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『お前は人間だ。……僕についてこなくていい』
漆黒の髪と紅玉の瞳を持つ魔王と呼ばれる主は王城を去る時、そう言った。
さすが魔王、残酷だ。今更、戻れるわけもない。魔物達との生活も悪くない。あまりの考えなしに頭痛がすることがあるけれど、それは人間だって同じだ。
それにあなたはまだ人間だ。人間らしい幸せをつかめる日だってくるかもしれないのだ。
だからどうか、自分があなたの望みを叶えるから、人間に絶望しないで欲しい。
『土地が欲しい、だと? 魔王に売って欲しい? ああ、いいだろう』
でも思う。人間にしかなれない自分は、思ってしまう。
『その代わり金になる魔物を我々に差し出せ。魔王の信頼が厚いお前ならうまく間引けるだろう? できないなら土地は渡さん。狭い土地で魔物同士、せいぜい共食いでもすればいい。なんといっても魔王様は人間と争わないのだからな』
一度きりで終わるはずだった。自分が一度だけ手を汚せばすむ。そう思っていた。
まだ幼かった自分は、一度ついた汚れは落ちないと、そんなことも分からずに。
『この値段で売ると契約書でも交わしたか? いいじゃないか、また魔物を売ればいい』
『あの土地を取り上げられたくないだろう。魔物達がまた棲む場所をなくしてしまう』
『騙した? 人聞きの悪い。魔王を裏切っているのはお前じゃないか』
――こんな世界なら、あなたはいっそ、魔物であった方が幸せではないかと。
いつだって自分はそう思ってしまうのだ。人間らしく。
「あら、お目覚めになりまして? キース様」
ぼんやり目を覚ましたキースは、寝台の脇に腰掛けてこちらを見下ろしている人物に気づいた。カーテンの隙間から差し込む朝日を背にしており、顔がよく見えない。だがその鈴の鳴るような上品な声と、日の光に煙る金の髪には覚えがある。
問題はここが自分の部屋で、どうして彼女が、ということだろうか。
「……アイリーン様。夜這いならぬ、朝這いとは――っ」
とりあえず上半身を起こそうとしたら、首元に刃物が光った。目だけを素早く動かすと、ベルゼビュートが寝台脇で腰を低くして気配もなく潜んでいた。
「ベルゼビュート。ここ第五層ですよ。どうして結界の外に出てるんです?」
「今の俺はアイリーンの忠犬だ」
「騎士以下になってますが、それでいいんですか」
「それがクロード様のためだと言われた」
その回答に、内心で自嘲した。
(これは、横領からバレましたかね? まあ大人しく見すごしていたなんて、不審がられてもしょうがないですけど)
しかも先手を取られた。彼女は賢い。勘も良いし、度胸もある。どう口車にのせたのか、ベルゼビュートも丸め込んできた。
しかし何をどこまで、どれだけ知られたのか。証拠はそうそうつかめないはずだ。
「ねえキース様。あなた、悪いことなさってるでしょう。クロード様に黙って」
キースは黙ったままいつもの笑顔を保った。同じ人間の少女は、唇を歪めて笑いかける。
「わたくしも仲間に入れて下さいません?」
「は?」
意外な申し出に眉をひそめる。と同時に、鼻先にぴらりと書類を垂れ下げられた。
ぎょっと目を剥く。首元に突き付けられている剣のことも忘れて飛び起きようとしたが、ひょいとその紙は持ち上げられてしまった。
「い、いいい一体、それをどうやって手に入れたんです!?」
「ふふふ、キース様。あなたの唯一の弱点は、人間側に味方がいないことですわね。――いいことを教えて差し上げますわ。あなたは頭がいいから分かるでしょう。恐らく近いうちに、聖剣の乙女が目覚めます。リリア様よ」
どうしてそんなことが分かるという疑問と一緒に、一気に頭の中にその後の展開が思い浮かんだ。
「……聖剣があれば魔王ですら敵ではない。クロード様の命が狙われる。だが聖剣は魔物にしか――人間のままのクロード様にはきかない。クロード様を竜に変えてしまうために、何か仕掛けてくる……? ああ、そう言ってベルゼビュートさんを丸め込んだわけですか」
「大正解。さすがね。廃城の中で誰より世情をよく分かっているのではなくて?」
「高官ですからね。……ただ、これは本当に聖剣の乙女が目覚めるならの話ですが?」
「そこは信じてもらうしかないわ。そのうえで問題よ。言い伝えによれば、魔王――クロード様は怒りや憎しみや人間への負の感情を抱えきれなくなった時、本来の魔物の姿、すなわち竜に変化し、本当に魔物になってしまう。だったら人間は何をすると思って?」
「……魔物を売る、とかですかね? 魔物を苦しめればあの方は人間を憎む」
わざとかまをかけてみた。するとアイリーンは目を丸くしたあと、小さく笑う。
「だからあなたはこんなに頭が回るのに、ゲームでいいように使われて死んだのね」
「は? ゲーム?」
「こっちの話よ、気にしないで。あなたの回答は半分正解、半分間違い。正解はこう。あなたの裏切りを見せつけ、殺させる。そうすればクロード様は人間に絶望するでしょう。唯一信じていた人間に裏切られ、しかも自分が殺すんですもの。当然ですわね」
指摘されて、大きく目を見開いた。そうだ、基本的に結界の中にいて守られている魔物より、自分の方がよほど狙いやすく、使いやすい。
「さっきも言ったわ。あなたの弱点は唯一、人間の味方がいないこと」
寝台から立ち上がり、アイリーン・ローレン・ドートリシュが振り向く。
「だから、わたくしを味方になさい?」
そう言って、彼女は裏切り者に微笑んだ。




