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陰湿なのは女のほう。
その認識を改めなければならないと、翌日、アイリーンは破り捨てられた数学の教本を見つめながら思った。
(セドリック様の婚約者だったときもやられたわね、これ。いじめに男も女もない、か)
扇形の階段のように座席が広がる教室で、にやにやと笑っている男子生徒達がいる。一人は顔に見覚えがあった。昨日、アイリーンが公衆の面前で地面に沈めた相手だ。実にわかりやすい。
オーギュストともアイザックとも、クラスが違う。授業に出るのは今日が初めてで、友人どころか知人もいない状態だ。関係ない生徒達からはちらちらうかがわれている。
さてどうするか――と思ったところで、おずおずと影が近づいてきた。
「……あの……」
「――君、昨日の……えっと」
「は、はい。レイチェル・ダニスと申します」
「レイチェル・ダニス!?」
思わず大声で復唱したアイリーンに、レイチェルがびくっと身を震わせた。それを見て慌てて言い訳する。
「ご、ごめん。知ってる子と同姓同名だったから、つい、驚いて……」
「そ、そうなんですね……」
怪訝そうにしつつ、レイチェルが柔らかい髪を揺らして頷く。
気弱そうなまなざしは小動物のようで、申し訳ない気持ちになった――のだが。
(2の悪役令嬢なんだけど。レイチェル・ダニスって……)
こんな弱そうな可憐キャラだっただろうか――と考えて、思い直す。
男性の前ではか弱い女の子を演じるしたたかなキャラなのだ。
レイチェル・ダニスは前作の悪役令嬢だったアイリーンと違い、身分も容姿も平均より少し上なだけで悪役として地味だが、とにかく立ち回りが小賢しい。おとなしい顔でヒロインにコバンザメのようにくっついておきながら、「自分は平凡」という劣等感をこじらせて陰口を周囲に流し、攻略キャラクターを横からかっさらうのだ。
(だとしたらこの親切さはまさか演技……なのかしら……)
男子生徒から殴られていたあの可哀想な姿が印象的なせいだろうか。とてもそう見えない。
「あの、教本……教務課が、教本を忘れた生徒への貸し出しをしていて」
「おいレイチェル! 何してんだ、こっちこい!」
苛立った声が、昨日の男子生徒から飛んでくる。それに首をすくめているのは、やはり演技とは思えなかった。昨日助けてもらったから、婚約者が怒ると分かっていても勇気を出して助言しにきたようにしか見えない。
(……いい子よね。それにゲームでも、なんか可哀想だったし……)
学園祭のイベントでヒロインと争うことになり、それに勝ちたくてレイチェルはお粗末な陰謀を巡らせるのだが、それが暴かれてしまい、断罪される。そのときのレイチェルの「私だって特別になりたい」という台詞に共感するプレイヤーは多かった。
それに、ゲームの設定より自分の直感を信じたい。レイチェルに笑顔を向ける。
「気にしないでいいよ。君のせいじゃない」
レイチェルが目を見張る。その目の前でアイリーンはゴミになってしまった教本の破片をかき集め、ゴミ箱に叩き込んだ。
そしてレイチェルと、その向こうにいる男子生徒に届くように言う。
「ぼくは教本がなければ困るほど無能じゃない」
皇太子の婚約者だったときに散々やられたことだ。最終的には相手が根を上げたため、被害者はアイリーンなのにまるで加害者のような目を向けられたこともある。
が、レイチェルが気に病むくらいなら、ここでもそれでかまわない。
席は決まっていないので、必然的に一番生徒が少なくなるだろう教壇の真正面に陣取って座る。その後にすぐ教授がやってきて、授業が始まった。
(さあ、わたくしはこれからどう動くのが効率的かしら?)
聖剣の乙女が現れる前のミルチェッタ地方は、魔物との戦いが激しい土地だった。魔香はその過程で生まれた偶然の産物で、魔物を引き寄せ凶暴化させる反面、人間になじませればその身体能力を上げる。要は強化人間を作れるのだ。そのため、ミルチェッタ地方では過去、魔香を兵士に使い魔物と戦わせようとした。
しかし中毒性が高く廃人になってしまう者が続出したため、のちに聖剣の乙女を崇拝しエルメイア皇国最大宗教となるミルチェッタ教会に管理をまかせ、その存在ごと隠蔽した。しかも過度の情報統制で、精製に必要なオピムという材料が何をさすのか分かる者がいなくなってしまい、現在では精製不可能になっている。
だがゲーム内ではオピムについて描写があった。真っ赤な花を咲かせ卵大の実ができる植物から作られるもの。その実を傷つけて取った乳液を乾燥させ、粉末状にしたものをオピムと呼ぶ――要は阿片をオピムとゲームでは描写していた。つまり、オピムを作るために必要なのは芥子、魔香を作るには芥子が必要だということになる。日本では育てることを禁止されている植物をキーアイテムとすることで、禁断さを匂わせたかったのだろう。
ちなみに、この世界では芥子も阿片もまだ禁止物ではない。現に、セドリックに奪われた農園にも芥子があったくらいだ。
だから学園内に自生している芥子の把握と回収を、クォーツとリュークに任せた。あえて一部残すことで、採取しようとする者を暴けるようにもしてある。
(ひとまず魔香の件の対処はしたわ。あとは、きちんとミルチェッタ公国が滅びないルートにのせること……!)
クロードがほぼエルメイア皇国を滅ぼすルートが大半だったように、2でもゼームスがミルチェッタ公国を滅ぼすルートが多い。その中で確実にミルチェッタが滅びないのは、オーギュストルート。つまりオーギュストに聖剣を貸し、ゼームスを斃すルートだ。
ただどうもそのルートに乗る気になれない。
(とにかくゲームは始まってるようだし、まずは主人公のセレナに会って、ゲームの進行具合を確かめないと……)
「――ールア。アイリ・カールア!」
まだ耳に慣れない偽名に、一拍遅れて気づいた。教師に指名されたのだ。
はい、と立ち上がったアイリーンに、気難しそうな顔をした数学教師がチョークを持ったまま言う。
「転校生。初日から騒ぎを起こし、教本もなしに授業を受ける。ずいぶん余裕だな。さぞ優秀なんだろう。――百三十七頁の問いの答えは?」
「三です」
迷わずそう言って、アイリーンは座り直した。
目を丸くした教師の顔で、教本を広げていない生徒へのつるし上げだったとわかる。注意すればいいのに、いやらしいやり方だ。その証拠に、教師の答えは苦々しかった。
「……正解だ」
おお、と少しどよめきが上がった。
「運がいいやつだ」
教師が小さく吐き捨てる。しかしもう一度挑む気はないのか、授業はそのまま再開された。
なんのことはない。ゲームで同じ問題をヒロインが授業中に当てられていた。だから覚えていただけだ。
しかし、昨日の一件だけで教師にまで目をつけられるのか。これだと目立たずヒロインのセレナに近づくのは相当面倒かもしれない。一度挨拶をすればいいわけでなく、定期的に接触しなければならないのだ。それなりの理由が必要だろう。
(セレナは生徒会の書記だから目立つでしょうし……アイザックが怒るわね)
多少の無茶は仕方ない。ある程度の算段を立てたそのとき、午前の授業が終わる鐘が鳴った。
教本がないおかげで身軽なアイリーンは、そのまま階段をはさんだ隣のクラスへと向かうため教室を出る。目当てはオーギュストだ。せっかくうまく顔見知りになれたのだから、使わない手はない。
だが階段付近の二つの人影に、足を止めてしまった。
(――セレナ・ジルベール!)




