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突風が巻き起こった。悲鳴も上げられないのか、寝台の上でセドリックが頭を抱えて丸まろうとする――が、すぐに風に吹き飛ばされて、壁にぶつかり、倒れこんでしまった。
「よ、くも」
ぴしり、と何か音がした気がした。クロードが顔を半分覆って、後ずさる。その手がびっしり鱗に覆われ始めていた。
やっとアイリーンは何が起こっているのか自覚する。
(魔王の覚醒イベント! 回避したはずでしょう、どうして……え、わたくし!?)
大事な女だ、というベルゼビュートの言葉が蘇った。それはつまり――。
「セドリック! ひょっとして……」
「リリア! 聖剣を早く! 魔物になるぞ、やった……!」
半壊した壁からやってきたリリアに、セドリックがすがる。状況を把握して呆然としていたアイリーンははっと我に返った。
(クロード様が怒って魔物になったら、あの三人には良いことずくめなんだわ……!)
魔王を斃せば、リリアは押しも押されぬ救国の聖女。皇妃に相応しくないなどと、誰も言わない。むしろ女帝と皆がかしずくだろう。
「んー! んー!」
アイリーンは旋風に巻き込まれて必死に踏ん張っているアーモンドに向けて声を上げた。
それに気づいたアーモンドがやってきて、まず手かせをつつく。そんなくちばしでと思ったが、さすが魔物だった。勢いよく振り下ろした一撃で、ばりんと打ち砕く。
自由になった手で、猿ぐつわになっているハンカチをほどく。
「アイリーンに、何を、した」
その間にもぴしりぴしりと、硝子を一枚ずつ割っていくような音と一緒に、クロードの変化が続いていた。まるで人間という存在をはぎおとしていくように、腕に鱗が広がり、爪が伸び、手が前脚に変化していく。
「あ――あ、ア」
「クロード様! わたくしは無事ですから、落ち着いてください!」
目が合った。大きく赤い瞳を見開いたクロードが、一歩下がる。
「見る、な」
足が、止まってしまった。その、自分を恥じるような仕草に。
「……見ないで、く、レ。僕は、君を、助けようと、なのに」
「魔王」
その声は魔を打ち払う、聖なる鐘のように響いた。
そして光が輝く。聖剣の輝きだ。魔王を断罪する、聖女の剣。
「可哀想に。辛いでしょう、感情を殺して生きていくことは。大切な女性を傷つけられて、思うまま怒ることもできないなんてそんなの、人間ではないわ」
高潔さと残酷さをもって、聖女が微笑む。その剣先めがけて、アイリーンは迷わず走った。
「あなたの悲しみを止めてあげる――!」
その光は、朝日だったのか、魔王を斃す聖なる光だったのか。
アイリーンの目の前で、リリアが大きく目を見開いた。
その手には、聖剣。そしてその聖剣は、半分ほどアイリーンの体に埋まっている。
「――あなた達を侮っていて悪かったわ。わたくしは鈍感ね。自分が狙われていることに気づかなかったなんて。キース様を笑えないじゃないの」
「は……は、はなしなさい!」
アイリーンの体から聖剣を引き抜こうとリリアがその手を動かそうとする。だがアイリーンはその手首をつかんで、離さない。
「な、何を考えているの、聖剣がいくら人間にきかないからって……!」
「なに、言ってるの……ものすごく、痛いわよ……!! きかないって本当、なんでしょうね」
腹を刺されたらこんな痛みがするのだろうか。血でも吐けば楽になるのか。
だが笑え。相手にしてやったなどという優越感をかけらも与えるな。徹頭徹尾、自分の方針は変わらない。
「ねえ。……聖剣が人間に刺さったら、どうなるのかしら」
「はあ!? ど、どうなるって、そんなの」
「人間に聖剣を刺す聖女なんて、聖剣の乙女失格、じゃないかしら。――そして刺した相手が、聖剣の乙女の血を引く、人間、だったら?」
聖剣はアイリーンの体に刺さっている――のではない。埋まっている。
リリアが両目を開いた。やっぱりこの女、馬鹿じゃない。
「――クロード様は殺させない。聖剣はわたくしがもらう」
両足を踏ん張って、リリアの両手を自分の方へ引き寄せる。
光が炸裂した。ずぷずぷと聖剣が自分の体に埋まっていく。だがその先は決して背中から出ない。アイリーンの体に入っていくのだ、激痛と共に。
「セ、セドリック! マークス! アイリーン様をどうにかして!」
「アーモンド!」
名前を呼ぶだけで、アーモンドとその仲間達がセドリックとマークスを阻むべく、飛んできた。決して傷つけず、だが視界を防ぐように動き回るその姿に、笑みがこぼれる。
「しょ、正気じゃないわ、こんな……っ!」
柄部分まで埋めたせいで、リリアと体が密着する。その鼻先で、脂汗をかきながらアイリーンは笑ってみせた。
「この物語の主役は、わたくしなの」
息を呑んだリリアの体を突き飛ばし、自分の手で聖剣を埋める。悲鳴を押し殺して激痛を飲みこむ――それが、ふっと消えた。
聖剣をなくしたリリアが脅えたように首を振りながら、後ずさる。だがアイリーンはかまわず、振り向いた。
薄闇の空の下に、巨大な漆黒の竜がいる。綺麗な赤い瞳が、呆然と見開かれていた。その宝石みたいな目の中で、アイリーンはころりと笑う。
「あら……クロード様、なかなかかっこいいですわね」
「……」
「そのままわたくしが飼って差し上げてもいいですけれど、ねえ。やっぱり夫婦生活が大変そうじゃありません?」
そう言って、その硬い鱗に覆われた胸元にそっと体を預ける。目を伏せた。
「助けに来てくれて有り難う御座います。安心して泣いてしまいました。悪い人。わたくしをまんまと泣かせましたわね? 責任をとって頂かないと」
大丈夫。確信があった。ゲームのリリアにできた程度のことが、自分にできないわけがない。
「さあ、わたくしを愛してるなら戻ってくださいな」
恐ろしい夜が明けて、魔法がとけるように、鱗が光になって、砕け散る。
ゆっくりと目を開くと、黒い髪に赤い目をした、憎らしいほど美しい魔性の王が、自分を抱き締めた。




