り続け、アーモンドに「魔王様喜ブ、違ッタ……嘘ツキ……モウ信ジナイ……」と嘆かれ、果てはやまない雨に近くの川が氾濫しそうだと聞いて、アイザック監修のもと、再度返事を書くことになる。
そしてアイリーンの苦悶の産物である返事は太陽をもたらし、くしくもその日の夜が、警備隊初の出勤日となった。




