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――話は、二ヶ月ほど前にさかのぼる。
「……クロード様」
「なんだ」
「執務中は控えてくださいと何度も言ってますでしょう! もう、いい加減離れてくださいませ……!」
廃城の執務室で花瓶の花をいけていたアイリーンは、背後から抱きついたままの魔王に、眉をつり上げた。だが魔王の方は、アイリーンの肩に頭をうずめて動かない。
「疲れたんだ」
「でしたら寝室で仮眠されたらどうです」
「君が一緒に寝台に入ってくれるなら」
耳元でささやかれ、反射的に手が出た。
だがその手はあっさりと捕獲されてしまう。しかも腰に回された手が体の線をなぞるようにあやしい動きをみせ始めた。その手を押しとどめながら、アイリーンはきっと背後の魔王を睨めつける。
「ひとりで! ゆっくり! お休みになった方がよろしいかと思いますが……!?」
「つれないことを言う。婚約者に癒やしを求めているだけなのに」
「からかってらっしゃいますでしょう!」
「寝台で君と一緒に休む件なら本気で大歓迎だが?」
真顔での答えに、手の甲をつねりあげてやった。ずる賢い婚約者は、声色を切なく変える。
「君を抱いて眠りたいだけだ」
「……。わ、わたくしを抱いていても仕事は終わったりしませんわよ」
「分かっている。ただ恥ずかしがって嫌がる君を見ていると癒されるんだ」
「怒りますわよ!?」
「君に怒られでもしないと、仕事などやってられない。――まったく、厄介な案件ばかりだ。人間は魔物と違って注文が多いな」
疲労がにじんだ声音に強く言えなくなってしまった。
皇太子に復帰してからのクロードは休みなしだ。公的な場にも顔を出すようになったし、毎日書類の山にうもれて執務に追われている。特に魔物と人間の調整が問題になるような案件を多く請け負っているらしい。なのにキースやベルゼビュートという信頼できる部下が少なく、人手が足りない。
「あの……わたくし、クロード様を手伝いましてよ?」
だが、何度目かになるアイリーンの申し出に対するクロードの回答はいつも同じだ。
「それには及ばない」
「わたくしはクロード様の婚約者です。クロード様を支えるのは当然のつとめですわ」
「こうしてくれるだけで十分支えてくれている」
ぎゅっと一瞬だけ強く抱き締めたあと、クロードは離れた。アイリーンが不満顔なのは分かっているだろうに、再度執務机に向かう。
一度唇を引き結んでから、アイリーンは執務机の前に立った。
「わたくし、お飾りの皇妃になる気はありませんわよ」
「知っている」
「ではどうして手伝わせてくださいませんの」
「今、皇帝に試されているのは僕だ。人間の王にも、魔物の王にもなれるか」
クロードが深紅の瞳を持ち上げた。
「なら僕がなんとかすべきだろう。――心配しなくても君のすべきことはある。僕に出迎えのキスをしたり、膝枕をしたり」
「ですから、そういうのではなくて!」
「と、苦手意識をもってさけるのをやめる努力だ」
ぐぐっとアイリーンは返事につまった。クロードが羽根ペンを持ち、仕事を再開する準備をしながら告げる。
「不安がらなくても、君はちゃんと婚約者として立派にやってる」
淡々と言われ、まばたいたあと頬が赤くなった。
(ずるいわ、このひとは)
アイリーンが焦る理由をちゃんと把握している。もちろん、もっとクロードの役に立ちたいし手伝いたいのは本音だ。だがそこには、一度目の失敗の影もある。
アイリーンは一度、婚約者から公衆の面前で婚約破棄をされた。
好きな女ができた、お前はもういらない――そう突きつけられた、そのときは前世の記憶だとか自分がこのままだと死ぬというトンデモな展開に対処するのでいっぱいいっぱいで、失恋の傷などにかまっていられなかった。
だからすべてが落ち着き、二度目の恋を手にした今になって、アイリーンは半端にしてきたその傷と向き合うことになっている。
クロードと元婚約者――セドリック・ジャンヌ・エルメイア――が異母兄弟で、皇帝の地位を争う間柄になったことも、不安の一つかもしれない。そのセドリックの婚約者として、リリア・レインワーズという少女がついていることも。
「忙しいというだけで、特に困ったこともないんだ。君にはオベロン商会の経営もあるし、少しくらい肩の力を抜いてすごせばいい」
「……クロード様が不眠不休でやってらっしゃるときに、そんな」
「だからこそだ。君に手伝ってもらうときは、ろくでもない時だろうからな」
つまり、アイリーンを戦力外としているわけではない。そのことにまずほっとした。
恐ろしく働いているのに目の下にくま一つ作らない、完璧な美形の尊顔を見つめる。たとえくまができてもこの魔王は美しいのだろう。
「分かりましたわ。では、クロード様の服を選ぶのはどうです? 二人で並んだときに見栄えがいいものを用意したいと思ってましたの」
「ああ、そうだな。助かる。代金はキースに」
「わたくしが出します。オベロン商会の経費で――そうだわ、魔物達にも外行きの服を用意させましょう。これもクロード様を含めた魔物を飼うわたくしの仕事ですわね」
にこにこと笑うアイリーンに、クロードが本日初めて複雑そうな顔をした。
「僕はそもそも君に飼われてないし、そういう立場でもないとだけは言っておく」
「安心なさって。そう思っているのはクロード様だけですわ」
「逆だ、君だけだ」
そうは言っても、『聖と魔のレガリア』という乙女ゲームでラスボスとなるこの人がアイリーンに攻略されたのは事実だ。余裕の表情で、まっすぐ背筋を伸ばす。
「ではさっそく、魔物達の方から取りかかりますわね」
「……僕からではなくて?」
「あの子達の方が大変ですもの。クロード様は布をかぶせておいても美形ですし」
「たまに僕の扱いが雑すぎないか……?」
「魔王様! タイヘン! タイヘン!」
背後から蝶ネクタイをつけた巨大なカラスの魔物が飛び出てきた。すでにクロードの婚約者となった自分に監視は必要ないはずだが、クロードはアイリーンの影から魔物が出入りできるという魔法を解いてくれない。慣れたし、魔物の呼び出しに便利なので、解除してもらおうと思わないが。
「まあ、どうしたのアーモンド」
「人間! タクサン! 森、囲ム!」
森、というのは魔王であるクロードと魔物達が住む元廃城を取り囲む森のことだ。クロードが結界を張っているため、普通の人間はたどり着けない。だが、何かあると森の周囲を兵で囲まれ威嚇されることは今までにもあった。
「クロード様は魔王なだけでなく、この国の皇太子でしてよ。何がありましたの」
「魔王様、反乱! アシュタルト!」
「我が主、いますよね!?」
両開きの執務室の扉がばんと開いた。息せき切って走ってきたらしいキースが、クロードの応対も待たずにまくしたてる。
「さっきミルチェッタ地方の魔物代表として、アシュタルトという魔物からの声明が届きました。――あなたの命令に反して、人間の村を襲ったそうです」




